想像力を駆使して手当たり次第に“考える” 「例えば、新垣さん」

ちょっと考えればすぐに気づく

自由にあれこれ「考える」こと。順不同。そんなときにはタイトルやら小見出しやらが必要ないから愉快になれる。深刻にもなれる。だからいい。

インタビューは受け手と聞き手による共同作業。大切なのは想像力だ。

ちょっと考えればすぐに気づく。

ご存知の通り、自分の思いや考えを言葉でいい表すのってもの凄く難しい。というか大抵の場合、考えていること、思っていることのほんの一部しか言葉にならない。だから思いの全てを相手に伝えるなんて絶対できっこないと感じてしまう。誤解されてしまうことだってある。

でもあきらめたらそれまで。

水が湯になり湯が沸騰する直前に現れるあの泡のように、ポツリポツリと沸いてくる言葉に耳を傾けてみたい。焦らず気負わず勢い込まずに。想像力を最大限に働かせてね。

でもテレビだとそんな余裕はない。そもそも放送時間の制約もあるし。

やっぱり本にする?

本にだってそりゃ文字数やページ数の制約はあるけれど、活字だから、ゆったりとした時間の中で交わされた言葉を何度も眺められる。言葉を口にしたときの表情も思い描ける。行間から言葉にならなった相手の思いなんかも感じられる。

「どんなことがあっても生き抜いて! そして生き切るのよ!」

生きることと「行き切る」ことは決定的に違う。

がんとの闘いを何度も克服し、97歳まで生きた祖母。手元には最後の7年間を記録したVTRがある。映像は祖母が90歳のときの正月から始まる。

撮影舞台はといえば、ほとんどが実家だから、シーンも私どもが実家を訪れる盆と正月が大半だ。だから当然、同じ行事の繰り返しになる。

ところが、完成したものを通して見ると、そんな毎年の繰り返しだからこそ、「そうなのか...」と合点するところが多々あった。

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当然ながら祖母は年々、老いていく。

"老いが深まる"といった方が適切かもしれない。

けれども、「生きよう!」 「生き切ろう!」とする意思は健在で、末期がんで死の淵に瀕したときも、70年間連れ添った夫(祖父)と死別したときも、彼女は強い意志でその都度、奇跡的な回復を遂げた。

もちろん歳が歳だから、顔に刻む皺は年々深くなるし、幾度となく繰り返される外出時に玄関をでる様子は、"一人でスタスタ歩いている" 姿から"家族の誰かに抱えられて..." の姿へと変わっていく。

だが、それは単なる身体的な老いでしかないようで、祖母の老いと反比例するように、年々成長するひ孫たちと接するたび、祖母は自分自身の中にあった「生きる力」を再確認していたように思える。

家族の中に高齢者がいること。

自宅とケアハウスを行き来する祖母の生活。

そんな祖母の生活を支える家族の日常。

もちろん、介護する側の負担は大きい。

でも、だからといって何か特別なことをする訳じゃない。

明るく楽しく。

毎年、どんなときでも...いつも通り、普段通り。

そんな「いつも通り」がどれほど大切で、どれだけかけがえのない時間だったことか。

亡くなる1年前、祖母が語ったこと。

「人の人生にはそれぞれの持分(もちぶん)というものがあってね。

私は自分の持分を使い切ったから、あとはもうどうなってもいいんだよ」

素敵な言葉だった。

雪の多い地方では、冬の間、開墾した土地に降り積もった雪の上にケイ酸や水溶性カルシウムを散布すると聞いたことがある。上空から降ってくる雪には大量の窒素が含まれている。窒素は土壌にとって貴重な肥料。だから雪の上から蓋をして窒素を閉じ込めてしまうのだそうだ。

氷の中に封じ込められる時間。

タイムマシーン。

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猫は自分のことを猫だとは思っていないだろう。自分を「そういう分類を超越した特別な存在」だと思っている?

そもそも分類なんて窮屈な発想自体がないに違いない。在るがまま。羨ましい。

一度ゆっくり猫と話をしてみたいものだけれど、現実にはねぇ。

だいぶ前のことになるけれど、小渕恵三さん(...あえて"さん付け"にしています。その方が親近感があって好きなので)は首相になる朝に話していた。

自分は「冷めたピザ」でも構わないと。

他人からの批判を甘んじて受け入れる政治家には、視線の先に思い描いているはずの、その政治家なりの国家観を聞いてみたいと思う。好き嫌いに関係なく。

じゃぁ、いまの首相は?

