愛と脅しの経済と政治-米国と日本の最近の政策考察

経済学において「交換」ではない財の一方的移転を意味する「贈与」の重要性を指摘したのは米国の経済学者ケネス・ボールディングである。

愛と脅しの経済

経済学において「交換」ではない財の一方的移転を意味する「贈与」の重要性を指摘したのは米国の経済学者ケネス・ボールディングである。『愛と恐怖の経済-贈与の経済学序説(1974年)』がそれである。

ボールディングは利他主義や贈与について経済合理的なものと不合理なものを区別した初めての経済学者でもある。

通常経済学では個人の効用(主観的価値)についての人の間での比較可能性を仮定しないが、ボールディングはあえてその原則を破り、贈与について、その財が受け手にとっての効用が送り手にとっての効用を上回るときに合理的とした。贈与後では贈与前に比べ、送り手と受け手の効用の合計が大きくなるからである。

従って、そのような贈与にあふれた国は、それが無い国に比べ、人々の幸せ度の合計は大きくなる。

この場合の「贈与」は自主的な利他心に基づくものなので、ボールディングはそれを「愛の経済」と呼んだ。愛にも合理性があり、「合理的な愛」のみが「最大多数の最大幸福」というジェレミー・ベンサム以来の功利主義的哲学の価値を実現すると考えたところが彼の理論のユニークな点だ。

一方ボールディングは「恐怖の経済」も考えた。贈与が自主的ではなく、脅しにより強要される「貢物」の場合である。

貢物は、弱者(より貧しい者)から強者(より豊かな者)への財の移転なので、富についてその増加とともに限界効用は逓減するという原則を対人比較に延長すると、経済的には不合理な移転となる。

おまけに貢物を強制させられる側には、大きな心理コストも加わる (反対に自主的な贈与の場合、送り手に「良いことをした」という心理的ベネフィットがある)。社会にとっては全体として幸福度が下がるばかりか、心理的しこりを残すのがこの貢物の強要であり、「脅しの経済」である。

未だ大統領就任前だというのにツイートによる口先の脅しだけで、ドナルド・トランプ氏はすでに国内産業であるフォード社のみならず、トヨタ自動車社や、中国のアリババ社から米国への巨額の投資や雇用創出への「協力」を取り付けた。

トランプ氏が従来から日本、中国、インド、メキシコは「アメリカ人の雇用を奪っている」と名指しで非難してきた。

今回の高額課税の脅しは、彼のその「認識」の反映で、それは今後も継続するだろう。日本企業はそのたびに脅しに屈するつもりだろうか?

考えてほしい、もしトヨタやアリババが同じ投資額をそれぞれ日本や中国国内の雇用創出のための投資に用いる場合との差を。トヨタやアリババの行為が日本国民や中国国民から米国国民への貢物となっているのは明らかだろう。

確かにトヨタやアリババにとっては、米国市場参入を阻まれるコストの方がトランプ氏に確約したもののコストより大きいだろう。だが、彼らが脅しに屈し、自国民より米国民の利益を優先する約束をしたことは、最終的には日米関係や米中関係を国民感情レベルで悪化させ、将来にしこりを残すものであることは間違いがない。

おまけにアメリカは日本や中国よりより豊かな国で、この「貢物」が経済的に不合理な贈与であることはいうまでもない。日本企業は米国の「脅しの経済」政策により、自国民の利益を損ねないよう慎重に行動すべきだ。

愛と脅しの政治

経済ではないが国際間の政治にも「愛と恐怖の政治」が考えられる。

「愛の政治」とは援助を必要とする相手のベネフィットを一時的に優先させる政治のことで、その結果長期的に良好な関係を築くことができる。災害への義援金などはその典型だ。これはボールディングに言う、合理的贈与でもある。

だがその反対の「恐怖の政治」もある。脅しにより、相手の譲歩を引き出すことだ。

今回の釜山での慰安婦像設置に関し、日本政府が大使の呼び戻しや、日韓通貨スワップ協議の中断という態度で臨んだのは、筆者には大変疑問に思える。抗議というより相手にコストをもたらす一種の「脅し」と国際的には映るからだ。

日本国内では「慰安婦問題に関する日韓合意に反する韓国の行為に対し、日本政府が毅然とした態度をとった」という評価が多いが、一つの大きな誤解があると思われる。もし釜山に慰安婦像を設置したのが韓国政府や地方自治体なら、その通りであろう。

だが事実は像の設置は民間の市民団体の行為であり、地方自治体が認めたにしても、その違いの認識が重要だ。

確かに総領事館前の設置は日本人から見れば悪質な嫌がらせである。だが、日本人の人権侵害を促すヘイトスピーチの一種とは言えない。

慰安婦問題は事実関係の詳細について日韓政府の認識の大きな差があるとしても、この問題が基本的には女性の重大な人権侵犯問題で、筆者はこの点河野談話を支持するし、筆者の住む米国内の大多数の親日派・知日派の知識人も全く同様である。

韓国民間人の政治的アピールの手段は確かに挑発的で不適切ではあるが、日本政府の取った選択は、民主主義国家の民間人の人権がらみの歴史的出来事の表現について、日韓外交関係の停止という一種の「脅し」で韓国政府に取り締まりを要請するもので、これは民主主義国家の外交政策として不適切ではないか。

政府間の政治的合意により民間人の合法的行動まで規制はできないし,すべきでないからだ。また仮にこの日本側の圧力で像が撤去されても、それにより民間レベルでの韓国の日本に対する感情のさらなる悪化は避けられない点で外交的にも拙策だ。

立場を変えて、米国の広島・長崎の原爆投下を非難する原爆記念碑を日本の市民が米国総領事館前に作り、米国政府が日本政府に日米外交の関係の停止をほのめかして、その撤去を要請する仮想状況を想像して欲しい。日本政府は、ここは鉾を納めて、より穏便な「遺憾である」との抗議のみに戻るべきであると筆者は考える。

勿論韓国側にも問題は多い。その一つは『皇国の慰安婦』著者の朴裕河氏を国が刑事処罰しようとしていることである。処罰が決まればこちらは明らかに人権侵害である。また、これは韓国の国内問題であるが、筆者には日本に対する一種の「報復」の代替となっているような気がしてならない。知識人の日韓友好への大きな打撃となりうる問題だ。

だが長期的には、日本が日韓関係を重視するなら、抗議すべきことには抗議すべきだが、共通利益の推進のみならず、基本的には「合理的な愛」の政治を中心とすべきだ。

「歴史認識の溝」は容易に埋まらないであろうが、日韓関係は「未来志向で」と政府は言い続けてきたはずである。

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