あえて京大受けてみると人生変わるかも?という話

「偏差値的序列だけじゃない自分の将来のイメージを考える大学の選び方」について話します。

今回のブログ、タイトルは非常に特殊な話をするようですが、「東大と京大はこんなに違う」というような具体的な話をネタにしながら、一般的には、

・「偏差値的序列だけじゃない自分の将来のイメージを考える大学の選び方」

や、

・過去10年の「活躍できる性質」と今後10年の「活躍できる性質」は変化が見られるはずだ

というような話をします。

さて、受験シーズン・・・らしいですね。昨日一昨日はセンター試験だったらしい。

私は法人相手の経営コンサルティングの仕事以外に、「個人」相手に文通しながら人生全体の戦略を練ろうという仕事もしてるんですが、普段は自分のキャリアや人生をどうするか?という話をしているクライアントでも、毎年この時期限定でやっぱり子育ての話になることは避けられなかったりします。

ちょっとだけ余談ですが、「自分の子供に勉強する習慣をつけさせたい」という悩みは結構現代の親において普遍的にある感じですが、それは大抵

「ちゃんと興味を持って見てあげる」だけで8割は解決

するんじゃないかと・・・最近の「文通」の経験から言って思います。

勉強しろよ!って言って「監視」しながら自分はスマホ見てるみたいなんじゃなくて、学校でのアレコレとか最近考えてることとか、親が踏み込みすぎない範囲で興味持ちつつ、そういう「個人への興味」の延長として「その子の勉強」も"一部に含まれている"ような時間を意識して持てれば、「ねえねえ今日も一緒に勉強したい」とか「勉強してるのとなりで見てて」って子供の方から言ってきたりとかって「こんなに激変するもんかね?」ってぐらいになることが多いように・・・最近いろんなケースを見ていて思います。

しかしそういうやりとりができるのも中学生ぐらいまでで、受験生ぐらいの年代にもなると親ができることはだんだん減って来ますね。むしろ勉強を動機づける指導者という役割から、「人生全体のナビゲーション」的な役割を求められるようになってきますよね。

なかでもセンター試験とかいうイベントがあればそこには色々とドラマがあって、結果次第で色々と大げさに言うと「人生のルートが決まる」的な部分が(そのことについての教育の理想主義的観点からの是非はおいておいて)あったりもする時期かもしれません。

受験生本人がこのブログを普段から読んでるなんてことは超マセガキだなという感じですが、親の立場だったり親戚の立場だったり、あるいは学校教育や受験産業的に関わっている人だったり・・・すると、「ご本人」にこの記事は読ませたら面白いかも?となるような記事にしたいと思っています。

とはいえ、この記事は「偏差値主義なんて下らないぜ!という教育の純粋な理想主義」からするとちょっと下世話すぎる話になるかもしれません。偏差値や学校の序列とか下らないぜ、個人の人生だぜ、っていうのは超その通りだと私も思うんですが、とりあえず現状の社会を前提とした時に、「実際にある傾向」を一切無視して親側の理想主義だけを押し付けるのはその子にとって幸福かどうか微妙・・・ということもあろうかと思います。

子供にとって無駄なプレッシャーにならないような、あるべき態度は、「現実と理想主義のバランス」を取ってあげることで・・・それはつまり、

「偏見を持つヤツは世間にいるし、実際にそれでトクしたりソンしたりすることも現実にあるから、頑張れるなら頑張ったほうがいい。でも本当は、自分自身の人生に納得できるかどうかが一番大事だから、思い詰めすぎて人生棒に振るぐらいなら逃げてもいいんだよ」

ぐらいのメッセージ(というか態度)が、一番子供にとって無駄なプレッシャーがなく、かつ「その子の可能性」を「まあ出来る限りやってみよう」的に広げてあげられる「配分」ではないかと私は思います。

