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自由って何だ? SEALDsとの対話(2) 「忘却の穴」に落とされるな!

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2016-02-23-1456217311-2962687-logo.png朝日新聞社の言論サイトである「WEBRONZA」は今を読み解き、明日を考えるための知的材料を提供する「多様な言論の広場(プラットフォーム)」です。「民主主義をつくる」というテーマのもと、デモクラシーをめぐる対談やインタビューなどの様々な原稿とともに、「女性の『自分らしさ』と『生きやすさ』を考える」イベントも展開していきます。

「民主主義をつくる」は、
巻頭論文
②「自由って何だ? SEALDsとの対話」 1 2(本記事) 3 4
③五百旗頭真・熊本県立大理事長インタビュー 1 2 3

の三つで構成しています。

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議論するSEALDsのメンバーと齋藤純一さん(右)

◆SEALDsからの出席者 千葉泰真(ちば・やすまさ)/元山仁士郎(もとやま・じんしろう)/今村幸子(いまむら・さちこ)/是恒香琳(これつね・かりん)/安部さくら(あべ・さくら)/大高 優歩(おおたか・ゆうほ)山本雅昭(やまもと・まさあき)

◆齋藤純一/早稲田大学政経学部教授(政治理論・政治思想史専攻)

◆司会 松本一弥/朝日新聞WEBRONZA編集長(末尾に参加者の略歴を掲載)


この国の民主主義をバージョンアップさせる


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国会前の車道を埋め尽くす抗議行動の参加者たち=2015年9月14日

是恒 一つ具体的な課題というか、私がどうしたものかなと思っていることがあるんです。昨年の夏は、国会前というある意味象徴的な場があった。ところが参院選になってくると、国会前は象徴ではなくなってくると思うんですよ。じゃあ、ほかの象徴をどうつくっていくか。それを、私は探している途中なんです。SEALDsとして、というより、私個人が考えていることですが。

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千葉泰真さん

千葉 結局デモしたって法案は成立したじゃないかって、ツイッターなんかでいろいろ批判されたんですよ。たしかにわかりやすい結果を求めている人たちはそう思うのかもしれない。でも、僕たちとしてはもっと広い目線で、この国の民主主義をバージョンアップさせるっていうことをキーワードとしてあげています。

一つは、やっぱり投票率の問題です。投票率を上げる、ということ。選挙するたびに、戦後最低の投票率が更新されるという世の中に対して、そんなことでは民主主義は100%安定しないよね、と訴えていきたい。

投票率を上げるには、投票所がもっと便利な場所にあったら、と思うんです。たとえば、僕らは学生だから、大学にあったら投票しやすいし。ほかにも、駅とかショッピングモールとかに投票所があったら、投票率が上がるかもしれない。そういう取り組みをしている自治体はすでにあるので、もっと協力して、投票所を便利な場所に設置する運動を起こしたいなと。

投票率を上げるってことに関しては、どこの党もノーとはいえないと思います。もし、投票所設置場所を増やして投票率が上がったのなら、それはひとつの結果になるのでは、と思っています。もちろん選挙の結果はどうかわからないですけどね。そういうプロジェクトが、いま立ち上がった段階です。

元山 投票所の設置は、SEALDsとしてやっていくことですね。これは、各都道府県、市町村の選挙管理委員会と相談しながらなので、各都道府県、市町村の市民を中心に行っていってほしいことなんです。その中でSEALDsとしては、大学に投票所を設置する事例をつくり、各地でもやってもらうという動きを起こしたいと考えています。

争点を自分たちでつくる


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今村幸子さん(左)と安部さくらさん

安部 選挙のことで私が考えているのは、選挙のときに自民党側が出してくるイシューに対抗できるように、こちら側から争点をつくるということです。

自民党は、自民党側にとっていいことしか絶対にいわないし、十分にメディアも使ってくるはず。それに対抗できるように、私たちが問いたいのはこれだ、とキチンと社会に発信していくというのは大事だと思っています。

今、一番日本にとって危機的なことは、立憲主義が軽んじられていることだと思うんです。でもそれを伝えるのは、結構むずかしくって。

私も初めて立憲主義っていう言葉を聞いたとき、自分からはかけ離れたものだと思っていた。教科書にのっている言葉としか捉えていなかった。けど、デモをしたり、自分で考えたり、行動したり、迷ったり、そういうことを通じて、憲法や立憲主義が、だんだん自分に近づいてきました。生活の一部になったんです。それがなくなると、どれだけ自分の生活に影響があるのか。今まであたり前だと思っていたことが崩れてしまうということに気がつきました。

立憲主義は、私たちの生活自体を支えているということに気づいたからこそ、声を上げることができた。そういうことを、もう少しわかりやすく、みんなに届く形で伝えたい。

政治の話はむずかしいという印象で終わらせずに、自分の生活に取り入れられる形で発信していくことは、次の選挙で大事だと思います。それと、経済のことも、すごく問題。このままいくと、どんどん立場の弱い人たちが追いやられていくと思う。強い人しか生き残れない社会になっていくと思うんです。だからこそ、安倍政権をサポートした結果、どういうことになるのか、ちゃんと根拠を示すことが大事なのかなって思います。

