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VRブーム再び、歴史は繰り返すか?「VR黒歴史」から展望するこれからのVR

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ここ数年で急速に注目を集めているバーチャルリアリティ(VR)。比較的安価なヘッドマウントディスプレイ(HMD)のOculus Riftやスマホを使った簡易型HMDのハコスコの登場などハードウェア環境が整いつつありVR体験が身近になった。コンテンツビジネスでも広がりが期待されている。

VRがブームになるのは今回が2回目だ。1989年にアメリカで最初にVRという言葉が使われ、その後1990年代にも世界的に研究、ビジネスともにVRブームが起きた。当時と比べてHMDやモーションキャプチャ、スマートフォンなどのデバイス、ネットワークの利用など、技術的に飛躍的に伸び、VRの使い方や目的にも変化が起きている一方で、ビジネスを始めとした一般社会からの期待という点では前回のブームと共通点も多い。

前回のVRブームでは、研究からビジネスまで世界的に活気づいた。だが、ビジネスが本格的に根付くことはなかった。では、当時の日本ではVRの研究やビジネス、行政はどのように進められてきたのだろうか?過去の知見を知ることで、現在に活かすことはできるのだろうか?

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9月11日まで東京・豊洲で開催された第20回バーチャルリアリティ学会では、特別企画として「日本VRの黒歴史」と題したパネルディスカッションが行われた。20年前のVRブームを知る、産学官の関係者が当時を振り返り、これからのVRについて展望をした。
(パネルディスカッションに関するツイートはtogetterでまとめられている)

企画、司会の東京大学助教の鳴海拓志氏は、「今VR学会で研究されているようなVRは,呼ばれ方こそ同じものの昔のVRとは違ってきていると思う。VRがこれからどこに向かい、どのような新しい領域を生み出すことができるのか。これからの指針を得るために、昔のことを知ろうと企画した。昔VRが新興分野として立ち上がった時の周辺状況やムーブメントを知れば、今これからのことがわかるかもしれない。次に何をしたら新しいことができるのかがわかるはず」と意図を説明する。

鳴海氏ら前回のVRブームを知らない若手研究者が、20年前のVRについて研究、ものづくり産業、コンテンツビジネス、行政のそれぞれの証言者にインタビューし、その動画を会場で上映。その上で、日本のVRの発展に関わり、見聞きしてきたパネリスト4人がコメントをする形式で進められた。

パネリストは日本バーチャルリアリティ学会初代会長で東京大学名誉教授の舘すすむ氏、第5代日本バーチャルリアリティ学会会長で東京大学教授の廣瀬通孝氏、触覚技術を中心としたVR研究が専門の筑波大学教授の岩田洋夫氏、VR関連の記事や著書を執筆してきた朝日新聞の服部桂氏だ。

そもそも、VRはビジネスと研究が両輪をなして進められてきた。VRという言葉は、1989年にアメリカのコンピュータ科学者で音楽家のジャロン・ラニアーによって初めて使われた。ジャロン・ラニアーが設立したベンチャー企業VPL Researchが同年に販売した製品紹介として、VRという言葉を使ったのだ。翌年、マサチューセッツ工科大学(MIT)が中心になり世界中で分野を問わず同じ目的を持つ研究者を一堂に集めてサンタバーバラ会議を開催。それまで別々の名称で呼ばれていた研究領域をVRに統一していくという方向性ができ、VR研究としてその後の研究が加速していった。

日本では、VRを紹介する記事を服部氏が朝日新聞で連載し、1991年に「人工現実感の世界」とした著作を刊行するなどして、VRは一般にも知られるようになっていった。1996年に舘氏と廣瀬氏らが中心となって日本バーチャルリアリティ学会を設立し、研究者を中心にVRという言葉が定着していった。

なお、証言者のインタビューは、時代のひとつの側面を、ひとつの視点から見た時の印象を語ったものだ。それに対して、その後のディスカッションでパネリストの視点から見た当時の印象も語られた。

証言者:大阪大学教授・前田太郎氏による、VRアカデミックの20年

大阪大学教授の前田太郎氏が、国による重点領域研究「人工現実感」と日本バーチャルリアリティ学会の成立について語った。なお、当時前田氏は舘教授のもとで助教(当時は助手)をつとめた。

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Q 日本バーチャルリアリティ学会設立の経緯を教えて下さい

重点領域研究(現在の文部科学省科研費「新学術研究領域」に相当する科学研究費補助金による大型研究プロジェクト)のメンバーが中心となって、日本バーチャルリアリティ学会ができた。その前にICAT(人工現実感とテレイグジスタンス国際会議)があったから(研究者や企業らのネットワークができていたため)重点領域研究につながった。

Q 当時、工学ではないサイエンスの道を選ぼうと悩まれたと伺いました。その理由は?

