選挙結果を見ながら日本における全ての『改革』について考える(前編)

なぜ日本におけるあらゆる「改革」は右も左もあまりうまく行かなかったのかというと、「古い国体」vs「ものすごく荒っぽい改革主義」的な二者択一になってしまっていたからなんですよね。
Japanese Prime Minister and ruling Liberal Democratic Party (LDP) president Shinzo Abe answers a question during a television interview at the party headquarters in Tokyo on December 14, 2014. Japanese Prime Minister Shinzo Abe won comfortable re-election December 14 in a snap poll he had billed as a referendum on his economic policies after early success faded into a recession. AFP PHOTO / TOSHIFUMI KITAMURA (Photo credit should read TOSHIFUMI KITAMURA/AFP/Getty Images)
Japanese Prime Minister and ruling Liberal Democratic Party (LDP) president Shinzo Abe answers a question during a television interview at the party headquarters in Tokyo on December 14, 2014. Japanese Prime Minister Shinzo Abe won comfortable re-election December 14 in a snap poll he had billed as a referendum on his economic policies after early success faded into a recession. AFP PHOTO / TOSHIFUMI KITAMURA (Photo credit should read TOSHIFUMI KITAMURA/AFP/Getty Images)
TOSHIFUMI KITAMURA via Getty Images

この原稿は、いわゆる「予定稿」として選挙結果が出る前に書いているわけですが、事前の見込みどおりに行けば選挙結果は与党の圧勝、いわゆる「アベノミクス路線」は信任された・・・ということになっている状況だと思います。

それに対して、

A・「左翼ざまぁ!」的な凱歌を上げている人

B・「とりあえずほっとした」という人

C・「絶望した!右傾化する日本に絶望した!」

という反応が大まかにいうと考えられると思いますが、ふと考えてみると、

実はBとCは相互理解可能な未来を描いていて、その結果はAの人にも悪いものじゃないはず

なのではないかと私は思っています。

Bのあなたは、

『もう右とか左とかわけわからん論争はいいよ。ある意味引き返し不能なアベノミクスやりはじめちゃったんだから、もう完遂するしかないだろ?お前らちゃんと危機感持ってんの?』

と思っていることが多いだろうと思いますし、そうするともういわゆるアベノミクス「第三の矢」=「構造改革」をやりきるしかない、どうしたらやりきれるだろうか?ということがイシュー(決定的な課題)になると思われます。

で、そういうBの人が思っている「改革」と「C」の人が思っているビジョンというのは「全っ然違う」ように一般的に思われているが、そこが「薩長同盟」的に結びついて同じビジョンに向かって動き出さないと、結局日本における「Bの改革」も「Cの改革」も決して進まないだろう、しかし、そこが「結びつきさえすれば」、絡まった紐があるキッカケからスルスルとほどけていくように、日本における「改革」は進むし、

Bの人の願う「構造改革」

Cの人が願う「"戦後左翼主義の夢"みたいなもの」

の延長に、

Aの人が願う「日本すげえええええ!イヤッホー!!」

という構図が成立するように持っていけるんじゃないかと私は考えているわけです。

これは、

・「安倍政権的なものをどうしても潰したいと思っているCの人」にとって、今までのやり方では決して突き抜けられなかった積年の課題の解決の方向性を示すもの

であり、

・「構造改革をやりきりたい人」「グローバル経済における日本の戦略性をしっかり打ち立てたいと願うBの人」にとっても、自分たちの戦略への「抵抗勢力」をうまく説得して本当に「改革」をやりきるための方策として参考にしていただけるもの

になっています。

目次は以下の通りです。

1・「戦後左翼の夢」と「構造改革者の夢」は実は同じ地点に着地したがっている。

2・「護持された古い国体」を壊すときには、「あたらしい国体」が必要になる。

3・"良識ある市場主義"への「大政奉還」が必要

4・英国的良識との連携と、日本の人文系の思想家(及び左翼メディア)の可能性が最後の鍵

とりあえず安倍政権は信任されたわけですし、安倍政権が憎くてたまらないCの人も、「なぜ安倍政権が今信任されているのか」について、それは自分たちの提示する現状認識や未来像について、何か真剣に問い直さないといけないことがあるからだ・・・というふうに、負けた選挙の次の日ぐらいは考えてみてもいいんじゃないかと思います。

一方で、「構造改革」を目指すあなたも、このまま第1の矢と第2の矢だけで乗り切れる情勢じゃないのは薄々わかっておられるでしょうし、ならば「日本における改革の難しさ」について一段深い視点から捉え返してみる・・・ような時間があってもいいように思います。

初めての方もおられると思うので、少しだけいつもやっている自己紹介をすると、私は大学卒業後、マッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社に入ったのですが、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「"右傾化"といったような単語で一概に否定されてしまうような人々の感情」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきました。

そのプロセスの中では、その「野蛮さ」の中にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラ↓をどうぞ。)

で、今はコンサル業に戻っているんですが、こういう「ナショナリズム的なものと、経済・経営 に関する問題の相互関係」について考える「経済思想家」というのも職業として掲げて、過去に三作の本を発表しています。(『21世紀の薩長同盟を結べ』『日本がアメリカに勝つ方法』『「アメリカの時代」の終焉に、生まれ変わる日本』

