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国民の幸福を守れる「憲法」とは ~公布70年の年 憲法記念日に思う

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昨日5月3日は69回目の憲法記念日。5月3日は憲法の施行日ですので、この11月3日には現憲法が公布され70年を迎えることとなります。

今回の憲法記念日は、夏の参院選に向け憲法改正が争点となっていることもあり、憲法に関する報道の件数は明らかに増えています。ただその大半は、日本国憲法を一指も触れてはならぬ"不磨の大典"とするいわゆる護憲派と、現在の立憲的憲法を戦前の欽定憲法に回帰させかねないいわゆる改憲派という、きわめて両極端な主義主張の両論併記に過ぎません。

こうした"いわゆる"護憲派や改憲派の人々の主張や行動は、一般大衆つまりサイレント・マジョリティーからは、どちらもきわめて遠い存在に感じられます。両極端で教条主義的な主張の報道がなされればなされるほど、一定のバランス感覚を持ちながら現実的に物事を考え行動したいと思う普通の人々は、憲法論議への参加をためらってしまいます。

日本国憲法に誇りを持ち今後も大切に堅持して行きたいからこそ、9条二項のように現実との乖離があまりに著しい条文について、このまま放置しておいて良いのかと疑問を抱く人もいるでしょう。

また安全保障関連法制をめぐる経緯で示されたように、時の政権によって為される"解釈"によって事実上の改憲が歯止め無く、なし崩しに行われて行く危険があるのなら、法律に則り白日の下で正当な手続きを踏んで憲法改正が行われる方が健全と考える人もいるでしょう。

にもかかわらず、憲法にまつわる報道の多くがこの期に及んで、なお護憲か改憲かという乱暴な切り分けから脱することなく、「国民の幸福に資する憲法はいかにあるべきか」という議論の本質からかけ離れた、不毛な神学論争を上書きしているに過ぎないことは、残念に思えてなりません。

日本国憲法公布70周年を機に、マスコミは一般国民に広く「憲法」や「立憲主義」への理解を促し、私たちを取り巻く現実社会の中であるべき憲法の姿について、ごく普通の日本人がもっと気軽に議論できる土壌を作ることに、その紙面や放送時間をより多く割くべきではないでしょうか。

たとえば日本国憲法について、日本人の大半が「日本国の統治のあり方を定める基本的なルールであり、最高法規である」とまでは、認識していると思います。

ではその憲法が、国家の権力を制限し、個人の権利を保障する機能のある「立憲的憲法」であると認識している日本人が、一体どれほどいるでしょうか。

そもそも「立憲主義」について、正しく理解している日本人がこの国にどのくらいの割合で存在するのでしょうか。不勉強だった我が身を恥じるばかりですが、私自身、学生時代にはその意味を正確には理解できていなかった気がします。

「立憲主義」とは、個人の自由と人権を保障するため、政治権力を法によって規制しようという政治原則です。これに基づく憲法には、権力が侵害できない人権保障と、権力の集中を防ぐ権力分立、つまり立法権、行政権、司法権の三権分立が明確に定められています。

日本は「立憲国家」である―ついこの間まで至極当然だったその事実が、根本から覆されかねないような動きが、ここ数年、目立ち始めてきました。

3月29日のブログ「"緊急事態条項" ~危機が迫る今こそ徹底した議論を」で、自民党の憲法草案における「緊急事態条項」(98条及び99条)の問題点について述べましたが、こうした条項が明確な適用条件や適用範囲の示されぬまま実行に移されれば、立憲主義は一瞬で潰えてしまいます。

東日本大震災を機に、緊急事態条項を憲法に新設すべきという声が政府内外で高まってきたようですが、被災した岩手、宮城、福島3県42自治体にマスコミ各社がアンケート調査を実施したところ、「緊急事態条項の必要性を感じた」という回答はいずれの調査でも1自治体のみでした。

また、自民党憲法草案の13条では、現憲法で「個人」の尊重と記載されているところが、「人」の尊重と記載されています。

起草委員会幹部によれば、現憲法の表現が「個人主義を助長してきたきらいがある」から変更したとのことですが、健全な個人=自己の確立なしに、健全たる社会が実現されるとは、私は到底思えません。

司馬遼太郎氏は、小学校5,6年生の国語教科書のために書いたエッセイ『21世紀に生きる君たちへ』の中で、こう述べています。

「...

君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。

自分にきびしく、相手にはやさしく。という自己を。

そして、すなおでかしこい自己を。

(中略)

川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が科学と技術を支配し、
よい方向に持っていってほしいのである。

右においては、私は「自己」ということをしきりに言った。自己と言っても、
自己中心におちいってはならない。

人間は、助け合って生きているのである。

私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。斜めの画がたがいに支え合って、
構成されているのである。

そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う
仕組みということである。
...」

自己、つまり「個」の確立や尊重を後回し、あるいはないがしろにして社会を築いてしまうと、時代という川の流れが激しくなった時、その流れがたとえ人々を不幸に陥れるとわかっていても誰もそれを正すことはできず、社会は濁流に飲み込まれ押し流されてしまいます。

もちろん、司馬さんのおっしゃる通り、「人」とは素晴らしい文字であり、言葉であります。

より健全な社会を築いて行くため、これからの憲法には、利己主義を是正し社会がもっと支え合えるような条文を追加すべきである。そうした未来志向で謙虚な自己改革のための改憲が必要な時期に来ていると、私はそう思います。

しかし、互いに支え合う、その一本一本の線である自己が確立していない限り、その総和である社会は健全に機能することはありえません。

「個人」の尊重から「個」を削除して、「人」の尊重とすれば、司馬遼太郎氏が子どもたちに託したような、他者を思いやり人の痛みがわかる社会ができあがるという姑息な考えこそ、司馬さんが最も唾棄したものであるに違いありません。

日本国憲法70周年を機に、日本人の"人としての生き方"そのものについて、考察や議論を深める時期に来ているのではないでしょうか。