大切な何かを護るために

テロ、安保法制、異常気象etc....激動の2015年が暮れました。振り返れば"護る"ということについて思いをいたす機会の多い日々でした。

テロ、安保法制、異常気象etc....激動の2015年が暮れました。

振り返れば"護る"ということについて思いをいたす機会の多い日々でした。

平和を護る、地球環境を護る、国を護る、憲法を護る。

大切な何かをまもりたいという目的や気持ちは同じでも、そのアプローチや手段は人により立場によりかくもかけ離れており、だからこそその隔たりを超えて対話や議論を深め続けることが、何より大切であると教えられた一年でした。

中でも、安全保障法案をめぐる国会審議。平和を、国民を、そして憲法を、本当に"護る"ためにはどうすべきなのか、自分自身何度も自問自答を繰り返しました。

海洋の覇権獲得にアクセルを踏む中国や不安定さを増す北朝鮮など、近年、日本の安全保障環境が厳しさを増していることは事実です。そうした環境下で日本国民を護るため、日米同盟の強化など安全保障体制の見直しが必要であったことも理解できます。

しかし結論から言えば、今回成立した安全保障法制は日本の将来に大きな禍根を残しました。

集団的自衛権の行使がたとえ限定的であれ、憲法改正をおこなうことなく解釈の変更によって容認されたことは、この国の立憲主義を根本から脅かしかねない由々しき事態だからです。今後このような解釈改憲が繰り返されてゆけば、憲法はやがて形骸化しその存在意義や機能を失ってしまうでしょう。

ただ私は日本国憲法を、不磨の大典として一指も触れてはならないものとは、決して思ってはいません。

憲法は常に、時の権力者のパワーをコントロールし、国民を第一に護るために在るべきもの。したがって、地球環境の悪化やITの出現など社会の変化とともに、憲法もその時代の社会にそぐったものとなるように、変更すべきところは変更し、加筆すべきところは加筆していかなくては、「国民を護れる憲法」を護ってゆくことはできないと考えます。

「護憲」の本当の敵は、法的ルールに則った憲法改正ではありません。真の敵は、法的ルールのコントロールを受けず、時の政府によっていかようにでも判断基準が変わってしまう解釈改憲です。

2016年、海の向こうでは、米・仏という大国で大統領選がおこなわれます。その最有力候補の一人として有権者の支持を集めるのは、テロや難民問題を背景に急速に台頭してきた暴言王や極右党首です。

これが民主主義の現実です。

思えばヒットラー率いるナチス党も、第一次大戦の賠償金で貧困にあえぐドイツ国民により選挙で第一党に選ばれました。

民主主義を正当に正常に機能させることは容易なことでありませんが、要となるのは有権者の民度、つまり「主権者教育」です。

この時代、教育現場に託された使命の重さを痛感します。

2016年、平和を、自然環境を、民主主義を、私たち人間は護り続けられるのか。正念場とも言える一年が始まりました。

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