この問題は、「A・B・Cの3つのグループのそれぞれの内側」だけで盛り上がっていてもなかなか前に進めません。国レベルの決定的な決断の瞬間になってくると、別のグループの中の「どうしても譲れない一線」とぶつかってしまうからです。

しかし、現代社会の中でキチンとした有能性を発揮して生きようとすると、それぞれのグループの内部的論理をしっかりと内面化して研鑽に励むことは避けられない義務とすら言えるところがあります。

だからこそ、ネットの一期一会の中でこの記事に出会ったあなたが、私の体験を通じて「別グループの人との共同ビジョンの立ち上げの可能性」を感じていただければと思っています。

安倍政権が好きな人も嫌いな人も、ある程度共有できる方向性・・・が立ち上がって来ない限りは、そろそろ「シャレにならない」レベルの袋小路にぶつかりつつあるのがこの国ですからね。

1・「戦後左翼の夢」と「構造改革者の夢」は実は同じ地点に着地したがっている。

私は自分のことをいわゆる「リベラル」的な人間だと思っているんですが、しかし安倍政権のことは第一期の頃から真剣に応援していて、金融緩和路線には個人的には乗り気でないものの、ある種「賭け」に出てやり始めてしまった以上、いろんな情勢的にもうこの道は突っ走るしかない、議論はあとにするしかない・・・というようなことを思っています。

でもね、こういうことをいうと、ネットとかで私の主張をほんの一部分だけ見て「お、仲間だ!」って思って近づいてきた人が、私が安倍政権支持者だと知ったら突然豹変し、「信じてたのに裏切られた」的な反応を受けることがあったりするんですよ。

「勝手に期待して勝手に裏切られないでくれよ」的な感じもしますが、そういうのは個人的にショックが大きくて、だから折にふれて「彼ら(おそらくこの記事冒頭で言う"C"のあなた)の気持ち」について色々と知ろうと努力はしています。

で、最近の「左翼論壇」的には異色のヒット作となった白井聡氏の『永続敗戦論』という本を頑張って読んだんですよね。これは結構心理的にしんどくて、細切れ時間に読んでいたこともありますが、そう長い本ではないのに1ヶ月強はかかりました。

議論の内容自体はまあ追えるんですが、最初のうちは、著者の白井氏(およびこの本に心理的にコミットしているあなた)が「何に怒って」いて「何に侮辱されたと感じて」いるのか、どうしても理解できなくて、読み進むたびに常に「読者である自分」がものすごく作者に罵倒され続けているような気持ちになっていたんですよ。

ただこの本は一般的な印象と違って、内容的にはかなり"中立的で冷静"な本だということはだんだんわかってきました。いや、全編にわたって強烈に怒っているので"冷静"とは言いがたいかもしれないが(笑)、少なくとも中立的であろうとする意志は強固にあって、決して「戦後左翼的な惰性の延長で"右"っぽいものに怨念をぶつけている」本ではないのはわかった。

要するにこう、

戦後体制が抱えている根幹的な部分で「ナアナアにする」システムがこの国には組み込まれていることに怒っていて、その根源を暴きたいと思っていて、それに「侮辱」されていると感じている

のだということに共感できてからは、一気に読めるようになって、残っていた後半半分ほどのページはあっという間に読み終えることができました。

でも、

戦後体制が抱えている根幹的な部分で「ナアナアにする」システムがこの国には組み込まれていることに怒っていて、その根源を暴きたいと思っていて、それに「侮辱」されていると感じている

っていう言い方をすると、これはあらゆる「構造改革の完遂を望んでいる人たち(この記事冒頭で言う"B"の人たち)」と同じ「気持ち」といっていいように思います。この文章↑だけをとってみれば、それがどっちのグループの気持ちを指しているのかわからなくなるぐらいですよね。

私は最近仕事で、ある「グローバル展開している日本企業」の内実に触れる機会があったんですが、その会社はビジネス書や日経新聞的には実に「日本企業のグローバル化先進事例」っぽい印象の会社にもかかわらず、その会社の海外販売子会社で働く人たちの孤立無援っぷりに涙を誘われる思いがしました。

なんかこう・・・本社側の内部都合の延長で、純粋に日本国内だけの空気の支配で出された製品ラインナップを押し付けられて、

本社・「その国で売れ」

子会社・「え?はい、まあ売れと言われりゃ売りますけど、もうちょっとラインナップごとに特徴がわかりやすくなっててくれるとこちらも展開のしようがあるかと思うんですけど・・・」

本社・「今期はこれだけの数売れ」

子会社・「・・・・わかりました」

まあ実際こういう会話をするわけではないでしょうが実質こんな感じで、「火炎瓶で戦車に立ち向かったノモンハン」とか、「食料がないから畑を作って自給自足していた南方諸島戦線」を彷彿とさせられました。(それでいてかなりの海外売上比率を維持してるところがまた旧日本軍兵士を彷彿とさせるわけですが)

この絵↑の感じなんですよね本当に。

実はこの絵↑的な状況が社会の中に発現してしまうメカニズムを全体としてコントロールできるかできないかが、戦前における近隣諸国と自国民の不幸を再現せずに住むかどうかの決定的問題なわけですよね。だからこそ、その問題のコントロールに関する現実的な社会運営テクニックの習熟こそが、「戦争責任に対する本当の反省」であるはずなんですよ。「痛切な反省とお詫びの気持ち」なんて言葉を何億回繰り返したって、自分はなんて善人なんだろうと悦に入る効果はあるかもしれないが、再発防止には全然なりません。

