森友問題で明らかになった民主教育の危機

東京では桜も満開となり、新しい年度がスタートしました。しかしながら教育現場は、いつになく重苦しく緊張感に満ちた春を迎えています。

東京では桜も満開となり、新しい年度がスタートしました。

しかしながら教育現場は、いつになく重苦しく緊張感に満ちた春を迎えています。

極右的ポピュリズムが世界を席巻する中、日本でも確実に進行している民主主義教育への蹂躙。その事実が、森友学園をめぐる一連の騒動で次々と露見しているからです。

森友学園(=塚本幼稚園)という、戦前の軍国主義教育を彷彿とさせる教育を実践する学校に対し、政権の中枢にある政治家たちが賛辞を送り、教育内容に共感した首相夫人が名誉校長を引き受けたという事実。

そうした政治家あるいは首相夫人の言動を忖度したかはいざ知らず、森友学園の小学校建設用地として国有地が、隣接する土地よりも安価に評価された上、埋まっているゴミの処理費用という名目でさらに8億円も値引きされた結果、破格の安さで払い下げられたという事実。

しかも、その国有地払い下げ問題の責任者である官僚は、値引き価格の算定根拠となった資料は既に破棄されていると国会で答弁し、払い下げ価格の妥当性を客観的に評価することを妨げているという事実。

また大阪府では、事前の審議会でその財政状況や教育内容について多くの疑義が委員から森友学園に対し指摘されていたにもかかわらず、従来の設置基準を大幅に緩和し、森友学園に小学校設置の認可を与えたという事実。

しかもその責任を追及されると府知事は、「自分たちは国の方針に従っただけ」と全責任を政府に転嫁、府政の瑕疵を認めないという事実。

このような事実が同調圧力の強い日本社会で露見するたび、周囲の空気を読んで付和雷同的に生きることを良しとする人間が大勢を占める日本人の胸には、「これからは自由で民主的な言動は、人前では控えた方が得策」という自己規制的な意識が形成されて行きます。

こうした傾向は、教育に携わる者たちの心にもボディーブローのように深く暗い影を落としています。

自主自律の精神、寛容さや多様性を尊重する価値観に立脚した日本教育の座標軸は大きく揺らぎ、ともすると坂を転げ落ちるかのように右傾化して行ってしまうのではないか。

むしろ、政権の中枢に近い右翼的な議員たちが提唱しているような価値観、つまり国家に対し批判的・懐疑的な精神や思考を持つことなく、お上の命令や指示に盲目的に従い、隣国やその民族に対し差別的な言動をとることも厭わない。そんな価値観や考え方が、これからの教育の主流になっていくのではないかと、教育現場にある者の多くが危惧しています。

そうした時代背景の下、道徳の教科化が小学校は2018年度、中学校は2019年度から始まり、先月末、政府は「『教育勅語』を教材として使用することを否定しない」と閣議決定しました。「憲法に違反しない形で」という但し書きがつけられていますが、戦後、教育勅語は違憲とみなされたからこそ、衆参両院で排除・失効とされました。違憲として国会で排除・失効したものを、なぜ再び子どもたちの教材として使用できるのか、どう考えても論理矛盾を起こしています。

「臣民父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ...」という「教育勅語」の一節。

親に孝行し兄弟仲良く、夫婦は互いに支え合い友達とは信じ合いというその内容、私自身も誠にその通りと思います。では、なぜ「教育勅語」はその効力を喪失したのでしょうか。

その理由は教育勅語が、天皇を神の末裔である絶対的な存在として位置づける一方で、国民は「臣民」、つまり天皇に支配される民として位置づけていることにあります。

こうした絶対的な主従関係の下に天皇から発せられた「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」という一文を、軍部は自分たちの都合の良いように拡大解釈し、戦意高揚に利用しました。

この一文によって日本国民は、戦況について正確で客観的な情報を伝達することも取得することも禁じられ、主体的・自律的に思考することも許されぬまま、天皇を神と仰ぐ国家のために自らの命を捧げることこそが正義であり最善であると信じ、勇んで戦争に参画し、国内外に多くの犠牲を出す結果となりました。

教育にとって、最も大切な事。

それは、世の中や時代がどのように移り変わろうとも、常に「自分の頭で考え、自分の心で感じ、自分の意志をもって判断し行動できる人間を育てること」であると私は信じ、日々教育に携わっています。

「教育勅語」をもし教育現場で教えるというのであれば、判断力も育っていない幼い子どもたちに暗誦させるのではなく、その背景にある"戦争"という史実とともに、この文章が意味する内容を正確に教えるべきでしょう。

そうした上で、現代では死語となってしまった難解な用語について、それらの言葉が戦前・戦中に意味した具体的な内容を、当時の社会体制や社会的価値観とともに、大人は丁寧に解説すべきであると思います。

ちなみに、先ほど引用した「夫婦相和シ、朋友相信ジ」に続いて、教育勅語にはこのように記されています。

「恭倹(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ、博愛(はくあい)衆(しゅう)ニ及ボシ...」

恭倹とは、他者に対しては礼儀正しく丁寧に、自分自身は慎み深くふるまうということ。博愛を衆に及ぼすとは、誰にでも博愛の精神をもって手を差し伸べなさいということでしょう。

私はこの言葉を、明治天皇が発せられたことを日本人として誇りに思います。

「論語読みの論語知らず」ではありませんが、教育勅語を子どもたちに暗誦させることを奨励する人たちの言動は、少なくとも「恭倹」や「博愛」からは程遠いように私には思えます。

子どもたちに教育勅語を暗誦させる前に、まずはご自身がその内容を正しく理解し、実践することから始められてはいかがでしょうか。

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