勿論、もっと理想主義に振って「学歴なんかじゃないぞ、その方向で振り切って生きればいいんだ」っていうメッセージも、あるいは「とにかく勉強が大事なんだ!」というメッセージも、親の中で迷いがなく一貫していて、ちゃんとそれに対するケアが一貫してなされるのならそれこそ人間社会の多様性のあり方だと思いますが、どっちにも一貫して迷いなく振り切れる関わり方が自分にはできる自信がない・・・というのなら、上記のようなバランス感覚を持たせてあげることが一番「良い結果」にも繋がるんじゃないかと思います。

同時に、今は日本の大学だけじゃなくていろんな海外大学へ高校卒業時点で留学する選択肢も出てきているわけですが、それも「その家庭」が自然にそういう可能性を選択肢に入れられる雰囲気なら検討すればいいし、その場合はとても良い選択肢だと私も思うけれども、全然そういう雰囲気ではないけど「グローバル時代だしそうしなくちゃ生き残れないんじゃないか」的な危機感だけで子供を焚き付けるのは結構シンドいんじゃないかという気もしています(なのでそういう選択肢を否定するわけではないんですが、今回の記事ではあえて扱いません)。

で、今回のメインテーマは、狭く狭くピンポイントで言うならば、「センター試験の結果的に京大が選択肢に入った時にどう考えるか」という超ニッチな話になるんですけどね。

物凄く下世話に言うと、東大受けようと思ってたんだけど、ちょっとシンドいかなあ・・・とか一橋や東工大なら全然合格できそうなんだけど、ちょっと冒険してみようかなあ?とかね。

とか言うと対象が特殊すぎる感じがしますが、その「具体例」を考えながら、「偏差値的な序列じゃない4年間のありようの変化」ってものについて考えてみたいという意味ではどんな受験生にも意味があるものになるんじゃないかと思っています。

と、言うのも、高校生にとってみたら、上記のような例で「京大にするかどうか」っていう選択肢は、単に「ランクを一個アゲるかサゲるか」みたいな程度の話に見えるんだけど、実際に

「四年間過ごす時間の内容やその後に出来上がっている自分」はかなり違うものになる可能性がある

からです。

まず、大学の四年間を東京で過ごすのか、京都で過ごすのか?によって、その人の思春期のかなり大事な部分の根幹的な影響はあるように思います。

で、日本の大学はもっとそういう「差」を出していくべきだと私は思っているんですよね。アメリカの大学はニューヨークみたいな大都会にある大学から、ど田舎に大学しかないようなところまで環境も学風も千差万別で、単に「あそこが一番目に良い大学、ここが二番目に良い大学・・・」ってだけじゃない「らしさ」をそれぞれがかなり主張することが国全体としての活力に繋がっているところがあるように思います。

というのは、こういう「学風」なんて関係ないぜ結局個人だぜ・・・というのは真実なようでちょっと暴論で、というのは人間は特に思春期の環境において「どちらの方向に明確に方向づけられるか」によってかなり違った人間になっていくからです。

で、そういう「学風」的な「環境の差異」が色々とあると、その国全体で見た時の人材の本当の意味での「多様性」が増してくるんですよね。ゲームっぽくいうと「このパラメーターに全力でリソースを振ってる人材」と「あのパラメーターに全力でリソースを振ってる人材」ってのがあっちこっちに出てきた全体として活力が生まれる。ドラクエで言うと戦士と魔法使いや僧侶がそれぞれいるパーティの方がよくて、全員戦士とか全員魔法使いとかいうパーティじゃ弱いよねという話です。

ちょっと余談ですが、「ダイバシティ(多様性)」というと「国の中のダイバシティなんて存在しないよ、全部一緒だよ。海外に出なくちゃ」っていう風な考えになってしまいがちな時代なんですが、理想はともかくそういうことを言っている人が結果としてどういう影響を日本社会に与えるかというと、「東大より上の序列」を追加する新しい偏差値主義にしかなってないことも多くて、結果として「今そこにあった多様性」を「全てをアメリカ風に平均化」してしまうことで、逆に現地現物的なレベルでの多様性は強烈に抑圧されることになっていることが多いです。

(この「ダイバシティの旗印が現地現物の多様性をむしろ強烈に平均化してしまう問題」は、あらゆるポリティカリー・コレクトネス運動が陥りがちな問題で、理想主義を本当に実現するには考えなくちゃいけない現代社会の根幹的な問題だと思っています)