元マッキンゼー日本代表の大前研一氏が最近の著書で、「昔の日本企業(彼が現役のマッキンゼーコンサルタントだった頃)には戦略を提示したら"やろう!"となってガリガリ実行する力があったが、今はそれが全然なくなってしまった」的なことを嘆いておられましたが、実際あらゆる参加者が責任逃れ的に空気を読んでいるだけで、決して横軸に連動した大きな戦略性を具現化できず、結果として末端に生きている「最前線兵士」に過剰な負担が押し付けられるという「この実に日本的な現象」は、今の日本にむしろより広がっている部分があります。

こういう状況のことを、前述の「永続敗戦論」的な立場から言うと、「無責任の体系」by丸山真男という風に言うのだろうと思います。

その「無責任の体系」の問題は、原発事故をめぐる迷走、沖縄基地問題に関する迷走・・・といった問題だけじゃなくて、現代日本の多くの企業体の内実、社会運営の内実として、どうしようも抑えられない悪癖として噴出してきています。

こういう問題を「構造改革主義者」的な論客は、「部分最適へのこだわりで全体最適が壊滅的なため、結局有効な運営が全然できない状態」というような表現をするのだと思います。

ほら、なんか「似たような問題意識」なんだな・・・って「気がしてきた」でしょう?

もちろん、近隣諸国との関係の作り方だとか、経済の運営の仕方だとか、そういう「気持ちが似てるからって目指す内容は違うんだよ」というのは重々承知しています。

しかし、「目指す社会の"感じ"」が似ているんだということは大事な発見です。日本人はたとえ「この記事冒頭の"A"の人たち」ですら、日常的にありとあらゆる部分で空気を読みまくらないといけない社会に少し疲れている部分はあるんですよ。「日本らしさ」「日本の良さ」が失われないのであれば、もっとクリアーでオープンな論理が通る社会にしたいというのは現代日本人の平均的な感覚と言って良いでしょう。

そしたら、どうしたらこの問題が乗り越えられるのか?について考えられそうな感じがしてきますね?

しかしその、"「日本らしさ」「日本の良さ」が失われないのであれば"という付帯条件が大事なんですよね。

でもそこさえ担保できるのならば・・・という視点で考えてみると、これは「全く違う立場」ではなくて、「どうやって段階的に移行させていくのか」という技術論的な話なのだという気が・・・してきませんか?

とりあえず「気がしてきた」程度でいいので、そういう気分のまま次の章へお進みください。

2・「護持された古い国体」を壊すときには、「あたらしい国体」が必要になる。

「永続敗戦論」(あるいはこの本にシンパシーを感じる人の議論)を読んでいて、どうしても私としては引っかかるのは、「無責任の体系」by丸山真男に該当するのは、戦前の日本をリードした責任者の"直系の子孫"である「自民党的な政治家と官僚組織と"財界人"」だけに限定して話を進めているように見えるところなんですよね。

でも、今や自民党政治家だって官僚だって"財界人"だって戦前と同じ人間がやっているわけではないですよね。

もちろん丸山真男氏がこの話をオリジナルにしたのは戦争直後ですから、その時は本当に同一人物だったんでしょうが、しかしそれでも、この「無責任の体系"現象"」とも言うべきものは、別に「自民党と官僚組織と財界人」だけのビョーキというわけではないわけですよね。

"一億総懺悔"的なことを言うようですが、メディアだって学者だって"何も悪いことをしていない日々頑張って働いている私ら庶民さん"だってこの「無責任の体系」に一役も二役も買ってるわけじゃないですか。

そこのところで、この「日本人が克服するべき"無責任の体系現象"という課題」を、戦後何十年の間、右の人も左の人も「全部相手側の責任」にして来たところがあるんですよね。

確かに現状の官僚システムは色々と機能不全が起きていて、「どの程度・どういう形」かはともかくもっと現場の自律性が自然に発揮される形に持っていくことが重要なんだろう・・・ということは、私と同じ世代なら中央官僚本人だって口をそろえて言うことだと思います。

ただ、いくら縦割りの弊害があろうと、中央官庁にはそこに降り積もった歴史の重みで逃げられない責任を「その分野」に対して持っている人間たちとノウハウの集積があって、ただそれを壊すだけだと、

「一つの"無責任の体系"を壊したら、別のもっと巨大な"無責任の体系"が出現した」

ということになりかねません。いや、ただ壊すだけだと明らかにそうなると断言してもいい。ちっちっちっ、日本人の集合体が持っている、泣く子も黙る「全体最適を扱うことの苦手さ」をナメてもらっちゃあ困るぜ!という感じです。

要するに、「永続敗戦論」的立場からすると「あらゆる侮辱の源泉」であるかのような「現状の"国体"」に我慢ならない思いを抱いているのは、おそらく結構な「マジョリティ」といっていいほどなんですよね。しかし、

「その国体」を壊した先に、どういう未来があるのか?