アーレントとウォリンのことば


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齋藤純一さん

齋藤  現代政治と権力の関係についてお聞きしたいと思います。権力の概念とは何か、という点ですね。けっこう、ハンナ・アーレントの本を読んでいらっしゃる方が多いですよね。

アーレントは、マックス・ウェーバーみたいに、抵抗する意志に逆らって自分の意志を貫徹することとして権力をとらえるのを批判して、権力は人々が協調して行為するところに生まれると述べています。同時に、けれども権力をずっとキープするのは非常にむずかしいっていうことをアーレント自身が語っています。

千葉眞先生(国際基督教大学特任教授、政治学)の師匠で、昨年亡くなったシェルドン・ウォリンという政治思想家がいるんですが、彼は「fugitive」っていう言葉を使うんだけど、これは「はかない」「一次的な」「うつろいゆく」っていう意味ですね。

昨年の夏は、SEALDsのデモで、かなりパワーが作りだされた。集まることによってパワーが作り出されたとは思うんだけども、それを、どうやって維持していくか。みなさん考えていることだと思うんだけど、ずっと同じ形のまま維持することはできないので、違う形で、姿形を変えて維持していく必要があると思うんです。「fugitive」っていうのは、推移していくという意味もあるので、姿形を変えて維持していくっていうことなんですが。

安保法制や立憲主義、憲法っていうのは、おそらく参院選の争点にはならないのではないか。社会の中のミドルクラスというか、中流が崩壊してきているから、余力ある社会層がだんだんなくなってきているんです。そんななかで、これから姿形を少しずつ変えていくときのSEALDsのテーマは、安保とか立憲主義と同時に、生活基盤にかかわる問題をアピールしていく必要があるんじゃないでしょうか。そういう点を、どう考えていますか。

争点はやっぱり立憲主義


千葉 これまで国政選挙で、経済以外のものがワンイシューで争点になったことがないっていうのは事実だと思う。僕らとしても、大きなイシューごとに意見を表明することは、やりやすいのかもしれない。もちろん、簡単ではないですけどね、勉強が必要なので。

でもそうはいっても、立憲主義というものをないがしろにされた、というバリューは、絶えずきちんと発信し続けていかないといけないっていうのはあるんです。それに加えて、そこじゃないと次の参院選で野党がつながれないというのが大きいんです。

だから、個別具体的なところに踏み込まずに、方向性を示すというゆるやかな連帯はつくるかもしれない。けど、じゃあ具体的にどうするかという点については、すごくセンシティブで難しいと思いますし、それを僕らが、市民側から提唱できるのかといったら、それだけの頭ももちろんないですし、それはすごくむずかしい。

でもとにかく僕らとしては、立憲主義の否定に対して、イエスかノーなのかっていうことは、次の選挙で絶対に争点にしないといけないと思っています。それ以外にも、自公政権が推し進めるような一連の政策に対して、向いているベクトルが違っていたら、そっちじゃなくてこっちなんだ、という政策の対抗軸みたいなものを、次の選挙で明確に打ち出したいと思っています。

もちろん、むずかしいと思うんですけど。でも、この先を見据えたときに、方向性として、そっちじゃなくてこっちなんだというのは、次の選挙で示したい、というか示さないといけないんじゃないか、というのはすごく思っています。

市民のためのシンクタンク「ReDEMOS」が始動


松本 SEALDsは昨年12月、学者や弁護士とともに、政党への政策提言などを行う市民版のシンクタンク「ReDEMOS(リデモス)」を立ち上げました。ホームページをみると、「ReDEMOSは、市民が参加し活用できる知のプラットフォームです」とあって、三つの活動のフェーズを上げています。

一つ目のフェーズは「パースペクティブ」で、「主権者である市民の熟議に資するために、重要な政治課題について分析し、多様な視点を提示します」と書かれています。

二つめが「ポレミック」で「論争的なイシューに関して異なる立場から自由闊達で建設的な議論を交わす場を提供します」。そして三つめが「プロポーザル」で「議論の深まりを踏まえて、市民、政府、政党および政治家に対する政策提言を行います」とある。「国会前抗議を原点に、日本の民主主義を問い直す場をつくる」とのことですが、具体的にはどういう活動をするのですか。

千葉 SEALDsは参院選で解散する、というのが決定事項なんです。じゃあ僕たちは、その先どうしたらいいかと考えたときに、ひとつは今の自公政権が推し進めるような政策軸に対して、それとは異なる対抗軸をきちんと作らなきゃいけないだろうと考えました。それは次の参院選だけじゃなくてその先を見越した動きでもあるんです。

一般社団法人「ReDEMOS(リデモス)」(※ReDEMOSとは、民衆(DEMOS)への応答(Re:)の意)は、そういう意味で短期的なスパンではなく、もっと中長期的なスパンで物事を考えていくための場と位置づけています。例えばReDEMOSが、政党が掲げるべき視点とか方向性を示して議論を重ねていき、その過程でいろんな立場の人たちを招いて議論をしたうえで、最後に政策提言まで持っていこうと。そのために法律を書ける弁護士の方などとも一緒にやっているんです。

あとは、いまReDEMOSに研究員として参加している学生というのは、将来的に研究者になり、アカデミズムの世界に進む学生が多いので、実際僕も大学院生ですから、いわゆるリベラル的な視点を持った研究を進めていって発信できる場を作りたいという思いもありました。僕らにとってポストドクターの問題っていうのはけっこう切実ですし。