ヒューマンインタフェース研究には絶望していた。ガジェットの集合体で、学問になる流れがなかった。どうやったら学問にできるか、考えた。感覚の研究者はサイエンスとして学問を目指していると強く魅力を感じた。ただ、彼らは「わかった」までが重要というところにがっかりした。わかったら使いたい。これは工学ジャンルで活かすべきだと、工学の研究分野に戻ってきた。

VRは学問にならなければ一時のブームで終わる。学問にするにはどうするべきか。舘先生には、工学としてまとめるという主張があった。当時から「設計論」が合言葉だった。工学といってもVRは総合領域。機械は部品ひとつ新しいものができると全体の設計ががらりと変わってしまう可能性がある。だから、学問としての積み上げを考えると、変わることがない人間側のパラメーターを明らかにすることが良いと考えた。それで、VRシステムを設計するために知っておく必要がある人間の知覚の特性を、人間を計測して明らかにすることでVRに貢献をする、と言って研究をしていた。

VR研究黎明期は新聞社と岐阜県が支えた

これに対して、舘氏は学会設立の経緯について「もともと人工現実感とテレイグジスタンスの研究会の研究者が中心になって学会をつくりたいとなった。重点領域研究は、その追い風になった」と補足した。一方、廣瀬氏は「ICATが震源地だったのは確かで、それに対して懐疑的なものもあった。どれが生き残るかは我々にもわからなかったが、結果的にICATを母体としたものが残った」と証言した。

さらに、「この分野では新聞社が果たした役割が大きかった。日本経済新聞社はICATの仕掛け人で、ほとんどタダのような値段で会場を貸してくれた。そうしたバックアップがあったおかげで国際会議ができた」(廣瀬氏)と言い、「VRを最初に支えたのは日経で、そのあとは岐阜県だ」と舘氏も続けた。なお、岐阜県については、この後の証言者インタビューで言及される(後述)。

日本バーチャルリアリティ学会設立の経緯について廣瀬氏は「ほかに学会が出来そうになって、慌てて作った面はまったくないわけではない。岐阜県が本気になりすぎて学会のようなものを作ろうとする動きもあった」と証言。舘氏は「結果的にVR学会ができると、岐阜県は数年間多大な援助をしてくれた。それがあったから学会運営がスムーズにいった」と補足した。

一方、新聞記者としてこの分野を取材してきた服部氏は当時の様子をこう語る。服部氏は1980年代後半にマサチューセッツ工科大学メディアラボに留学し、VRのもとになる研究を見てきていた。1990年の展示会で米企業によるVRシステムの展示を体験して「それを見て日本にも来たかと取材を始めた」という。

朝日新聞でVRの技術に関して記事を連載したところ、出版社から依頼がありVRに関する日本で初めての一般向け書籍「人工現実感の世界」を1991年に出版した。「おもしろい分野だけれど、形がはっきりとわからない。言葉も人工現実感とか仮想現実とかVRとかAR(オーギュメンテッド・リアリティ)とか入り乱れていた。当時『バーチャル』といっても一般にはわからなかったので、人工現実感という言葉を使った」(服部氏)と言う。

証言者:パナソニック顧問の野村淳二氏によるVRビジネスの20年

パナソニック顧問の野村淳二氏は当時、パナソニック(当時は松下電工)でVRシステムの研究開発と事業化に取り組んできた。野村氏らが開発し、販売した「VRシステムキッチン」、「ジョーバ」とこれからのVRを活用したビジネスについて語った。

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Q 世界に先駆けてVRを産業応用し、VRシステムキッチンを開発された経緯を教えて下さい

(当時の松下電工で)新規事業の担当をしていたときに、おもしろい映像系のシステムを扱っているというアメリカの企業を訪問した。頭部搭載型のHMDで解像度は高くないが、装着して動くと、動きに合わせて視界の映像が3Dで見られる。ただ設備コストがかかるし、何かしないと会社では投資してくれない。