が大事なんですよ。明治維新以降ずっと続いてきている体制自体をぶっ壊したいなら、「着地」まで考えないといけない。「着地」さえ綺麗に決められる目算が立つなら、「古い国体」ぐらい明日にでも壊していいよ・・・というぐらいなのが日本人の歴史的な「体質」と言って良いだろうと思います。

で、実際には、「古い国体の延長」が博物館的に生きている領域のほうが、部分的ではあれ「まともな責任体系」が生きているのが現代日本なんですよね。

トヨタみたいなある意味古い体質の企業がやっぱり日本を代表する成果を出しているし、大前研一氏が現役コンサルタントだった時代は、「大前氏のような戦略性」と、「古い"国体の延長"」が共鳴しあって「全体最適と部分最適が調和して運営」されていたと見るべきでしょう(ほんのちょっと前までの韓国経済のように)。

もちろん、新進のカリスマベンチャー経営者が「個人的膂力」でコントロールしている範囲には「責任体系」が生きている部分はあります。でもこれはその「特殊な個人のカリスマ性」によるものでしかなく、「あたらしい時代の国体」に値するものになるかどうか・・・は、難しいと言わざるを得ません。

要するに、「古い国体」を壊したいなら、「あたらしい国体」を用意する必要がある・・・ってことなんですよね。「あたらしい国体」がだんだん練れてくれば、「昨日までの自分たちってなんだったんだ」的な節操なさで転換する性質があるのも、日本人の歴史が示していると言っていいでしょう。

この絵↑のように、「あたらしい納得できる国体」の"影"ぐらい見えてくれば、もう「古い国体」なんてポイー!的な感じになるのが歴史が証明する日本人の本来的感性なわけですからね。

「国体」とか言うと大仰ですけど、要するに「こういう風にやっていこうという共通了解」とか「空気」をどう作るのか・・・ということなんですよ。

その「共通了解をつくろうとする空気」がないと、果てしなく細分化されたタコツボの中で「俺は悪くない。俺は責任を果たしている。あいつらが悪い」とお互いを攻撃しあうだけに終わってしまう性質が日本人には特に強くあるからです。

セクショナリズムが横行して、あらゆる人間が内向きにただ自分の身の回り数十人の利害しか見ないでその延長をやろうとして、その無数のタコツボの寄せ集まりみたいになった全体的集団の運営はどこにも方向性がなく、結果としてありとあらゆる「現場」にシワ寄せがいって、「火炎瓶で戦車に立ち向かったノモンハン」とか、「食料がないから畑を作って自給自足していた南方諸島戦線」は日常的に大量生産されてしまうわけです。

そういう社会運営の失敗が「大本の原因」としてあって、"それによって抑圧されたあらゆる現場の不満"が一方向的に暴走していく先に、先の大戦のような不幸は"あくまでその結果として生まれてくる"んですよね。

そういう「巨大なエネルギーが行き場を失って暴走しはじめ」てから"個人的にできる範囲で止めようとした人間(今の時代絶対的に善人扱いされる)"と"もう仕方なく乗ってしまった人間(今の時代絶対的に悪人扱いされる)"との間に倫理的な差があるのか?っていうと私はほとんど無いと思っています。

その前の時点でそういう問題がそもそも起きないような「社会の運営テクニック」を身につけようとせずに放置していた時点で結局五十歩百歩だからです。

そこで、

「横断的な最適性を共有して、現場レベルの必死の働きが意味ある成果につながるように持っていくことが大事です。そしたら暴走するエネルギーを暴走させずに現実的な成果に繋げられるようになるよね!」

と書くと、これはもう安倍政権が嫌いとか好きとか関係ない、ある程度インテリな日本人共通の「悲願」みたいなものだと言えるでしょう。

もちろん、こういう言い方は、「経済分野」を偏重しすぎていて、私が大事にするような社会的正義や公正性の議論にはなじまない・・・という「(この記事冒頭の分類で言う)C派」のあなたもいるでしょう。

しかし、「そういう問題」こそ、極論同士の応酬に陥らずにお互いの良心を共鳴させあうような解決に向かわせるためには、「経済問題以上」に、こういう「横断的な最適性の共有の機運」が必要なんですよね。

そして、「極論同士の応酬」状態から、もっと豊かなメッシュ感で微調整が常に可能な状態に持っていかない限り決して解決しません。その辺りのことは、日韓関係や朝日新聞の問題について書いた前回の記事を参照いただければと思います。

では、どうしたらそういう「あたらしい国体」を作っていけるのか?それは次章に述べましょう。

3・"良識ある市場主義"への「大政奉還」が必要

ここまでの問題を一言でまとめると、なぜ日本におけるあらゆる「改革」は右も左もあまりうまく行かなかったのかというと、

「古い国体」vs「ものすごく荒っぽい改革主義」的な二者択一

になってしまっていたからなんですよね。

要するに、問題は「改革主義のメッシュの粗さ」なんですよ。

メッシュの粗さ・・・というのは、前回の記事で書いた

高級車のサスペンションは密度が高いので、多少の段差があってもそれを柔らかく受け止めて乗っている人に衝撃を伝えません。一方で、安い車のサスペンションは密度感が荒いので、ショックが入ってくるとガツーンと両極端に触れてしまって衝撃が大きくなります。

イメージを持ってもらうためにいろんな例を話しますが、例えば商いの量の大きい大型株は多少のショックがあっても吸収されて株価の変動が緩やかになりますが、取引者があんまりいなくて商いの薄い株はちょっとしたショックでものすごく乱高下したりします。