既存のシンクタンクって、どうしても大企業の持ち物のような存在である場合が多いですよね。これに対してReDEMOSは、市民のためのシンクタンクを目指しているんです。市民に対して「こういう政策はどうか」ということを提案したい。政府に対するベクトルではなくて、市民に対するベクトル。

具体的な方法としては、コンテンツを提供するっていうのは「あり」だと思っています。なんで経済がうまくいっていないかとか、安保法制の問題点をわかりやすく動画などで説明したりとか。SEALDsが作っていた「6分でわかる安保法制」みたいなイメージですね。ああいったコンテンツを広めて「市民知」をグレードアップさせたいと思っています。

ReDEMOSのホームページ:  http://redemos.com/

齋藤 「市民知」ですか。

千葉 はい。憲法学者の樋口陽一先生がおっしゃられたことばなんですけど、「市民知」と「専門知」が接合するというのはすごく大きな力を持つんじゃないかと思いまして。僕らは、学生として「市民知」なのか、「専門知」なのか微妙なところにいると思いますけど、学者の方はもちろん「専門知」。法曹家の方も「専門知」で、そういった方と、市民の側から、「市民知」を融合する場を作りたいというのがすごくありますね。

松本 「市民知」について補足すると、昨年10月25日、法政大学で行われた「岐路に立つ日本の立憲主義・民主主義・平和主義」(主催:安全保障関連法に反対する学者の会、共催:SEALDs、協力:立憲デモクラシーの会)の中で樋口さんが話されたことばですね。樋口さんのお話の一部を抜粋する形で紹介しておきましょう。(以下、引用)

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樋口陽一さん

樋口 ここで私は「専門知」と「市民知」という一対のことばを考えます。(中略)良質な専門家、言い方はおかしいんですが、良質な専門家ほど世間一般に影響を及ぼす発言には慎重になります。それにはもちろん理由があります。一つの国民が何か重大な選択をしようとするとき、あえてしようとするとき、それを「専門知」の担い手が押しとどめる権利はありません。

しかし、その選択肢が人々の運命、世界の運命、地球の運命を左右する可能性のあるとき、それは危ない道だよという信号を発することは専門家としての義務ではないのか。(中略)

「市民知」の担い手が辱(はずかし)めを受けてはならない。「なめんなよ」という声を何度か若い人たちのシュプレヒコールのなかで耳にしました。これは大事なことです。私たち一人ひとりが誇りを持ちましょう。そういう意味を込めて、「なめんなよ」という精神、それが、このまさに危うげになった日本社会の知性、知能、品性というものを救うのでありましょう。(引用ここまで)

松本 ところで、ReDEMOS はSEALDsのメンバーが中心なんですか?

千葉 代表理事は奥田愛基(あき)くんです。なぜかというと、奥田くんがやろうと言い出したから(笑)。言いだしっぺだから責任を持つ、と。あとは中野晃一先生(上智大学教授)と、弁護士の水上貴央先生が理事になっていて、現状のメンバーはSEALDsが何人か入っているんですけど、SEALDsのメンバーだからとかいった入会条件をもうけるつもりはまったくないんです。

今後は、自分で研究や発信をしている積極的な学生さんたちをどんどん取り入れていって、みんなで視点を共有しながら議論を重ねて、最後は提言というところまでできたら、と。いまはそういうような団体がないのでおもしろい活動ができるんじゃないかなと思っています。また、12月の記者会見で言ったような民主主義推進一括法案というものをつくろうという計画も進んでいて、それがだんだん形になりつつあります。

自己責任論の危うさ


松本 次に「自己責任」という問題をみなさんと考えてみたいと思います。

いまの日本社会が直面している状況は非常にシビアなものです。例えば厚生労働省の調査では、18歳未満の子どもの貧困率は16・3%(2014年発表)で、6人に1人の子どもが貧困の中にいます。ひとり親など、大人が1人の家庭に限ると5割を超すとみられています。

また、奨学金なしには大学に行けない家庭も多く、しかもその奨学金が貸与型で一部は有利子だったりするので、卒業の時点で数百万円の借金を抱えてしまっている学生も少なくありません。さらに社会に出るといっても、ブラック企業が後を絶たない上に、厚生労働省の別の実態調査ではパートや派遣などの非正社員が労働者に占める割合が4割に達しています。

こうした格差や貧困は親から子へと世代間連鎖を起こしていて、容易にそこから抜け出せない状態が深く静かに進行しています。グローバル化が進展するなか、すべてを市場にゆだね、人間の価値や何もかもを無造作にその渦中に放り投げるような「自己責任論」、つまり「今、お前が苦しいのはすべてお前の責任だ」といった短絡的な思考に基づく他者批判が再び広まっているような印象を私は持っているんです。

齋藤さんも著書「自由」の中で、「あたかも無限の選択肢が与えられているかのように見えながら、現実に私たちの前に開かれている選択肢はごく限られている」という自由の「落差」を指摘した上でこう書かれています。