1990年に(松下電工の)新しいショールームが新宿にオープンするときに、1週間だけ目玉となるようなデモを出展してほしいと営業から依頼があった。システムキッチンはオーダーメイドで販売する。営業と相談する中で、システムキッチンのデザインをお客さんがショールームでできるようにしてほしいと言われた。営業がやりたいなら、ということで投資をしてもらって、その3Dのシステムを使ってVRシステムキッチン(*)を作った。

ショールームがオープンすると、10日先まで予約が埋まった。テレビなどで取り上げられて宣伝効果も大きかったので、1週間経っても撤去しないでくれと言われ、結局3年間ほどやった。多くの人がキッチン目的ではなくおもしろいと見に来るだけだったが、1ヶ月先まで予約が埋まるなど延長を重ねていくうちに、実務のデザインで使えると、本格的にやるようになった。オーダーメイドでシステムキッチンを作る家の中にはキッチンが3つもあるような豪邸もあり、基本的に単価が高いのでコストをかけても成り立っていた。1件2000万円のキッチンが売れたこともあった。結果的にはペイした。

*VRシステムキッチン
VR空間でオーダーメイドのシステムキッチンをデザインできる。蛇口操作で水が出るなどインタラクティブな要素があった。

Q 社内での評判はいかがでしたか?

社長も含めて体験してもらうと「映像は粗いがおもしろい。こんな形で設計をするのは考えたことがなかった」と。システムキッチンはオーダーメイドなので、営業と製造が直結する。生産技術の研究所も含めて、「おもしろいからやろう」となり、人材育成も設備投資もやった。

Q 最も売れたVRシステムとも言える、ジョーバの開発経緯を教えてください

腰痛のための「乗馬療法」というのがもともとある。ただ、馬が疲れてしまうし、乗馬療法そのものではペイしない。馬の動きを再現すれば治療効果があるので、実際の馬に近い形で機械設備として使えればよいのではと、厚生省(現在の厚生労働省)のプロジェクトに申請してジョーバの開発を始めた。

(馬の見た目も再現していた初期のモデルは)当初3000万円くらいで、のちに1000万円くらいに落とした。これだと家庭には入らないので、(椅子状の形態で乗馬の動きだけを再現したモデルは)値段を50万円以内にして、リハビリテーションの専門家にも指導してもらって、この形状にした。それで、あの馬が商品になったのかとみんなはびっくりしたが、すごく売れて最初は出荷できないくらいだった。

ひとつは腰痛に効くという医学的な根拠があったこと。乗っているだけで歩くのと近い効果があるので、内蔵を含めて効果がある。

初心者のジョッキーの訓練用にも使えると言われた。もともとは、JRAから初心者ジョッキーの訓練ができる機器があれば買いますという話もあって開発していた。

Q VR学会設立時の思い出があれば教えてください

舘先生から学会を作るから君も入りなさいと言われ、はいわかりましたと入った。VR関係の商社や設備をおさめる企業などに、VR学会を一緒にやりましょう、法人会員になってください、とメールをした。(VRキッチンを展示した)新宿ショールームのときにもらった名刺をひっくり返して、VR学会どうですかと。

Q これからのVRビジネスはどうなっていくと思いますか?

ニーズを明確にして、どういうものを作るかが最も大事。ニーズがわかったら早くプロトタイプして商品をつくる。そうしないと競争力が生まれない。そのためにはラピッドプロトタイピングが必要となり、VRの技術はそこで役に立つ。

VRでは実際の商品になっていなくても機能が実現できるためだ。実際に商品を作る前に、VRで機能実現した段階でユーザに評価をしてもらうことで、生産する前にユーザの使い方に合わせた修正ができるようになる。(VR技術で)触覚の体験もできるようになっていくと、さらに実際に近い設計物の評価・体験ができるようになる。体験型の設備がメーカーに標準整備されると、ものづくりが変わっていくだろう。

VRは、学術界と産業界が足並みをそろえて進めてきた

ジョーバの製品化にあたり、野村氏からアドバイスを求められたという岩田氏は「人工現実感とテレイグジスタンスの研究会には企業の方も入っていて、野村さんもそこに入っていた。VRは学術界と産業界が常に足並みを揃えてやってきた」と振り返る。