そういう「メッシュの粗さ」的な問題を解決することが、今の日韓関係で一番大事なことなんですよ。

「ここまではお互い飲める」「ここから先はいくら"被害者側"だからって言いすぎ」という微調整が、最近流行のハイレゾオーディオのようにどこまでも「高精細」に読み取れるようになっていけば、日韓関係の改善は進みはじめるでしょう。

的な問題です。議論がゼロイチに極論化してしまうので、ビジョン的にはかなり共鳴してくれるような層ですら、その変革に参加してこなくなってしまう。

官僚を敵視するあまり、ありとあらゆる問題を官僚のせいにして妙に陰謀論的になってしまうとか。

市場原理による統治で全体最適を回復しようとするあまり、ものすごく荒っぽい議論で「現場的優秀性」まで消し飛んでしまうような方策を実行しようとしたりとか。

そういう「極論から極論への変動」をうまく受け止める良識の共有がちゃんと生まれてくれば、「変革」自体はトヨタの生産ラインが日々構成員の自発的工夫の積み重ねによって全然違うものにブラッシュアップされていくように、日本は「変革が常態」なぐらいになれるんですよ。

以下の絵のように(クリックで拡大します)、

「変動を取り込めるサスペンションの形成」こそが、日本において「改革」を進めるために今どうしても必要なものなんですよね。

こういう問題で難しいのは、現代社会というのは、ほんのちょっと油断すると完全に「社会が隅々までアメリカ化」してしまう流れに常に晒されているんだということなんですよね。

だから、「良心を持った改革者」が「ほんのちょっと、俺があと一歩手を伸ばさせてくれたら俺の身の回りのあらゆる人にとって有益な改革ができるはずなのに!」と思って「改革」を断行した時に、その切れ目から果てしなくグローバリズムの良い部分も悪い部分も一緒くたに流入してしまって、いずれアメリカみたいに末端のスラム街は果てしなくもうどうしようもない暗黒に包まれてしまうような社会になってしまう可能性がある。

つまり、あなたがどういう立場にしろ、この記事をここまで読んでいるんだから相当に意識の高い、「トップ数%」的な良識を持った改革派なんだろうと思います。しかし、その「ティア1」のあなたの良心を具現化する「改革」を一歩行った時に、なんにも考えてない欲望のままに動く「ティア2」「ティア3」的な有象無象が暴走して、どこまでも「アメリカ的分断」の中に落ち込んでいく可能性があるわけです。

この問題は常にこういう「合成の誤謬」を抱えているんですよ。合成の誤謬っていうのは「劇場の客席で立った方が舞台がよく見えるぜ!俺って天才!」と思ってみんなが立ち上がると誰もが余計に舞台が見づらくなる・・・というような問題のことです。

ノーベル賞を受賞された中村修二氏のインタビューが、彼が背負っている日本社会との関係における運命ゆえに、常にこの「典型例」という感じになるんですが、「日本にはこういう良いところがあるが、こういう悪いところがある」「アメリカにはこういう悪いところもあるが、こういう良いところがある」までの現状認識はほとんどの人が合意できて、できれば「アメリカの良い部分」を取り入れていきたいね、となるんですが、「アメリカの良い部分と悪い部分は表裏一体」なので、無理やりに「アメリカの良い部分を直輸入」しようとすると、「日本の良い部分も消えるわアメリカの良い部分ほどの良さは身につかないわ」となるし、そういう「風潮」が暴走すればするほど余計に社会全体を必死に防衛的な引きこもり状態にして内輪でグズグズやってないと社会が崩壊してしまう本末転倒的状況になっていくわけですよ。

つまり、中村修二氏の懸念は物凄いもっともなんですが、彼のような発言パターンが横行すればするほど日本は内向きにならざるを得ない構造的問題があるんだってことなんですよね。

でも、このままでいいとは誰も思ってないわけですよね。だからこそ、「一般論じゃない個別解」を徹底的に考えて、「アメリカが現時点で実現している"良さ"を、日本ならではの経路で具現化する方法」について真剣に考えなくちゃいけないんですね。そこがシッカリできれば、内輪でグズグズ守り合って「国体護持」をする必要がなくなるんで、成果物のグローバルな売り込みだって当然乗り気になって広範囲の力を自然に結集できるようになるわけです。

私は最初の本を出した時に、マッキンゼーの卒業生MLってところで著書の宣伝がてらこういう議論をふっかけたことがあるんですが、色んな人から異口同音に「そういう議論は結局全てをナアナアにしたい既得権益に安住する人間を利するだけに終わらないか」という指摘を受けました。

そういう懸念は常にあるのは当然ですし、「ある具体的な改革」を今まさに実行している現場にいる人にはそういうガッツが必要だということもわかります。しかしそういう人の改革すら、その思いを遂げやすくする「環境そのもの」を整備するにはこういう「もう一段広い範囲の議論」が実は不可欠なんですよ。

それでも、そういう場で私のような議論を持ち出すと、どうしようもなく「固陋な守旧派」的なイメージになってしまうんですが、でも私が言っていることは、アメリカのティーパーティー運動の参加者や、その背後にいるスポンサーたちよりも、本質的にはさらにもっとずっとラジカルなことなんですよ。

