ロジカルシンキングの弱点を考えてみた:ロジックを超えたロジックの話

ロジカルシンキングについて日頃から思っていた疑問をサクッと書いてみました。

ロジカルシンキングについて日頃から思っていた疑問をサクッと書いてみました。Wikipedia先生に聞いてみると、ロジカルシンキング(論理的思考)とは、

一貫していて筋が通っている考え方、あるいは説明の仕方のこと

ビジネス書では、

物事を体系的にとらえて全体像を把握し、内容を論理的にまとめて的確に伝える技術

なんて説明されてたりします(定義は議論があるところですが、ここでは触れません)

現代社会の多くの意思決定において、ロジカルシンキングはとても大事です。例えば、社内で新規事業をする時に担当者がプレゼンする場合や、経営者が投資家に説明する場合などです。

筋が通らない矛盾があれば却下されるでしょうし、大多数が 納得できるようなロジカルな説明ができれば、意思決定はスムーズに進みます。

このロジカルシンキングの弱点は、他人を説得する際には絶大な力を発揮する一方で、物事の成否を見極めるには、それほど役に立たない点だと思います。他人を説得する上では有効だが、自分がうまくいくかを検討する際には頼りにならない、という何とも不思議なツールのように感じます。

「他人も自分も納得できる ≒ 成功の可能性が高い」という一見するとスルーしてしまいそうな組み合わせが、問題をややこしくしてるような気がしていました。

注目したいのは、ロジカルシンキングの説明の中でよく出てくる「体系的」や「全体像を把握」といった箇所です。

人間は「全体像を把握」したり、物事を「正確に認識」したりすることが本当にできるのか?ここらへんがひっかかります。

よくある新規事業を例に考えてみます。

■ある新規事業の例で考えてみる

仮に、新規事業を検討している担当者が社内でプレゼンテーションをするとしましょう。海外ではその市場は注目されており、まだ日本では誰も手がけていないビジネスだとします。

担当者は、そのビジネスの可能性を、市場の成長性・海外プレイヤーの成長率・自社が参入した場合の競争優位性などを材料に、経営陣にプレゼンを実施します。経営陣はその説明をもとに自分達でも成功角度を見積もり参入の意思決定を行います。

もし、この時に同じことを検討している会社が100社あったらどうでしょう?

市場は一瞬で競争過剰に陥り値下げ合戦に巻き込まれて充分な利益が出せなくなるでしょう。ただ、今現在に誰がどんな事を考えて何の準備をしているかをリアルタイムで知ることは、世界中を監視できる立場にないと不可能です。この時点で、競争環境を判断する材料が抜け落ちていることになります。

さらに、ロジカルかどうかの " 判断 " はその母集団のリテラシーに依存します。例えば、意思決定を行う経営陣の中に「大手企業が来月に参入する」という具体的な情報をキャッチできる立場の人物がいれば、計画を再検討するように言うかもしれません。

つまり、構築できる「ロジック」はその人がかき集めれられる情報の範囲に依存し、それを見て「納得」するかどうかは意思決定を行う母集団の背景知識に依存してしまう、という事になります。

論理的思考の問題点は、人間が自分達が認識できる現実の範囲を「全体像」と捉えてしまう点にあります(実際はそれが「一部」であったとしても)。

ロジックを構築する土台となる材料自体が不正確さを含んでしまっているので、しばしば人間の将来に対する認識はあっさり裏切られてしまいます。

周囲を納得させるロジックを形成するための「思考」と、それがうまく行くかを判断するための「思考」は分けて考える必要がありますが、現状では意思決定においてこの2つがごっちゃになってしまっている点に問題があるような気がしますね。

■自分の認識のほうを疑ってみる

自分の過去の意思決定にしても、とてもその時点ではロジカルとは言えないものが多いです。例えば、こんな投資です。

  • (当時)まったく経験が無いにも関わらずグローバル展開を始める
  • (当時)広告主がほとんど存在しないAndroidにフォーカスする

これらはその時点では事例も資料も示せないので「納得」できるロジックを示すことは難しかったのですが、時間の経過と共に当初は認識していなかった事が明らかになっていき、結果として "後付け" の納得感が形成されていきました。自分がやっている事は変わらないのですが、"ロジカルさ" のほうが後から付いて来たような印象です。