日本ではアカデミアを中心に盛り上がっていたVRを産業界に持ち込んだ野村氏の功績は大きい。だが、新しい技術を企業で始めるためのハードルは高い。

これについて舘氏は「野村さんは、バーチャルキッチンがマスコミに取り上げられたものを、広告料に換算してこれはものすごい利益に相当すると社内で説明した。それによってVRが産業界で使われたという最初の実績になった。こういった説明の仕方は、新しいことを普及するやり方の参考になる」と説明する。

服部氏は当時取材したVRビジネスを振り返り「VRは当時どうみてもあやしいと思われる。ところが、松下電工がやってキッチンの宣伝に役に立つとなると変なものではないとわかる。そもそも野村さんが紳士的であやしさがなかったのが良かったのではないか。ビジネスとしては、特定の問題解決のためにVRを使おうとするとセンサの精度や表示機器の解像度などに高いスペックが要求されてしまい、お金がかかって実現が難しいという問題がある。一方、エンターテイメント施設や展示などのエンターテイメントビジネスでは、そうした精度が完全なものではなくても、インパクトがありさえすればよい。インパクトを求めて導入されることで、ディスプレイや大型装置といった機器の需要が生まれれば、それで精度の高い機器が開発されるようになるといったように、周辺産業への影響もある。そういうモデルでは、当時シリコングラフィックスは相当もうかっていたと思う」と話す。

証言者:デジタルハリウッド大学学長の杉山知之氏によるVRコンテンツの20年

デジタルハリウッド大学学長の杉山知之氏が、ホリプロからデビューした初のバーチャルアイドル、伊達杏子から初音ミクに至るバーチャルアイドルの変遷とコンテンツの未来ついて語った。
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Q 1995年前後のVRコンテンツの状況について教えて下さい

シリコングラフィックス(*)製のマシンが完全に一世を風靡していた。当時大学で買っていたような大型計算機は10数億円だったが、シリコングラフィックスのコンピュータは1億円や5千万円と安くて使いやすかった。

これを使ってやられていたことのひとつの流れは、作り込みでCGアニメーションを作ること。ピクサーのようなアニメーションスタジオが生まれていく流れ。もうひとつは、速く動くのでリアルタイム処理をするという流れ。複雑なことはできないがそのまま動くのが魅力だった。

当時NHKがハイビジョンを推していた。そこで僕は、スペインのプラド美術館のベラスケスの間を全部CGで作りハイビジョンで表示するコンテンツを作った(**)。ジョイスティックを使って中をウォークスルーする。絵の前に行ってボタンを押すと、拡大して絵が表示される。ディテールも見えて、ガイドも聴ける、というのを作った。

*シリコングラフィックス(SGI)
3DCDの分野を築き上げた企業。1993年に発売したOnyxシリーズは高性能のグラフィックスエンジンを搭載していた。

**ハイビジョンバーチャルミュージアム"プラド美術館"(1994)
'94ハイビジョン国際映像祭産業応用部門最優秀賞受賞

Q そこからバーチャルアイドルDK-96伊達杏子(*)の開発に至った経緯を教えて下さい

(CGで)信じるに足るだけのリアリティを出したい。その気になれるくらいのリアリティを出したいと思っていた。初めはCGでティラノサウルスなどを作っていたが、みんな本物を見たことがないのでそこそこそれっぽければ大丈夫。一方で、一番難しいのが人。ちょっとでも不自然だとおかしい、気持ち悪いとなる。だからこそ挑戦しがいのあるテーマだった。

ホリプロとつながりのあるスタッフがいて、堀会長と話して、「CGでアイドルをやりましょう」という話で盛り上がった。ホリプロはその前にロボットのアイドルをやろうとして失敗したことがある。まだ早すぎた。芸能プロダクションとして困ることは、スターのマネジメント。年をとるし、スキャンダルを起こすし事故に合うかもしれない。すべてをコントロールできる(バーチャルアイドルは)魅力的。ある種のニーズはある。一方、僕らとしてはリアリティのあるものができる、と狙いが合致した。

実際にやってみると、当時、3分間の映像を作るのに半年かかった。(CGキャラクターの動きをつくるために)それなりの人に踊ってもらわないと格好がつかないから、ロサンゼルスでマイケル・ジャクソンのバックダンサーの人のダンスをモーションキャプチャして、そのデータを使った。街を歩くシーンは日本の女の子に歩いてもらって実写を撮って合成した。