一方向的に無理押しにしたって前に進めないけど、最初の部分で丁寧にやればだんだんスムーズになって加速がついていって最後まで行けることってたくさんありますよね。成田空港だって、最初のところでもっと誠意を尽くしていればいまだにこじれてるなんてことはなかったはずなわけで。

たとえるなら!知恵の輪ができなくてかんしゃくを起こしたバカな怪力男という感じだぜ (ジョジョの奇妙な冒険の空条承太郎のセリフ)

で、じゃあどうすればいいのか・・・・というのが、この項のタイトルに書いた「良識ある市場主義」的なものへの大政奉還・・・ということになるんですよね。

例えば、最近メディアでちょっとずつ注目されつつあるデーヴィッド・アトキンソンさんという方をご存知でしょうか。

彼はイギリス人で"あの資本主義の権化"ゴールドマン・サックスの元役員であり、投資銀行時代には日本の不良債権の一括した処理方式の提言で有名になり(古いタイプの"財界"と相当やりあったそうです)ながら、40代で退職後、京都の町家を買ってオリジナルな時代の様式で修復して移り住んだり、裏千家の茶道を習ったりと悠々自適生活をしていたところに、別荘が隣だったという縁で日本の国宝や文化財の補修を行う会社の社長になった人です。

↑なんかこのプロフィール、前半と後半で同じ人物とは思えない感じですけど(笑)でも、著書とネットニュースで拝見しただけでも、彼の存在は本当に面白いです。

アトキンソン氏は、小西美術工藝社の社長になってから、文化財の質に関わらないコストを徹底してカットした上で、果てしなく年功序列で上がっていく職人の給料を高齢層の部分である程度抑制した分、若手職人を全員正社員として登用、技術の継承にも力を入れ、また国内の文化財の修復には中国産でなく日本産の漆を使うべきだという運動を起こして実現させたり・・・と、八面六臂の大活躍をされています。

いろんなネットニュースにも取り上げられていますが、この日経ビジネスオンラインの記事が、一番「内実」まで踏み込んだわかりやすい記事だったように思います。

一般企業は年齢とともに給料がある程度まで上がっていって、その後は定年に向かって下がっていく中で、職人だけが80歳になっても自分たちは給料が上がっていくべきというのはおかしいでしょう。そして、若い人は職人になりたがらないと言いますが、そんなことはありません。

80歳になっても果てしなくあがっていくことになっていた給料システムを改めることで、若手にちゃんと正社員の職を与え、技術研修もシッカリやり、古い伝統技術の継承もできるようになったし、各方面に働きかけることで中国産でなく日本産の漆を使うこともできるようになった。

要するに、「国宝」とか「日本人の心」を守る・・・といっても、その存在があまりにもアンタッチャブルになってしまうと、余計にそこに回るお金が減ってしまって縮小均衡が続き、そもそもその「文化を守る」という目的すら果たせなくなってしまうんですね(実際アトキンソン氏 が日本の文化財の現場で見聞きしているように、そういう形で果てしなく余計に荒廃させられていっている"日本の良さ"というのは厳然としてある)。

逆に、ちゃんと「配慮した上での適切な市場主義」を通していけば、壊死寸前だった「日本の本来的な良さが眠っている部分」にあたらしい血が通い、若い人がちゃんと正社員として参加し、伝統が継承され、好循環の中に自然に未来へつながっていくあたらしい文化が生まれる可能性があるということなんですよ。

10年ほど前の小泉政権ぐらいの時に、日本では「モノ言う株主」っていうのが脚光を浴びたことがありましたが、あの時代の「モノ言う株主」っていうのは、正直7割ぐらい良いこと言ってても、残り3割で日本が瀬戸際で守ってる日本の良さの根源みたいなものまで全部根こそぎ吹き飛ばしてしまうようなムチャクチャなことを言ってることが多かったですよね。

あの時代に彼らに過剰な権力が与えられてしまっていたら、その後ほんの数年の好調期は謳歌できたかもしれないが、そのうち馬脚を現して今頃日本はアメリカみたいにスラム街は本当にムチャクチャなスラム街になり、日本経済の強みを支えていたようなある種の密度感は根こそぎ吹き飛んでしまい、かといってアメリカが社会のあらゆるエネルギーを一点集中することで実現している類の産業では微妙な成果しか出せず、結果としてどこにも強みがないスカスカの経済になっていたでしょう。

逆に言うと、そこまで行くわけにいかないからこそ、日本のいわゆる「抵抗勢力さん」が「古い国体」を護持すべく耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで押し返してくれていたんだと言えます。

そのおかげで、自動車産業や工作機械、電機産業でも微細な基幹部品産業・・・といった「密度感」が必要な分野では世界最強といっていいほどの位置を失わずにいられている。

もちろん、結果としてグローバルBtoCビジネス的な、ここ10年サムスンが大得意だったような世界からは果てしなく凋落しています。「内輪で肩寄せ合って維持してきた密度感」も、ちゃんとグローバルに売っていける状況を作らないと、日本の国宝修復ビジネスが陥っているような「根腐れ」状態になっていく危険性があります。