「選択の自由を妨げるような外的な障害はもはや存在しないとされるとき、各人に開かれている選択の幅は、各人の能力や努力あるいはリスクを引き受ける度量といった個人の問題に還元されやすい」「この自由の『落差』においても、不自由は公共的な問題として真剣に受け止められてはいない。というのは、ある人が『Bチーム』に転落したとしてもそれは彼ないし彼女の『自己責任』であるという論理が依然として通用しているからである」

齋藤 みなさんもけっこう生活がきつくて追いつめられていると感じていますか? というのも、「あなたが貧困になったのはあなたに自己責任がある」といういわれ方がある時期から世界的に強くなってきているからなんです。

みなさんはアメリカのジョンソン大統領ってご存知でしょうか。J・Fケネディの後の大統領です。彼は「貧困との闘い」を政策課題としました。あの大統領が退場したころ以降から、「貧困というのは、貧困になっている人に責任がある」というふうに描き方が変わってきた。そうした考え方が日本でもだいぶ定着してきていると思うからです。

実際問題として、選択ができる立場にある人は、自分の選択に対して責任をとるというのはあり得る話です。ところが、選択肢そのものがないなかで、あるいは選びようがないなかで、「責任をとれ」といわれても、それは困るっていうのが正論かなと僕は思うんです。みなさんは、どういう形で、自己責任論のイデオロギーを覆(くつがえ)していこうとしているのか、あるいは、そもそも自己責任論のどういうところに問題を感じているのか、そのあたりの考えを聞かせてもらえますか。

いかに〝自分のこと〟として考えられるか


今村 結局、みんないろんなことを他人事だと思っていることが問題なんだと思います。だって、社会の問題はすべてつながっているし、政治は私たちの生活全般にかかわる問題なわけで。

だから、沖縄の辺野古の新基地建設反対のフライヤー(チラシ)を作ったときも、すごく考えました。どうやったら、みんなが辺野古のことを〝自分ごと〟だと思ってくれるか。みんなで案を出しあいました。それで、「この島(くに)に生きる、あなたに問う」ってキャッチコピーをつけたんです。この国全体の、私たち一人ひとりの問題なんだよというメッセージを伝えたくて。

沖縄の問題は地方自治や民主主義、基本的人権に反している。つまり憲法、立憲主義に反しています。すなわちこのくにのあり方に関わる問題だから、別のところで起きている私には関係ない問題ではなくて、全部つながっている問題なんだよということを伝えたくて......。

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安部さくらさん(右)今村幸子さん

結局、私たちは、誰かと一緒じゃないと生きていけない。たとえば友だちが何かの問題で悲しんでいたら、自分も悲しいじゃないですか。友だちの友だちが悲しんでいたら、きっと私の友達も悲しいだろうし、そうやって社会全体の空気感は、悲しく重くなると思うんです。

だから、みんな一緒に生きているんだという感覚をどうやって広めたらいいのかな、ということを考えています。これからもずっと考えて、キャッチコピーとか別の方法でのアプローチとか、もっとグレードアップしていかないといけないなと思っているんですけど。政治のことや立憲主義の問題は、もっと日常の言葉で、何度も何度も伝えていかないといけない課題だと思っています。

他の選択肢がないと思い込まされていないか


千葉 かりに、すごく自由にいろんな選択肢があるなかで、何かを選択をして、それが失敗してしまったとしますよね。その場合、自己責任ということにはなると思うんです。でも、いまの社会は、例えば30、40代の家庭を持つ人が仕事で失敗してクビになってしまったら、そこで人生終了みたいになりますよね。

たしかに、仕事で失敗するっていうのは、ひとつの自己責任にあてはまるかもしれないんですけど、問題なのは、かりに自己責任であったとしても、その次の選択肢がないことがすごく問題だなと。本当に自由がないというか......。

安部 本当は別の選択肢があるはずなのに、ないように思い込まされている。だから、ひとつのところで失敗しちゃうと、もうなにもかも終わったみたいな感じに思ってしまう。

でも本当は、もっといっぱい選択肢があるはずだし。そこから抜け出すには、自分で選択肢をつくっていくっていうか、ほかの選択肢もあるんだっていう気づきを得るっていうか。そんなに大きなものじゃなくていいんですけど、別の生き方もあるっていうことを、どこかで思っていられたら、すごくラクなんじゃないかと思います。でも、そう思えない現状が日本社会にはある。自殺率がすごく高いのは、そういったこともあるように思います。

本当は、別の生き方ができたはずなのに、もうダメだと思い込まされちゃうっていうのは、その人の責任じゃなくて、社会の側の責任だと思う。自己責任って言われて、人に迷惑をかけちゃいけないとかそういう雰囲気があるでしょ。すごく生きづらい。それをどう打開するのかっていうのはむずかしい問題ですよね。

今村 ほかの選択肢があるはずなのに、本人も周りも、ないって思っているのはなぜなんだろう。詰め込み教育で、自分から考えて作っていくっていう経験があまりないから、国民全体が保守的になってきているのかな。教育が、そういう私たちの感覚や意識に与える影響は大きいんじゃないかなと思いますね。

教育を選ぶ選択肢が狭められている


千葉 たとえばアメリカだと、履歴書に年齢は書かなくていいとか、性的指向性は問われないとか、ありますよね。実態はともかくとして、そういった面においては、たぶん日本よりもはるかにアメリカは自由だと思うんです。