と、言うわけで、これは京大に限らないわけですが、「どこ受けようかなぁ??」ってなった時に、「その4年間で自分がどう変わっていくか」について考えてみるといいよ!という話だと受け取ってください。

今はウィキペディアとかあるんで、その大学の卒業生一覧とか簡単に見れるわけですけど、何十年に渡ってのその大学の「ありようの結果」がその人名一覧と言ってよくて、案外「あ、基本こういうタイプの人たちで、でも影キャラとしてこういうのもいるんだな」みたいなことが結構イメージできるんじゃないかと思います。

あなたが受験生の親だったり親戚だったり、学校教育家だったり受験産業に従事していたりして受験生(・・・や"そのうち受験生になる"時期の生徒)の相談にのる機会がある人であるなら、この記事を読ませた上で、本人と「社会の中にあるいろんなキャラクターのバラエティ」についてアレコレ話してあげると、単一の序列世界観の中で身動き取れなくなってる受験生にとって一服の清涼剤になるかもしれません。

では、じゃあ私は京都大学に行ってたんで、それが東大に行くのとどれくらいどのように違うのか?という話をします。繰り返すようにちょっと特殊な例ですが、「具体例から他の例も考えてみるネタ」として応用していただければと思います。

結局、大学は大学なんで、カリキュラムもそこまで差はないし、本当に個人が強く個人でいる気概を持ってるならどこでも一緒だというのは確かにいえます。

が、「その大学コミュニティやその大学の学生同士」で「どういう存在が"良い"と思っているか」という評価基準が案外大学によって大きく違っているので、それが4年プラスアルファの時間をその中で過ごすことによってかなり「違う人間」に形作って行くんですよね。

私が所属していたゼミは毎年東大のゼミとディベート対決するイベントがあったんですが、まだ3年とかしかその場に参加してないのに、集合的に見ると「こんなにキャラが違うのか?」というぐらい両チームの雰囲気が違っていて、それは笑っちゃうぐらいのものでした。

多分日本人なら、そのディベート大会を傍聴したらブラインドテスト的に「どっちのチームが京大チームでどっちが東大チームでしょう?」って聞いたらかなりの正答率になるんじゃないかというぐらい違っていた。

端的に言うと東大生のディベートの準備は「ちゃんと満遍なく全ての一般的な論点が網羅」されていて、弁舌が非常に「あ、国会中継に出てくる官僚の話し方だ!」みたいな感じで(笑)

「その点につきましてはぁ〜●●の観点から☓☓と判断でき、実際こういうデータが云々」

という"答弁スタイル"が、議長に発言を求める時の手の上げ方から発言の構成、そして発言後に着席する仕草まで全部トータルに「国会中継に出てくる官僚の人だ!」って感じでした。(ちなみに私がやった時の議題は今まさにホットな"金融の量的緩和政策は是か非か"でした)

とはいえ21世紀になってすぐぐらいの随分前の話なので、今では徐々に大学間のキャラ差は平均化されてきていると思いますし、"東京の今"の影響を受けやすい東大生のキャラクターもまた現在は変わっているかもしれませんが、要はこの「ちゃんと全論点を網羅して80点(場合によっちゃ全部満点)取ってくる・取らなくちゃいけない」態度・・・というのは、東大生になったら東大生同士の競争環境故にどんどんそっちに振られていく特質といっていいと思います。

(細かいことを言うといわゆる"進学振り分け制度"の影響もあるのかもしれない。京大じゃ大学の成績の平均点を揃えることが良いこととか言う発想自体が全然ないことがまだ多いと思いますし)

それに対して京大生チームの準備はなかなかそうならない。「まあこの論点はこの方向で答えるんがええんやろうけどあんまオモロないな。テキトウに準備しとこうぜ。あんま時間使いたくないし」みたいなところと、「コレ!ココがんがん押してったらオモロいんちゃうかな。なんかソレっぽくなるやん?」みたいなところの落差が激しく(ちゃんと満遍なく全部準備できる"勉強力のリソース"が東大生ほど無いってのもあるかもですが)、うまく噛み合えば勝つし、ハズしたら箸にも棒にもかからないという感じで。