でもね、そういう分野においても、「自分たちなりのユニークな強み」の部分が断固「国体護持」されていれば、その延長としての売り込みが必ずできる時代や情勢はやってくるし、そうやって「日本人の共有できる強み」を一体的に押し出していってこそ、末端レベルにおいて「"国体"に押しつぶされる帝国軍人の悲哀」を本当の意味で消していくことも可能になるんですよね。

「(良くないタイプの)モノ言う株主」的な、「グローバリズムの威を借る狐」みたいな存在が私が心底嫌いなのは、彼らは「今の時代たまたま脚光浴びてる存在」の尻馬に乗って「それ以外」をぶち壊すようなことを言うだけで、「その次」を描くために必要なユニークネスに対する理解が全然ないことなんですよ。(で、今後もし"日本の良さ"がちゃんと一貫して提示していけるようになったら、彼らはこぞって10年前からそれに着目してたかのような口ぶりで話し始めるんで、その時はシッカリ嘲笑してやりましょうね)

で、そういう人たちの暴走を排除したことによって、日本メーカーにはちゃんと蓄積されてきた技術ってのがあるわけですよね。もちろん、今の時代それが「わかりづらい」存在に押し込められているから、世界的なプレゼンスは低下している。

でも最近、ハイレゾオーディオとか、4Kテレビとか、「画質とか音質じゃねんだよぉ、これだから日本メーカーはわかってねえよなあ」と罵倒され続けてきた商品に光があたりつつありますよね。デジカメだってスマホに取り込まれていきつつ、プロユースに近いような一眼レフは未だに日本メーカーの存在感が抜群です。

スマホが普及してから、新興国経済の発展もあいまって、世界中でものすごい数の人間が携帯で音楽を聞き、動画を見、写真を撮って、ネットで共有して・・・ってやってるわけで、それは「ウォークマン(というか携帯音楽プレイヤー)・テレビ・カメラ」のローエンドモデルには大打撃ですけど、超高密度ハイエンドモデルに関しては「見込顧客が世界中にバンバン大量生産されてってるウハウハな世界」とも言えるわけですよ。

「その領域」を取りに行く一貫した戦略を持たなくちゃいけない。そこだけは絶対にサムスンに取られてはいけない。いいか、絶対にだ!

私の父親はカメラマニアで、もう物置状態になってる私の実家の部屋にはある日本のカメラメーカーのレンズやらカメラやらが「なんでこんなに・・・」ってぐらい"陳列"されていたりして、そういう環境で育った自分としては、「全部汎用品的スマホに収斂しちゃう」のはある種の「人間感性の底辺への競争」だなと思ってるぐらいなんですよね。

また、そういう「技術的ハイエンド」とはちょっと違いますが、「デザイン潮流」的なものでいっても、「アップル的なミニマリズム」を超える流れを生み出せるのは日本の「密度感」の成果物であるはずなんですよ。

例えば私は少し前に妻が使うソニーのノートPCを買ったんですが、そのデザインのカッコよさにシビレたんですよね。このタイプのピンクで、ウェブサイトで見ても全然どうってことない平凡なピンクですけど、実物の天板とか見ると「ムチャクチャかっこいい」です。

もうなんというか、製造前のサンプルが上がってきた時に、「いやいやこの色じゃないですよ」「え?ピンクですけど?」「ピンクだったら何でも同じピンクと思っててもらったら困りますよ全っ然違う色になってるじゃないですか!」的なやりとりでシバキまくってやっと出る色と質感みたいな感じで。

新型のエクスペリアもよぉく見ると、背面のガラスの質感とか「カッコイイですよねえ・・・」って携帯ショップの店員さんと一緒にため息ついてきたぐらいで(でもその家電量販店での売られ方たるや全然そんな見え方がされてないんですけど)。

こういうのは、テレビ出版音楽広告その他東京のオールドマスメディアが寄ってたかって突き回して維持してきた密度感の中で鍛えられた「おいしい生活」的な爛熟した消費文化の積み重ねの中で、やっと成立する世界なんですよね。

これに比べたらアップル製品のアルミの塊をゴロッと削り出しただけのデザインなんてミニマリズムと言えば聞こえはいいが、「シリコンバレーギークが理屈で扱える精一杯のオサレ感」というか、もっと言えば「チャキーン!カシーン!ジャキーン!超・変・身、合 体ッ!ドッカーン!!うおおおおおおかっけえええええ!」的な小学生男子のセンスと言っていいでしょう。

ただね!私個人は、所詮自分なんて小学生男子のセンスがお似合いだし、それ以上ハイセンスだと困るよな・・・と思ってここ数年はMacBook AirとiPhoneユーザーなんですよ。昔はVAIO使ってたんですけど、平井社長体制になって明らかにプロダクトが良くなったんで、むしろカッコよすぎて苦手みたいになってしまって乗り換えたってぐらいで。そういう意味でのアップル的デザインのニーズは当然今後も残るはずなんですよね。

でも、「このアップルのセンス」が「唯一無二のハイセンス」として通用してる世界は、「上」があまりにも画一化されて抑圧されてる世界だし、ソニーが一部製品で体現しているようなデザインの志向性を潜在的に強く求めている層は確実に世界にいるはずです。(でもウェブサイトで見る上記のVAIOの天板がものすごい平凡に見えるように、はっきり言って全然売り込めてない)