彼には「美しい国へ」という著書があった。

「美しい国」=「うつくしいくに」。

逆から読むと、「にくいしくつう」=「憎いし苦痛」

近々、総選挙があるらしい。いま政界では摩訶不思議な力というか「思惑」がうごめいているよう。いい方向にその力が働いてくれるといいのだけれど。

自然の大きな力は、ものごとをあるべき状態に戻していく。

熊本地震では、落ちない巨石、「免の石」が落下した。

筑波山(茨城県)には「落ちそうな巨石」がある。「弁慶七戻り」と呼ばれている大きな石のことで、言い伝えには、そこを通りかかった弁慶が、いまにも「落ちそうな巨石」が頭上に落ちてくるのではないか...と不安になり、その巨石の下をくぐるのを7度もためらったとある。

あの弁慶でも...ということなのだろう。

「つわもの」だって怖いものは怖い。

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平成の怪物投手なんて呼ばれていた松坂大輔さん。

「自信が確信に変わりました」

ブロ入り直前、当時18歳だった彼は、そんな決意を口にした。

けれどもそこに至るまでの努力や苦悩、不安な日々は並大抵ではなかったはず。事実、人目をはばからず悔し涙を流した日もあった。

横浜高校2年のとき。エースとして臨んだ夏の甲子園・神奈川県大会準決勝でのサヨナラ暴投、134球目だった。彼は試合後ベンチで泣き崩れた。

でも、あの日の屈辱があったからこそ高い目標を求めて野球に取り組むことができるようになったのだという。

あれから19年。

いま松坂さんは度重なる肩の故障に苦しんでいる。今シーズンは二軍のマウンドにさえ登らなかった。

18歳のとき彼はこうも語っていた。

「(いつも考えていることは?)自分が一番うまいと思って、練習はやっています」。そして「プロとは人に夢を与える仕事。その最高の舞台がプロ野球。多くの人に注目されればされるほど、力が沸いてきます」

37歳で迎える来期。もう一度輝いて欲しい。

不可能は可能のはじまり。

あるベンチャー企業の社長は、インタビューの最後をそんな言葉で締めくくった。

脳梗塞や外傷性脳損傷によって死滅した脳細胞を再生させる薬の開発。

健康なヒトの骨髄液からとった幹細胞に特別な処置を加えてつくる「細胞薬」、つまり、生きた薬だ。

開発を始めてから今年で16年。

臨床試験も順調に進んでいて製品化(治療薬としての承認)まで「もう少し」の段階にまできている。

「出来っこない、不可能だ」といわれ続けた日々。

けれども彼自身は不可能だなんてまったく思っていなかったらしい。

人のために自分ができること。

誰かの役に立ちたいという一貫した信念だ。

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新しいものを世の中にだすこと。

これまでの常識をくつがえすこと。

魔法なんてないから、本気で自分の信じる道を進み、努力するしかない。

でもきっと心が折れそうになる瞬間もあるのでは?

そんなときはどうするの?

小声でもいいから教えて欲しい。とくに自分が弱っているときは...ね。

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ある人は、

「スナゴケやスギゴケに水をあげているときが唯一ほっとする時間ですね」

と答えるかもしれない。

そんなときはスナゴケやスギゴケについて詳しく教えてもらう。同じものを同じ気持ちになって眺める。

石に張り付いているビロードのようなコケ。よく見ると微小な真珠のような芽がたくさん並び輝いていてとっても綺麗だ。

夢を実現すること。

または夢に近づくために努力をすること。

孤独かもしれない。

でも、努力を惜しまず目標に向かってまい進する姿は人を魅了する。

夢を共有してくれる人が現れ、仲間ができる。

凄いことだ。

「いまは誰かのために医者でありたいと思う。

俺はそれをお前らから教わった。

俺は出会いに恵まれた。お前との出会いを含めて」

これはフジテレビで放送されたドラマ「コード・ブルー ~ドクターヘリ緊急救命~THE THIRD SEASON」の最終話で山下智久さん演じるフライトドクターの藍沢が、新垣結衣さん演じる白石に語った台詞だ。

おそらく season1 にあった指導医・黒田の「お前らに出会わなければよかったなあ」という台詞が伏線になっているのでしょう。

心が揺さぶられ、泣いた。

ちょうど脳を再生させる薬の取材を進めている期間とこのドラマの放送期間が重なっていたため、初回から毎週興味深く見ていた。

良質なドラマが描くものごとや人物像には時として圧倒される。そして文句なしに感動させられる。知らず涙を流している自分がいること、それ自体が四の五の言えぬ動かない証拠だ。

なかには「あれはドラマだから」という人もいる。けれどもドラマだからこそ伝えられる大切なものが確実にある。

ドラマのなかで生きること。

でも、当然ながら一人の人間としての日常もある。

俳優、女優というのは大変な職業だと思う。

仕事から帰ってベッドに倒れ込んだときの脱力感や充実感。

自分の光で歩くということ。

公園に寝ころんで秋空を見上げたときの心の在りようは、どんな言葉に還元されるのだろう。

演じることと生きること。

俳優、女優として多くの人の期待に応える。

並大抵のプレッシャーじゃないはず。巨大だろう。

けれども彼らは全員、そんな重圧のなかを軽快に駆け抜けているように見える。

例えば、新垣さん。

巨大なものを相手にしている怖さのようなものを感じさせない立ち振る舞い、まとっている空気は特有だ。

でもその特有さは「なんて普通なんだろう」と感じさせる空気なのだからこれは言葉では説明できない。

だからこそきっちり役を演じきれるのだろう。

にもかかわらず、そんな空気を多分、というか間違いなく計算や意図なく自然にかもしだしているのだから、その在りようには驚くほかない。

そういえば新垣さん、ヒョウモントカゲモドキを飼っていると何かの記事で読んだ(...確か犬も)。

ヒョウモントカゲモドキのクリっとした目を覗き込んだときに湧いてくる親密さ。

指先でからだに触れたときに感じる安心感。

もっといえばそんなときにふと思いだす日常の風景や出来事ってどんなものなのだろう。

周りにいる人たちに目を移せば、ある人は猫を飼っている。

もちろん犬を家族の一員にしている人もいる。

モモンガを飼っている人もいるに違いない。

我が家にはいま猫がいる。今年で9歳(だったか?)になる黒い猫だ。

彼の爪を切ったりブラシをかけているとき、自分はなにを考えている?