これを経験した時に、日常的に行われている意思決定プロセスには何か欠陥があるんじゃないか?と疑問を感じるようになりました。

それまでは自分の認識をもとに論理的な筋道を作っていましたが、そもそも自分の認識はそんなに信用できるものなのか、というよりも、人間に現実を正しく認識する能力はあるのか、を改めて考えてみるようになりました。

そこで、こんな仮説を立ててみました。

  1. 社会は、人間が現実を正確に認識でき、論理的に説明できることを前提に作られている
  2. しかし、現実の複雑さは人間の理解力や認識能力を常に超えている
  3. そのため、人間の認識は何度も裏切られるが、後付けで合理性を作ることで人間は現実を理解できることにしてきた(そして、②に戻る)

もしこれが正しければ、現段階で得られる情報は不完全であり、自分自身の認識も誤っている可能性を常に考慮に入れた上で、思考する必要があります。

動き出せば、新しい情報が手に入り「認識」が常時アップデートされるはずです。むしろ、限定的な情報や認識しか持ち得ない開始前の段階で、完璧に矛盾の無いロジックを構築できるほうが不自然と言えます。

そのため、"人間の認識には限界があり、そこから作り出される「ロジック」にも限界がある" ということをまず前提とします。そして、将来的に新しい認識が得られるであろうことを考慮に入れた上で、一定の論理的な矛盾や不確実性を敢えて許容しながら、現在のロジックを構築します

つまり、現在ではなく将来を起点にロジックを作ろうとするので、その時点での "納得感" はある程度犠牲にする、という考え方です(どれぐらい犠牲にするかは個人差があると思いますが)

これを『ロジックを超えたロジック』と勝手に呼び、今も頭の隅に置くようにしています。「自分が現実を正しく認識しているとは限らない」という自分への戒めみたいなものです。なんだか無限ループにおちいりそうな話ですね。。。笑

■人間の理性の限界を指摘した人達

同じようなことを考えてる人は他にいないか調べてみましたが、やっぱりたくさんいますね。もう何十年も前にフリードリヒ・ハイエクというノーベル賞を受賞した経済学者が『自生的秩序』でこの事を指摘していました。超簡単に言うと、

人間の合理性には限界があり、将来を正確に予想したり計画したりできると思うのは理性の傲慢である

とする考え方です。

これはかつて一部のエリートが社会や経済を正確に設計する事ができるという考え(いわゆる全体主義や計画経済)を痛烈に批判した時に使われました。実は、この考え方は起業家のスピーチにも良く登場します。

例えば、TwitterのCEOが卒業生に向けたスピーチでは下記のように語っています。

人は誰も自分にどんな可能性があるか、社会にどんな影響を与えるかなどと予想することも計画することもできない。物事の意味は、事後に他者が決めるもの。勇敢な選択をして、賭けに出て、とにかくやってみれば、世の中に影響を与えることになる。

スティーブ・ジョブズの有名なスピーチの『connecting the dots』の話も、同じ事を語っています。

大学時代に先を見て『点を繋げる』ということは不可能でした。しかし、10年後に振り返ってみると、実ははっきりとしているのです。繰り返します。先を見て『点を繋げる』ことはできない。できるのは、過去を振り返って『点を繋げる』ことだけなんです。だから将来、その点が繋がることを信じなくてはならない。

■ロジカル過ぎると選択肢が狭まるかも

以前に書いたブログにも通じる話ですが、ビジネスではなく、人生の選択をロジックに頼ってしまうと、選択肢を狭めてしまう危険性があるなーとよく思います。

論理的思考は手元にある過去の情報を組み合わせて筋道を立てる作業と言えます。これまで見てきたように、正確な認識がそもそも難しい現在や未来に対してはうまく機能しない場合が多いです。