例えば、中学までは義務教育だけど、その先に進むかどうかは、ある種、選択肢が与えられている。僕は、高校に進学したいと思った。でも、行ける高校の選択肢が二つか三つしかなかったんですよね。なんでかというと、僕の地元は岩手県北の南三陸町の隣なんですけど、公共交通機関がない。

そういう環境のなかで、教育を受ける自由の選択肢は、かなり狭(せば)められているんです。現実問題として、大学に進学するために、すごく高度な教育を受けたいと思ったとしても、そういう僕の望みに対して選択肢になり得るような高校がなかった。まずその段階で自由は狭められていると思います。

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齋藤純一さんの「自由」を手にノートをとる

しかも、大学に進学するまでにほかの仕事をしたり、世界を旅したりして、22歳くらいで大学に入ったとしたら。つまり、その人は26歳で大学を卒業するわけですけど、26、7歳で社会に出たとき、じゃあ、その人がどれだけの職業の選択肢を持っているかといったら、すごく少ないと思うんですね。とくに日本社会では。

齋藤 そうだと思います。

千葉 下手して大学院なんかに進んじゃったら、もっと狭まる。間違ってドクターなんていっちゃったら、もう研究職しかない、みたいな(笑)。いや、研究職すらないっていう......。アカデミズムを突き詰めて、自分の学問的好奇心に突き進んで行った先が、逆に自分の選択肢を狭める結果になってしまっているというのは、学生にとって深刻な問題です。

ヨーロッパの企業はマスター(修士号)を持っている人がたくさんいる。ドクター(博士号)を持っているというのはある種あたり前でもあると思うんです。学歴主義みたいになっちゃうのも、もちろんそれはそれで良くないんですけど、選択肢の多様性という意味ではいいと思うんですよね。べつに、高卒とドクターが同じ職場にいて、同じ仕事して、能力は同じでもいいわけで。そこに年齢とかも問われないというのは、本来あるべき職場の形態なのかなと思うんですよ。

齋藤 僕はそんなにあちこち行ったわけじゃないけど、日本の大学は年齢のばらつきが少ない、少なすぎる。マスターでもドクターでも、アメリカだったら40歳くらいの人ってけっこういますよ。一度、社会に出てから戻ってきたり、別の勉強をしていたり。自分のやりたいことが違っていたので、また大学に入り直したみたいなね。だから、年齢のばらつきは非常に大きい。それが、全然気にならない。

日本は新卒一括採用がよくないと思うんですよね。この間、文部科学大臣の補佐官をやっている鈴木寛氏と話したんですけど、大学の入試が変わらないと、中学校、高校の教育が変わらないと。

彼の話だと、日本の子どもは、15歳の段階では世界で1~2位の力を持っている、読む力とか算数の力とか、理系的な推論とか。なのに、15歳から力が下がってくる。それは中学、高校の教育が非常に悪いからだ、と。なぜ15歳までは高いかというと、小学生はひと月に10冊くらい本を読んでる。高校生は1冊しか読んでいない。みなさん、そうでしたか?

千葉 いや、一冊も読んでなかった(笑)

一同 (笑)

齋藤 大学以前の段階で力の差がついている、それを回復するためには、本を読み、議論すると。孤独に思考するためにも、いっしょに議論する力がないと、孤独に思考することもできないのでね。これはカントが言っていることですけど、「デンケン」(思考)。自立的な思考というのは、「ミットデンケン」、つまり、ともに思考するなかで、はじめて成り立ちます。

たぶんみなさんは経験があると思うけど、入試を苦労して変えたからと言って、変わらない。やっぱり会社のリクルートメント、つまり新卒一括がメインでその年齢を過ぎるとどんどん不利になっていくという現状を変えないといけない。30歳を過ぎて社会に出て行くとか、40歳を過ぎて違う道に進むとか、そういう選択肢がまったくない。

不利って連鎖するんですよね。クビを切られて、栄養状態も悪くなって、人間関係も悪くなって、病気になってという形でディスアドバンテージは連鎖していくので。どこかで切るようなやり方で、介入できないと、一人の力では別の選択肢を選ぼう、探そうっていってもなかなかできない。それは独力では不可能だし、家族の力でも不可能だし。

千葉 その過程において、救済措置みたいなものが、社会保障としてとられていないという現状が、先進国において約3万人という自殺者を生み出していると思うんです。

デモに参加すると就職できない?


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元山仁士郎さん

元山 僕たちも、デモをやったら就職できないんじゃないかという問題がありました。

齋藤 それを考えたことがありますか?