ところが、芸能界で始まってしまうと、「毎週衣装を変えて欲しい」とプロデューサーは言う。当時のCGでは対応不可能。その時間感覚のずれがうまくいかない。結局ブレイクというところまでいかなかった。
当時、伊達杏子はラジオ番組をもっていた。ラジオ番組はしゃべりがうまい女の子がやる。歌は、歌がうまい女の子がやる。姿はCGだが、何人かの人間で対応している。そのとき、僕がプロダクションに話していたのが将来に渡って何ができるか。CGは一度に複数の場所に現れることができる。いずれAI(人工知能)が発展すれば、バーチャルアイドルがネットを通じて1対1のやりとりをできるようになる。ファンがどこからでもアイドルにアクセスして会話ができる。そういう本当の意味でのバーチャルアイドルができると話していた。ただ、そこまでいくまでお金ももたなかったし人気もでなかった。

一方で、90年代後半のCG美少女ブームという流れを作ることができた。たくさんの作家がCGで美少女をつくった。これでCGの道に入った人も多いと思う。伊達杏子で驚いたのは、フィンランドからメールが来て「伊達杏子こそが永遠の恋人です」等と書かれていた。世界中に好きな人はいると思った。

*伊達杏子:
1996年に「伊達杏子DK-96」という芸名でホリプロよりデビューした3DCGによるバーチャルアイドル。

Q 伊達杏子で夢見たことの一部は初音ミクで実現されていますね。初音ミクについてどう思われますか?

GoogleがChromeのCMで初音ミクを使った。ネットで初音ミクで作った曲をアップロードすると、他の人が映像を作ってアップロードしたり、歌ったり踊ったりしてみた動画が連鎖的につくられていって、最後には初音ミクがロサンゼルスでコンサートをするところで終わる。これを見た時に涙が出た。夢見て憧れていた世界がついに来たんだなと。

Q 初音ミクが一般に受け入れられた現在と、伊達杏子の時代の一番の違いは何でしょうか?

決定的なのはスピード。多くのアルゴリズムは昔からあるが、昔は使いものにならなかったのは、計算機のスピードが遅すぎたから。(コンテンツを)作りやすくなった。特に初音ミクの場合は二次創作を最初から認めているから好きな様に作れる。ただ、みんな初音ミクが好きだから作るので、そこの軸線はぶれず、どこまでいっても初音ミク。そこがうまくできている。

ただし、こうした創作のあり方の変化は最近のデザイン盗用問題ともつながっている。デジタル社会ではなんでも人がやったこと見てコピペしたりできてしまう。そういう世界に移行した段階でのクリエイティビティやオリジナリティを考えなおす時期にきている。

Q これからのVRコンテンツのあり方はどのように変化していくと思われますか?

SEGAが初音ミクのライブを主催した。透明スクリーンに初音ミクをプロジェクションする。本物らしく見えてみんな感激したし、まるで本当にスターアイドルを見ているようにお客さんも振る舞った。

これはバーチャルがリアルに出てきたという意味で本当にエポックメイキングで、将来のコンピュータ史に書かないといけない。それまではVRは僕がバーチャルな世界に訪ねて行くものだった。ところがバーチャルがリアルの場に来た。しかも、はっきり来たとみんなが思った、というところがとても重要。それまで実験的にはやられていても、多くの一般の人がそう感じられるまでのものではなかった。あの日、世界中の人が、そういうのが未来だとわかった。プロジェクションの仕組みを知ったとしても、未来にはこういうものがあたりまえになるんだと覚悟ができた瞬間だった。

Q バーチャルがリアルに出てくる世界ではどのようにコンテンツをデザインしていけばよいでしょうか?

背負ってきた文化は簡単に捨てられない。一番感じたのがセカンドライフ。白紙の土地を与えられゼロから作れるのがおもしろいところなのに、結局みんな街を作る。あっちの世界へ行っても、人間界のものを持っていく。

バーチャルなものと現実を合わせるときには、これまで人間が築いてきた文化や歴史を引きずりながら整合性をとる。人間の体中についているセンサーから入力があって脳でこうだと思っていることと同じようなことをやったほうが、すんなりとVRの世界観も使ってもらえるのかなと思う。

「VRは欲望のスポンジ」

服部氏は「当時、VRの記事を書くためにアメリカのレポートを読んだらバーチャルセックスについて書かれていた。バーチャルは、人間の欲望や本来的にあるものをすごく刺激する」とした上で、人間の自然な欲求として、人間同士のコミュニケーションのためにVRはあると指摘する。「(VRをいう言葉を作った)ジャロン・ラニアーが最初に作ったVR for twoというシステムは、VR世界を介して人と人とがコミュニケーションをするためのものだった。VRはCGではなく新しい電話だと彼は言った。」(服部氏)

