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〝ブランドジャーナリズム〟はジャーナリズムの脅威か?

2014年09月21日 22時45分 JST | 更新 2014年11月21日 19時12分 JST

企業が自らのメディア(オウンドメディア)でニュースコンテンツを発信する〝ブランドジャーナリズム〟についての記事が、相次いで目についた。〝ブランドジャーナリズム〟はジャーナリズムにとって脅威なのか、と。

企業の自社メディア活用自体は、目新しい話ではない。

ポイントは、報道機関が縮小する中、ジャーナリズム業界からPR業界への人材流入が起き、ソーシャルメディアの広がりと相まって、ブランドジャーナリズムが格段にその厚みと存在感を増している、ということだ。

最近の読者は、それが読むべき記事なら、発信元がどこかはあまり気にしない。

コンテンツの客観性やジャーナリズムとブランドジャーナリズムの境界など、論点はいろいろありそうだ。

●企業の襲来

この動向に改めてスポットを当てたのは、フィナンシャル・タイムズの米国ニュースエディター、アンドリュー・エッジクリフ・ジョンソンさんの「企業ニュースの襲来」という記事だ。

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3600語ほどあり、少し長い。

長いが、ブランドジャーナリズムの現状がとてもよくわかる。

ブランドジャーナリズムという言葉は、企業の自社メディア活用を、ジャーナリズムの分野に拡張した動きとして、以前から使われている。

ただ、この記事が面白いのは、ジャーナリズム業界とPR業界の地殻変動、という視点からデータを示している点だ。そしてこう述べている。

PR業界が勝利を収めている。

報道機関のジャーナリストの数は2006年に比べて、3分の2に減る一方、PR業界の雇用は増加。米国のジャーナリスト1人あたりのPR担当者の数は4.6人と10年前から倍増しているという。また、ジャーナリストの平均所得は、PR業界の65%にとどまるようだ。

PRエージェンシーは、これまでより遥かに多くの元ジャーナリストを雇うようになっている。

記事はPRウィーク編集長、スティーブ・バレットさんのこんなコメントを引用している。

●空白を埋める

PR業界に移ったジャーナリストたちの立ち位置が興味深い。

冒頭で紹介した「発信元がどこかはあまり気にしない」は、ゼネラル・エレクトリック(GE)のサイト「GEリポーツ」の編集を手がける元フォーブスのジャーナリスト、トーマス・ケルナーさんのコメントだ。

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この指摘は、6年前にメディア業界で流行った、こんな引用句も合わせて考えさせる

もしそのニュースが重要なら、ニュースの方が私を見つけるだろう。

GEリポーツは海外版も展開しているというが、その理由をこう説明している。

新聞が海外支局を閉鎖し、海外報道の予算を削減している時代に、我々はそれに逆行しようとしている。グローバルストーリーを語るグローバル企業になろうとしているのだ。

報道機関の空白をPR業界/ブランドが埋める。この動きは数年前から指摘されていたようだ。

プロパブリカは3年前にそのものずばりの、「PR業界が縮小する編集局の空白を埋める」という記事をまとめている。

フィナンシャル・タイムズの記事では、両者の共存も可能、とソーシャルマーケティング「スプレッドファースト」のアシュリー・ブラウンさんが言っている。

ブランドのコンテンツがソーシャルメディアで話題になるには、報道機関に取り上げられるのがもっとも確実な方法だ、とも。

●ブランドジャーナリズムへの反応

ブランドジャーナリズムへの反応は様々だ。

「パンドデイリー」のデビッド・ホルムズさんは「〝ブランドジャーナリスト〟の気色悪い台頭」というタイトルからもわかるように、かなり否定的だ。

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それをジャーナリズムとは呼ばないで欲しいし、〝ブランドジャーナリスト〟をそんな風に扱わないでほしい。意味論の世界の話かもしれないが、そうすることで、ただでさえ曖昧な〝ジャーナリスト〟の定義が、PRやマーケティングといったジャーナリズムではない分野にまで広がってしまうからだ。

「ギガオム」のマシュー・イングラムさんは、ずっと前向きの反応だ

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それを耳にするのは辛いだろうが、現実的な答えはただ一つ:もっと頑張れ。つまり、伝統的なジャーナリストはさらに腕を磨く必要があるということだ。読者に何らかの付加価値が与えられるように――それが独自の洞察でも、面白さでも、何でも、自分なりの売りになる強みを生かしていくのだ。製品発表の際に企業自身がライブストリームやライブブログをやっている時代に、プレスリリースを書き写すだけでは、役に立たないだろう。

ジャーナリズムのビジネスが現に縮小している以上、その空白を財源のある企業が埋めていくというのは、いい悪いの問題ではない。

引用したイングラムさんのまとめは、当たり前といえば当たり前だが、至極まっとうな気がする。

(2014年9月20日「新聞紙学的」より転載)