アメリカンな理屈だけで追い込める最大公約数的なミニマリズムデザインとも違うし、なんか奇抜なことして目立てばいいんでしょう?的な新興国メーカーのデザインとも違う。表参道とか代官山の裏通りのセレクトショップ的な文化の分厚い積み重ねとか、僕は行ったことないんですけど新宿伊勢丹みたいな価値観を軸として二十年以上旋回し続けてきたバブル世代のお姉さんたちの消費意欲と吟味の積み重ねによってやっと実現するデザインなんですよね。

そういう「技術的ハイエンド」にしろ「デザイン的ハイエンド」にしろ、「日本人1億人の日常を活きる丁寧さと密度感の総体」に支えられているユニークネスなわけですけど、それをちゃんと明確に対象化して取り扱って、そこにグローバリズムがあらゆるダイバシティをなぎ倒して標準化していってしまう世界が生み出す

窒息感に風穴を開ける「あたらしい文明」としての日本ブランドの提示

ができれば、10年前に「韓国やシンガポール的な戦略」を取らずに(取れずに)グズグズとどっちつかずにやってきた日本だからこそ踏み込んでいけるブルーオーシャン的フロンティアが開けているわけですよ。

そこに一貫した戦略が持てれば、世界中に大量出現している「あたらしい中間層」の、「フェイスブックで友人から一歩差をつけたいニーズ」につけこんで、「やっぱり色々体験して本物志向になっちゃうと、最後は日本製品にたどり着いちゃうよね(その価値がわかる俺ってかっこいい・・・)」需要をあらゆる国から薄く広く大量に取ってくることができる

今の時代、うまくやれば「グローバル中間層の中の、さらに上から順番に数%の日本に物凄く興味ある層と、上から順番に数%の"アップル的デザインを超えて行きたい層"」にだけ選別的に広告を見せて展開していったりできるんですからね。『ここ1年以内に35回以上"SAMURAI"とか"NINJA"とか"ZEN"とか検索したことのある年収10万ドル以上の男女(国籍問わず)』にだけ物凄いリッチな動画コンテンツを広告として見せられたりする時代なんですから。

今の時代の「バイラルマーケティング(ネットでウィルスのように広がる評判を利用したマーケティングのこと)」って、物凄いドロドロにケチャップ味的な"共感の押し売り"みたいになってしまって、ここで言う「日本が本来売るべきもの」が果てしなく抑圧されていく方向になりがちなんですが、本当は逆に発想をかえて「新時代のピンポイントなマーケティングを大会社スケールで乱れ打ちにする戦略」で、「特別なセンスを持つあなただけに」という形で「ザクとは違うのだよ、ザクとは(機動戦士ガンダムのランバ・ラルのセリフ)」的なメッセージの発信を徹底的に追求していかなくちゃいけない状況なんですよね。

そういう「"グローバリズム的最大公約数に押し込められてしまった人類の窒息感"を超える希望となる最先端のハイセンスの世界なんだ」という打ち出しで、「あたらしい文明」を提示できれば、「最もハイセンスな存在」にだけアプローチして、そこからその人達に付いてくるフォロワーを引っ張ってきて大きなムーブメントに育てていくこともできるわけです。

そうやってこそ、「グローバリズム的な大雑把さを徹底拒否して、理解されずとも丁寧に生きようとしてきた日本の過去10年」の「あらゆる"みんなの思い"」をちゃんと世界中に「あたらしい価値」として提示できるようになる。その価値を世界中から換金して持ってくることで、「日常をシッカリ生きている1億人」がちゃんと食っていける余地も生まれる。

この10年でローエンド商品をサムスンや中華メーカーにボコボコにされてる分、かえってブランド的混乱を気にせずに積極的に展開していける状況が整っていると言ってもいい(まあ戦略的整合性が取れるなら、新品が型落ちiPhoneと同等ってぐらいの価格帯には入ってってもいいかもしれないが)。また、性能が高くなりすぎちゃってスマホなんて正直どれでも一緒だよね・・・・ぐらいにまでコモディティ化が進んだ時代だからこそ、「一朝一夕では身につかない最先端デザイン」みたいな差別化が逆に物凄く効いてくる時代が来るはずだとも言える。

そのためには、「1億人のあり方のユニークネス」の延長としての「強み」を、一般論ではない「個別解」として徹底して掘り下げた戦略が必要になってくるんですよ。「代表」と「それを支える無数の人たち」がちゃんと根本的な意味でのシナジー関係になるような、何かの後追いじゃない 一貫した「個別解」の戦略を打ち立てなくては。

そうすれば、「横串の通った戦略性」が全くない魚河岸に転がったマグロの群れ(スティーブ・ジョブズが日系メーカーのパソコンについて言った言葉)みたいな製品を「とにかく売れ」と押し付けられる現地子会社の最前線兵士たちの、

の絵的な状況にも光明が訪れ、やっと日本の「戦争の失敗への反省」に現実レベルでの「社会運営のノウハウ」としての解答を与えることができるようになるでしょう。

もちろん、それには「一般論じゃない個別解」=「そのための特注品の戦略」を共有していくことが必要です。

その「戦略」については、長くなってきたので次回に。一気読みをしたい方は、私のブログで読んでください。

今後も、こういうブログ記事は続いていく予定ですが、最近は私も忙しくなってしまって、そうしょっちゅうはアップできないので、更新情報は、ツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

倉本圭造

経済思想家・経営コンサルタント

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