また鳴海氏は「VRは欲望のスポンジと言われる。そこで言う『欲望』をどう捉えるか。人間の本質を含んでいる。人間を理解するためにどう使っていくかを考えなければならない」と補足した。

杉山氏は、初音ミクのライブはバーチャルがリアルに出てくる、というエポックメイキングな出来事だったと指摘した。それによってコンテンツのデザインが変わっていく。触覚技術の開発を進める岩田氏は「伊達杏子に触れられるようにするという企画を考えて、1996年に杉山さんにやりたいと言ったら、おもしろいと盛り上がった。だが冷静に考えると難しい。映像として完成しているモデルにハプティックをあとから付けるのは難しいからだ。映像を作るときには、初めから触れることを前提にして作るという工夫が必要だと感じて、今も取り組んでいる」と言う。

証言者:東京大学名誉教授の月尾嘉男氏による、VRと行政

岐阜県でVRを推進した元岐阜県知事、梶原拓氏(*)と親交の深い東京大学名誉教授の月尾嘉男氏が、岐阜県によるソフトピアジャパン構想と日本のVRの発展に与えた影響について語った。

*梶原拓 元岐阜県知事
京都大学卒業後、旧建設省入省、1985年岐阜県副知事、89年に夢おこし県政を掲げ岐阜県知事に初当選。以降4期16年岐阜県知事を務めた。VRを中心とした情報産業による産業活性を図った。

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Q VRとの出会いを教えてください

設計事務所をやっていた時に、石井(威望)先生、井口(雄一)先生と勉強会をやっていた。そのときに、後にMITメディアラボを作るニコラス・ネグロポンテのThe Architecture Machine: Toward a More Human Environment(1973)を読んだ。一番興味をもったのが、アイバン・サザランドが1965年につくった世界初のHMD。目の前に小さい2つのディスプレイを置いてそこに映像を送って立体視ができる。自分が動くとその位置を検出して映像も動く。画期的なことをやっていた。最初のVRの実験をしていたといえる。

1976年に名古屋大学へうつった。1980年代終わりに名古屋市内に30階建ての高層アパートが初めて建った。積水ハウスの名古屋支店長をよく知っていたが、彼は「高層アパートの最大の売りは景色、夜景。これをモデルルームで紹介してはどうか」と言う。ニューヨークで、これから建つオフィスビルのショールームで、室内風景をスライドで映すものがあった。名古屋の高層アパートの展示場でそれをやったらどうかと提案した。

当時はCGの性能がよくなかったので、今でいうドローンにあたるものにカメラを積んで30階に相当する100メートルから4方向を撮影、20階に相当する60メートル、10階に相当する30メートルからそれぞれ撮影した。お客さんが「30階からの東の景色を見たい」と言ったら、窓にその映像を映す。それが1989〜90年のこと。

Q 岐阜県で情報産業による地域振興を考えていた際、VRを紹介されたのは月尾先生だと伺いました

当時、自動車電話の時代で、梶原さんは自動車電話から名古屋大の僕の研究室に電話をかけてきて「今度情報拠点を作るから相談にのってくれ」と言う。「ソフトピアジャパン構想」のひとつとして大垣に拠点を作っているが、何をしたらいいのかということだった。梶原さんは、これからの地方都市には情報産業が重要になるので、それをやろうということだったので、「情報関係のビジネスをここに集めたらどうか」と言った。ネタもつくらないといけないのでそのひとつとして「VRをやってはどうですか」と言った。

ソフトピアジャパン構想の一環として、大垣に岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)(*)を作る時に、僕に学長をやって欲しいといわれたが僕はダメですと答えた。それで、元朝日新聞の坂根巌夫さんに連絡をして是非やって欲しいと言ったら、「腰が悪いから岐阜まで通うのが大変」と言う。それを聞いて、梶原さんは岐阜で一番の整体師を坂根さんのところへすぐに送った。坂根さんは感動して学長を引き受けてIAMASがつくられた。

梶原さんはいろんなことが東京で始まり次に大阪、名古屋、地方へ、というのが我慢できなかった。全国のNHKニュースは東京、大阪から始まっていたが、けしからんとNHKに抗議をして、スクランブルして流すようにしてもらったという。1995年にインターネット専用サービスのOCNが始まった時も、地方を先にと、東京、大阪、岐阜、大垣、藤沢の順番にしてもらった。

そういう梶原さんの意気込みは、情報で地方を発展させるということだった。IAMASができて、ソフトピアジャパンに集められた。

*岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS):1996年設立のメディア表現を扱う専修学校。2001年に情報科学芸術大学院大学が併設され、2012年にはアカデミーは廃校となった。

Q VRは岐阜県の産業活性化に寄与したといえるでしょうか?