元山 はい、そういうことはふつうに言われますし。

千葉 就職のことを気にして名前は出したくない人もいます。実際に1970年代には、日本でデモに参加したら就職に不利になったという最高裁の判決(三菱樹脂事件)とかも出ていますし。

松本 「三菱樹脂事件」では、学生の思想を理由に企業が採用を拒否したことが争われたんでしたね。1973年の最高裁判決は「特定の思想信条を有する者を雇うことを拒んでも、当然に違法とはいえない」というものでしたが、学会から批判され、企業側も結局その学生を雇ったという経緯がありました。

千葉 市役所のなかでもそういうのがある。個人の選択肢の幅っていうものが、政治に参加することによってすごく狭まるという状況があると思いますね。

齋藤 そうですね。

千葉 僕らも「自由と民主主義のための学生緊急行動」といって、路上で政治的な主張をしているわけですけど、僕らは自由を求めている反面、いま現状の日本社会では、行動することで、その自由がすごく狭まる。下手したら、すごくリスキーですよね。めちゃめちゃリスキーだと思う。

けど、それがいまの日本社会の現状。べつに見返りを求めているわけでもなく、ただ単純に、疑問や怒りをぶつけること、自分の思ったことを主張しているだけなのに。憲法には、言論の自由もすべて保証されているにもかかわらず、そういった主張をすることが、自分の首を絞めることになるという社会の現状に対して、僕たちは、それじゃいけないんだって、世の中に問いただしたいんだと思う。

齋藤 でも、そういうあなたたちの勇気を買ってくれる人もいるじゃない。自分の言葉で発信して、責任をとろうとしてやっていることに対して。リスクをとって抗議をした、というだけで、少しは、そういう行動を買ってくれる人もいるんじゃないですか。

是恒 たしかに。でも、国会前に来ている大人たちって、自営業だったりデザイナーだったり、フリーランスの人が多いんです。もちろん、大手企業の人もいたりはするんですけど、少ない印象です。あくまで印象ですが。そのへんが、やはり自由ではないのかなって。

アーレントの「全体主義の起源」


松本 「自由と自己責任」という難しいテーマなんですが、やや抽象的になりますが、ざっくりいって、力を持っている側のほうが、「自己責任」ということを以前より強く押し出しているような印象があるのです。でも、社会的に弱い立場にいる人の側が、そういう言葉をそのまま受け入れてしまうと、今度はそれをいいことに何か問題があっても、あたかも何も問題がなかったかのようにされてしまう。

そのへんのことを、政治哲学者のハンナ・アーレントが「全体主義の起源」という本の中で、「忘却の穴」という比喩的なことばで表現しているんですね。

東京大学大学院教育学研究科教授の小玉重夫さんは「いま読む!名著 ハンナ・アレント『人間の条件』を読み直す 難民と市民の間で」(現代書館)の中で、雨宮処凛さんが「難民化する若者たち 生きさせろ!」(太田出版)の中で杉田俊介さんと対談されている内容を紹介した上で、こう書かれています。

「二人の対話に登場する『忘却の穴』という概念こそ、アレントが『全体主義の起源』で考えようとしていたことの核心であった。すなわちそこで彼女は、第二次世界大戦中のナチス・ドイツやスターリンのロシアに代表されるような、全体主義のもとでの強制収容所の大量虐殺の背後にあった特徴をとらえる際に、この概念を用いた」

ちなみにアーレントは「全体主義の起源 3」(みすず書房)の中でこう書いています。

「警察の管轄下の牢獄や収容所は単に不法と犯罪のおこなわれる場所ではなかった。それらは、誰もがいつなんどき落ちこむかもしれず、落ちこんだら嘗(かつ)てこの世に存在したことがなかったかのように消滅してしまう忘却の穴に仕立てられていたのである」

つまり、権力を持っている側から言うと、その「忘却の穴」に人々を落としてしまえば、もう何も問題は存在しなかったことになるということです。そういうことが、第二次世界大戦中のドイツなどであったということですね。

そのことと自由の問題をつなげるときに、齋藤さんは、アーレントの「自由とは何か」(「過去と未来の間」所収、みすず書房)を引用しながら、著書「自由」でこう展開しつつ問題提起されています。

「自由は『行いや言葉において他者と出会う』ことができるということを意味しており、したがって自由は、個人が単独に享受しうるものではなく、他者との間においてはじめて享受されうるものとして理解されている、ということである。自由は、それぞれの個人に私的に帰属するものではなく、『他者との交わり』を可能とさせる公共的空間のうちに生じる」

ここがポイントだと私は思います。他者との交わりを可能とさせるような公共的空間のなかにこそ「自由」は生じる、と。これは非常にいい指摘だと思うのですが、このあたりのことと、SEALDsの今後の活動をつなげて考えるとどうなりますか?

齋藤 ちょっと補足します。アーレントは「全体主義の起源」のなかで、難民はどんな権利を奪われたかという問いをたてて、こう答えています。

難民は「諸権利をもつ権利を奪われた」と。具体的に、言論の表現の自由が奪われたとか、そういうことではなくて、諸々の権利を持つ権利を奪われたとアーレントは書いているんです。

奪われたのは「意見への権利」「意見への自由」「行為への権利」「行為への自由」。これは、他者を排除することによって成立する権利とは違う。たとえば所有権やプライバシー権などがそれにあたりますが、これは俺のプロパーのものだから、ここに入ってくるなということです。

つまり、他者を排除するときに権利がうまれる。こういうのが、権利の理解としてはわりと一般的にあると思うんだけど、一方で「諸権利をもつ権利」というのは、他者が応答してくれるときに初めて成り立つ権利なわけです。意見って、自分が自分で語ったことをひとりで聞いても、それは意見として成立しないでしょう? 自分の意見や自分の言葉に対して、他者が応答してくれる、そういう関係を互いの間で持ちうるかどうかが問題になります。