現在の選択も論理に頼ってしまえば、過去の認識が作り出したパターンをなぞるだけの将来になってしまいかねません

「認識」とは、自分が今いる階数のようなものだといつも感じています。2階から見える景色を前提にあれこれ議論するよりも、早く50階に行くエレベーターを見つけたほうが良さそうです。50階であれば2階では見えなかった様々な景色がきっと見られるでしょうし、そこからは全く別の答えが導き出せる可能性があります。2階から見たら「海」だと思い込んでいたものは、50階から見たらただの「湖」であることがわかるかもしれません。

ただ、このエレベーターがどこにあるかは誰も教えてくれないし、探してみないとなかなか見つからない、そんなモノのように感じています。

個人的には、限られた認識をもとにロジックの緻密さを詰めるよりも、認識を広げることに最大限の努力をしたほうが近道だったことが多い気がします

■実は「あべこべ」なことが多い現実

理性の限界を認識した上で意思決定するとなると難しく聞こえますが、世の中を眺めてみると「あべこべ」なことが多いです。

例えば、スタートアップへの投資を行っている『Ycombinator』創業者ポール・グレアムは自著で、「どのスタートアップが大成功するかなんて誰にもわからない」と言い放ち、一定の基準を超えたスタートアップには等しく投資を実行しています。その中から、『Airbnb』や『Dropbox』のような1兆円規模のメガベンチャーを輩出します。

普通、自分がうまくいくと確証が得られたからこそ投資をしますよね。先見の明に自信がある賢い人ならなおさらです。しかし、グレアムは「将来を正確に予想することは誰にもできない」という前提の上で、自分も例外扱いしませんでした

つまり、グレアムは自分も認識できない可能性に投資することでリターンを得ている人と言えます

一方で、長年の勘と経験をもとに、事業計画の妥当性と企業の成長性を自分達が納得いくまで数ヶ月も議論して "ロジカル" に投資決定をする多くの人が、グレアムのリターンに届かないのは、また何とも「あべこべ」な話です。

ITや株式投資などの物理的な制約を受けにくいビジネスは上位1%が全体の99%の利益を稼ぎだす非対称性を持つ傾向が強いです。グレアムはここに潜む矛盾をうまく突いています。まるで他人のロジックのさらに向こう側にロジックを構築しているようにも見えますね。

見渡せば、一貫して論理的に機能しているように見える社会も、様々な矛盾を抱えながら回っている事が本当に多いなと感じます。

■ロジカルシンキングは説得ツールと割り切る

現在の意思決定プロセスにおける問題は、他人を納得させるための技術が、いつの間にか意思決定をする上での「判断軸」としての役割を期待されてしまった事にあると思います。

ロジカルシンキングは他人を説得するための手段としては非常に優れたツールと言えますが、物事の成否を見極めたり将来の可能性を探るための手段としては少々荷が重いなと私は感じます

ふと、科学がまだ充分に発達していなかった頃は、人間は今よりも「世界は解らないことだらけである」ということを深く認識していたのではないかと思いました。文明の発達で、人類が世の中を「理解できる場所」にしていった結果、論理を拠り所に物事を考えるようになっていき、理解できないものや不確実なものを意識の外に追いやっていくようになったのだと勝手に想像してしまいました。

私は自分の認識がしばしば裏切られるのを経験するたびに、「まだまだ現実というのは複雑でわからんもんだな〜」と感じます。今後はIoTや人工知能などのテクノロジーの発達で、人間が現実を "正確に" 認識できる日が来るのかもしれませんね。

人が、自分はなぜ今のような人生を歩んでいるのかと考えたときに、単なる偶然の連続と捉えるのか、自分の「認識」にその要因を求めるかは、最終的には個人差があるような気がします。

これまでの人生がうまくいってると考えてる場合は認識を疑う必要はないですし、あんまりうまくいってないなーと感じる場合は認識を疑ってみたりするかもしれません。

認識というのは、客観的に見つめようと努力しても主観的な感覚とは切り離せない、なかなか難しい問題だなーとしみじみ感じますね。

(2014年6月24日「メタップス社長のブログ」より転載)

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