産業よりも、IAMASのほうが大きかったのではないか。人材輩出を担ったという点でIAMASの存在は大きかった。

箱モノ脱却がうまくいかなかった岐阜県のソフトウェア産業振興

岐阜県の行政について服部氏は「行政はインフラづくりがメインだが、岐阜は愛知の裏庭としてソフト産業をやろうとしていた。梶原さんは建設省の官僚だったが知事になって道路や箱モノばかりでいいのかという疑問を持っていた。当時行政や政治家はソフトのことはわかっていなくて、ソフトが政治の課題になることは殆どなかった中、梶原さんは箱モノ行政を脱してソフトで国を良くしていこうという志はあったと思う。だが、実際には何をするかとなった時にセンターを作るとやっぱり箱モノじゃないか、ということになってしまった」と補足。

廣瀬氏は、「梶原さんがやろうとしたことは、今までの土建から情報への切り替え。経産省(当時は通産省)で新映像産業室という部署ができて、新社会資本という概念で、道路を作るならシリコングラフィックスを買おうという流れを作ってきた。コンピュータが社会資本になるという。そこにVRがはまり、1990年代のブームにつながった」と当時の中央行政の流れとVRブームについて補足した。

歴史に学ぶ、これからのVR

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これまでの歴史を振り返り、パネリストがこれからのVRについて語った。

服部氏はアメリカにおけるVRのもととなった研究を振り返り、「VRは遊びでやっているわけでない。第二次世界大戦中に日本を空爆するためのパイロットがフライトシミュレーターを作ろうと模型を作っていた。そういう戦争のシミュレーターのためのVRシステムを作っていたのがアイバン・サザランドの研究だ。絶対に必要な軍事分野から研究費がおりて、3DCGができてインタラクティブになった。軍事だけでなくみんなのためになる、世界を変える力があると理解して知恵を活かす政策が必要だ」と指摘。

また、VRの今後を考えるにあたり、「VRとはHMDや3Dやセンサーかといったらそうではなく、情報と人間がどう付き合うかという広い分野を扱っている。ティム・バーナーズ=リーがWWWを考案してインターネットが誰でも使えるようになったように、ハイテクではなくみんなが使えるようにして共有し、新しい価値を作っていくことが重要。もっと多くの人を巻き込んで、どのようにコミュニケーションをしていくかという広いものを得られたらいいのではないか」と提案した。

岩田氏は、当時のVRブームを振り返り「今、20〜30年前に(研究者がやっていた)VRが、(研究者以外も含めて)正確に再現されている。私が1995年につくったマシンにそっくりなものが、Kickstarter(クラウドファンディング)で出ていた。歴史は繰り返している。それならば、私にはこれから来る未来が見えている」と指摘をした。

廣瀬氏は、アカデミアのVR研究と産業界のVRビジネスの在り方について、「1989年から始まるVRブームでは、VRをどう社会実装するかという問題に産業界もうまく答えられていなかった。全体として産業としてのVRの生態系ができたかというとできなかった。社会に対してどう響くか、マッチングできるかが、第二ラウンドが成功するかどうか。今要求されているのは、日本の産業構造を新しく作れるかどうかということ。日本にはものづくり産業はあるがGoogleもamazonもない。そこにどう関連するかどうかがVR。その仕組をいかにして作っていくか」と展望した。

当時のVRブームでは、一般の人たちを巻き込むまで至らなかった。それに対して舘氏は「今はみんなのVRだ。HMDもセンサーもカメラも安く買えるようになってきて、みんなが体験できるしそれがネットに出て再発明されている。ただ、過去を知らないでやるとまた同じ失敗をする。(アカデミア以外の)草の根で繰り返しているに関わっている人たちと(アカデミアとが)一緒にやっていく仕組みが必要だ」とまとめた。

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