たとえばユダヤ人であるとか、同性愛者であるとか、精神疾患者であるとか、これらはすべてナチによって抹殺の対象になりましたが、そういう、なんであるか、ではなくて、何を語ったかとか何を行ったかによって自分が判断される。そういう関係をお互いの間につくっていかないと、そういう意見への権利とか、行為への権利などは実現できない。単独では得ることができない権利であり、単独では得ることのできない自由だということを強調しています。

路上は他者とまじわる場


松本 他者との交わりを可能にする公共的な空間を「現存させる」というか、そういう役目をSEALDsも一定程度担ったといえるのではないでしょうか? そうすると、「反安保法制」というキーワードが仮に後景に退いたとしても、「もうひとつ別のあり方」というものを追及していけるのではないかという気がします。

やたらと「自己責任」をいい合うこの社会において、「みんなバラバラに分断されて『忘却の穴』に落ちればいい」と考える人もいるでしょう。そういう、非常に視野狭窄な関係が強くなっているなかで、SEALDsのような集団がはたす役割として、「他者との交わりを公共的に提供する場」のような、そういう方向性もありうるのではないかと、齋藤さんの本やアーレントの本を読んで思ったのですが、そのあたりをどう考えますか。

齋藤 実際にSEALDsはそういう関係を作ってきたと思いますからね。

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安部さくらさん(右)今村幸子さん

安部 私は、路上でのデモがすごく好きなんですよ。国会前のデモよりも好きで。それはやっぱり、デモで街中を歩いていると、まったく知らない他者でも一緒に生きている、他者と交われたっていう気がするからなんです。路上側からの反応がいちばんおもしろいんですよね。通り過ぎるデモを見ている人たちは、何をいっているんだろう、どんな会話が交わされているんだろうって気になる。デモが通過したとき、外側から見ていた人が「あ、デモだ」とか「なんか楽しそう」とか、いってくれることがある。

松本 まさに「コール&レスポンス」のレスポンス(呼応)ですね。

安部 そう、レスポンスです。それを直接受けられる場なのでおもしろいし、そこでは、それまでは何を考えているかわからないと思っていた人とも交われる瞬間がある。そういう意味で、路上にいきなり現れた非日常的なデモというのはとても効果的だし、何か新しい動きを作ったり、新しい人を取り込んだりする可能性があると思うんです。

その瞬間は、一緒に歩こうということにはならないかもしれないけど、半年後、その人がもしかしたらデモにいたりとかするかもしれない。そう思うと、すごく面白いし楽しくなる。そういう意味で、デモは他者との交わりの場。異なる意見を持っていたり、まだ何を考えているかわからなかったりする他者と出会えるというのが、路上のデモの面白いところだと思っています。

齋藤 楽しそう、っていう声もあったんですか。

安部 ありました。飛び入りで入ってきて来てくれる人も結構いるし。子どもが、「え、なに?」みたいな感じで喜んでおもしろがってくれたり。何をいってるかわからなくても、おもしろいと気になってもらえれば、それだけでもいいなって。逆に、迷惑そうな反応だって、間近に見えるわけですけど、そういう反応に触れることも勉強になる。自分たちだけの内側に閉じこもっていかないために。

実際、自分が発している言葉が、人に伝わらない言葉になっているな、って感じるときがあります。だけど、路上のデモに出て、そういう否定的な反応する人とも直接出会うことで、「だったら、この人たちに伝わるような言葉をどう生み出していけばいいんだろう」、って自分に問い直せる場になりますね。

意見をいい合うことで自由になれる


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是恒香琳さん(右)と千葉泰真さん

齋藤 否定的な反応がかえってきたとき、どういうふうに対応するの?

安部 言葉で、直接何かいわれるわけじゃないけど、視線とか態度、たとえば耳をふさがれたり、目を反らしたり、舌打ちされたり。そういうことはありますね。でも、その人たちとも、いつかわかりあえることがあるかもしれない、って思います。そこに、賭けたくなるっていうか。

是恒 「自由である」ということを考えたときに、それぞれが思っていることをいわないことによって、みんなが自由な気持ちでいる、みたいな幻想があるようなんですけど。私、それって腹の探り合いをしているだけだと思うんです。

じつは私、友だちにSEALDsに入っているって、いってなかったんです。最初のころですが。どうしてかというと、友だちとの「公共空間」を崩したくなかったから。そういう意見の分かれそうなことはいわないで、私は別の部分でSEALDsとして活動していれば、お互いに違う意見でも共存していられるのかな、と思っていたんです。

でもそれだと、結局何も生まれないっていうか。それって、違うのかなとだんだん思い始めて。それで、あるときいったんですよ。「私、SEALDsに入っていて、自分はこういう意見で、だから安保法制には反対していて」って。

齋藤 カミングアウトしたんですね。

是恒 そうです。あ、でも私、それでも最初は自分の意見を言わずに、「安保法制についてどう思う?」って聞いたんです。「今、起きていることとか、どう思う?」って。そしたら相手に、「どうなんだろうね」とはぐらかされちゃって。お互いに腹の探り合い。

これじゃダメだって思って、ついにいったんです。「私は反対。おかしいと思う」って。それから一気に、「私は、SEALDsに入っていて、行動するべきだと思っている」っていったら、友だちの口がむずむずむずっと動いて。

動いたあとに、「いや」っていったんですよね。それから、「デモやっている人たちはきらいだ」と。「おかしいと思うんだよ」と言葉が続いていった。そこでやっと、はじめて意見交換ができたというか......