だいたいにおいてそんな時に思い浮かべるのは特別なことじゃない。

ささやかで、ごく日常的なことが多い。でも実は、そんな特別じゃないあれこれこそが自分の成り立ちみたいなものに一番大切なことだったりする訳だ。

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悪戦苦闘しながら子育てと仕事を両立させているお母さん。

彼女は、わが子が眠りについたとき、彼ないし彼女の寝顔をどんな気持ちで眺めるのだろう。初めて高熱をだしたとき、初めて血を流すようなケガを負ったときはどうだったのか。

うちの息子がまだ1歳半ぐらいのころ。

朝から切れの悪い「ゴホゴホ」を繰り返し、夕方には、耳にして不安になるほどの「湿った音」になっていた。

熱は38度弱。とはいっても本人は、ときどき咳き込みながらも普段と同じように積み木を積んではそこにミニカーをぶつけて遊んでいた。

妻が電話で医師の判断を仰いだところ、「一晩様子をみて、咳がもっとひどくなる様だったら朝一番に病院に来るように」とのことだった。

翌朝の明け方近く。息子の湿った咳は、「ゴホゴホ」ではなく「ゼーゼー、ゴーゴー」という嫌な音に変質した。小さな胸に耳を当ててみると風が舞っているような鈍い音が聞こえてきた。それが、息を吸うたびに繰り返えされる。

「病院へ行こう」

そう決めて、息子を抱きあげようとしたときだった。

「ここにライオンがいるみたい」

と彼がいった。

息子には、胸の中で渦巻く音がライオンのうなり声に聞こえていたらしい。

そういうなり息子は、ニコッと笑った。その笑顔が私たち夫婦をどれだけ安心させてくれたことだろう。

結局、病院での診察結果は気管支炎の初期症状。薬を飲むとその日の午後には症状も治まった。

しかし、こうも考えた。

息子の胸の中からライオンを退治したのは薬ではなく、彼自身じゃなかったのかと。

それぐらい息子は落ち着いていたのだ。

普通でいることの難しさ

普通に見えることの特別さ

普通であろうとする努力

普通に振る舞える尊さ

多くの人がいうように「普通」ほど厄介な概念はない

じゃぁ、特別な状況に置かれたときは?

御巣鷹山の記憶。

「部分遺体発見、部分遺体発見!」

トランシーバーに向かって大声で話す自衛隊員の声は今でも耳の底に張りついている。

ヘリコプターの轟音と巻き上がる砂埃。

あのとき御巣鷹の尾根で見た光景は決して忘れることのない惨状そのものだった。

墜落現場の焼け焦げた臭い。信じられない数の棺が並べられた遺体安置所(地元体育館)。

家族や友人の身元確認を待つ、沈痛な表情をした人たち。

その全てが「悲嘆の固まり」だった。

「自分の目で見たものを自分の言葉でリポートしろ。それから、遺族に失礼なことだけは絶対にするな!」

取材にあたって上司から言われたのはそれだけだった。現場に入れば、若手もベテランも関係ない。自分の目と良心に従って取材にあたるしかないのだから。

あの時、どのような取材をしたのか。今、その全てを細部まで思い出すことは難しいけれど、一つだけ確かなものが残った。

一枚の葉書。

息子さん夫婦とお孫さん一人が事故の犠牲になったご遺族からのもの。

事故直後、遺品が並んだ部屋で、なんとかインタビューをさせていただいたのがきっかけで、翌年の慰霊登山の際には同行取材を許してもらった方だった。

「頂いたテープ、時折再生しております。本当にお世話になりました。...また、お目にかかれるのを期待しております」

届いた葉書には、そのような言葉が丁寧な文字で記されていた。

悲しみに沈む遺族に無理をいって取材をさせてもらう。

失礼のないように気を配っていても、知らず心の傷に触れるような質問もしていたに違いない。

けれども、葉書一枚で救われた。

以来、今日に至るまで折に触れてその葉書を思い出す。

取材者として人にどうあるべきか。さらには人としてどうあるべきか。

御巣鷹山での経験は、自分の仕事の原点になっている(少なくとも自分ではそう考えている)けれど、もしあの葉書が届いていなかったら果たしてどうなっていたのか。

はなはだ...疑わしい。

はなはだ...。甚だ。

誰かの本に「確率」は、「たぶん」と同じ意味合いだとあった。

多分...。

(2017年9月25日「TVディレクター 飯村和彦 kazuhiko iimura BLOG」より転載)

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