松本 相手に出会えたわけですね。

是恒 結局、友だちからは私と反対の意見が出たんですけど、自分が言葉に出していったことによって、相手もある意味で、自由になれた。友だちもたぶん、気づいていたと思うんですね、私がSEALDsに入っているって。ネットとかにも出ているし。気づいていながら、お互い黙っていたんだけど、いったことによって、初めて相手も自分の意見がいえるようになった。

そのときは、私も言い負かされちゃって、「くそーっ」と思って調べたりして。また相手に「でもさ、この間の話だけど、こうじゃないの?」っていったら、相手も調べて次に会ったときに意見をいってくる。もともと友だちっていう関係性があるからかもしれないけれど、それで関係が切れちゃうわけではなかった。

「原発ってどうなんだろうね」って探りを入れるのではなく、「私、反対なんだけど」「それ、違うと思う」ってハッキリ意見をいうことで生まれるおもしろさがあった。それが、一緒にいるってことなのかなと、最近感じます。

(撮影:吉永考宏)

◇出席者の略歴一覧


◆SEALDs

千葉泰真(ちば・やすまさ)
1991年生まれ。宮城県出身。明治学院大学卒業後、現在明治大学大学院博士前期課程に在籍。奥田愛基に誘われSASPLに参加。以来、SEALDsの中心メンバーとして活動。

元山仁士郎(もとやま・じんしろう)
1991年生まれ。沖縄県出身。国際基督教大学教養学部4年生。立憲主義と日米地位協定について学んでいる。SEALDsやSEALDs RYUKYUの中心メンバーとして活動。

今村幸子(いまむら・さちこ)
1993年生まれ。日本大学文芸学科3年。現代詩や小説の創作を専攻。SEALDsではサロンの企画、広報、『SEALDs 民主主義ってこれだ!』本の作成、選書などをしている。

是恒香琳(これつね・かりん)
1991年生まれ。日本女子大学文学研究科史学専攻修士二年。1991年生まれ。東京都出身。6月からSEALDsに参加。デモ班、メール対応、SEALDs選書プロジェクトなどに所属。

安部さくら(あべ・さくら)
1994年生まれ。東京都出身。明治学院大学国際学部3年。SEALDsでは出版班、写真班、広報班、サロン班に所属。

大高優歩(おおたか・ゆうほ)
1994年生まれ。千葉県出身。専門学校3年。SEALDsでは、コール、デモ等に使う機材の管理、運搬、交通整理、車輌の運転を担当。

山本雅昭(やまもと・まさあき)
1989年生まれ。東京都出身。獨協大学卒。SEALDsの前身、SASPLで、全体の統括、デモ現場の責任者などを担当。

◆齋藤純一(さいとう・じゅんいち)/早稲田大学政経学部教授(政治理論・政治思想史専攻)

1958年生まれ。早稲田大学政経学部卒。横浜国立大学経済学部教授を経て現職。著書に『自由』、『公共性』、『政治と複数性――民主的な公共性にむけて』(岩波書店)、編著に『親密圏のポリティクス』(ナカニシヤ出版)、訳書(共訳)にハンナ・アーレント『過去と未来の間』(みすず書房)、『アーレント政治思想集成』全2冊(みすず書房)など。

◆松本一弥(まつもと・かずや)/朝日新聞WEBRONZA編集長

1959年生まれ。早稲田大学法学部卒。月刊「論座」副編集長、オピニオン編集グループ次長、月刊「Journalism」編集長などを経て現職。満州事変以降のメディアの戦争責任を、朝日新聞を中心に検証したプロジェクト「新聞と戦争」では総括デスクを務めた。著書に『55人が語るイラク戦争―9・11後の世界を生きる』(岩波書店)、共著に『新聞と戦争』(上・下、朝日文庫)

2016-02-23-1456217138-8420084-logo.pngWEBRONZAは、特定の立場やイデオロギーにもたれかかった声高な論調を排し、落ち着いてじっくり考える人々のための「開かれた広場」でありたいと願っています。
ネットメディアならではの「瞬発力」を活かしつつ、政治や国際情勢、経済、社会、文化、スポーツ、エンタメまでを幅広く扱いながら、それぞれのジャンルで奥行きと深みのある論考を集めた「論の饗宴」を目指します。
また、記者クラブ発のニュースに依拠せず、現場の意見や地域に暮らす人々の声に積極的に耳を傾ける「シビック・ジャーナリズム」の一翼を担いたいとも考えています。
歴史家のE・H・カーは「歴史は現在と過去との対話」であるといいました。報道はともすれば日々新たな事象に目を奪われがちですが、ジャーナリズムのもう一つの仕事は「歴史との絶えざる対話」です。そのことを戦後71年目の今、改めて強く意識したいと思います。
過去の歴史から貴重な教訓を学びつつ、「多様な言論」を実践する取り組みを通して「過去・現在・未来を照らす言論サイト」になることに挑戦するとともに、ジャーナリズムの新たなあり方を模索していきます。

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