要するに「何が評価されるかの空気」が全然違うので、4年間プラスアルファを過ごすとその人の脳内に強烈に焼き込まれる「志向性」があるんですよね。

これは京大にかぎらずなんですが、慶応でも早稲田でも一橋でも東工大でも・・・それぞれ「こういうのが評価される基準」ってのはかなり違うので、「4年いると、単に序列が隣の大学ってだけじゃないキャラクター」が焼き込まれるんだ・・・という話だと思っていただければと思います。

実際、この前風呂上がりに涼みながらテレビつけたらたまたまNHKで「日本のジレンマ」という討論番組の、『京大編』という特番をやっていて、基本的に大学を京大で過ごして京大の教員になってる人ばっかり出てきたんですが、普段の「日本のジレンマ」とはエライ違う雰囲気で面白かったです。

基本的に「日本のジレンマ」は各界で「新進気鋭の」という枕詞で紹介されるような人が普段は出てることが多いので、話し始めるとそれぞれが「今の時代にホットな話題」の代表者として、「今世界はこういうのがホットなので、私はこの問題についてこうすればいいと思います」みたいなことを言い合うという、ある意味で非常に「意識が高い」「感度の鋭い」議論(ある意味で現地現物のリアリティからは遊離してると批判する人もいるかもしれない)になることが多い印象なんですが。

「京大編」に出てきた人たちは、なんかちょっともっと世慣れない感じというか、話し始めた瞬間は

「おいおいいったいこの人は何の話を始めたんだ?」って感じ

なんですよ。よく言えば「問いの建て方がベースからオリジナル」なので、日常的な話題と議論的な話題がいったりきたりして、「こういうことってあると思うんですけど」ぐらいの感じから始まる。

「東京の論客」編の時みたいに、「ああ、世界で今話題になってる●●的な観点を日本に応用して話し始めてるのね」みたいなカテゴライズをハナから拒否してるというか、だから「わかりづらい」んだけど、じっくり聞いてると「ああなるほど、そういうことってあるなあ」みたいな新しい視点も得られたりする(ときもある)。

とはいえ一応ちゃんとガクシャさんとして奉職してる人たちだから完全に独善的な自分の意見を述べてるんじゃなくて、いろんな先行研究への言及とかも当然あるわけなんですが、それも「今の流行としてよく出て来るパッケージ」の人選じゃなくて、その人が大学時代一般教養科目でたまたま取った授業で出会った●●っていう学者の意見とか、古本屋でたまたま見つけて古い本からメチャハマった学者なんですが・・・・からの引用だったりして、他の人にとっては「???誰それ???っていうか一応名前は知ってるけど???」って感じだったりする。

で、そうなっても怯まずにわざわざ黒板使って即席の講義をちょこっとやった上で、「こういうことを言った人で、それが現代のこの問題に応用できるはずだと僕は思っていて」みたいなことをめっちゃマイペースにやってて、それがスゴイ面白いなあ!!!と思ったんですよね。少なくとも、番組の司会の人も言ってたけど、「東京でやるのとはエライ違う雰囲気の会になりましたね」って感じだった。

正直言ってそこに出てた人たちが「現代の学者コミュニティ」の中でどれくらいの評価を受けてる人なのかわかりませんし、単なる変人として扱われてるのかもしれないし、オリジナルで非常に良い業績をあげてると思われてるのかもしれない。

ただ多少検索とかしたところでは、「東京の論客」界隈だと「象牙の塔の学者とテレビに出てくる学者さん」があまりに分断されてお互いディスりあってることが多い印象なのに対して、彼らは結構「まあまあの専門的業績をあげつつ、それを日常的な言葉で語ることを諦めてないタイプ」という感じなんじゃないかという印象でした(私の個人的期待も入ってるかもですが)。

それは、なんかその人の専門性が、「専門」という形でちゃんと社会に認証された四角い箱の中の現象になってなくて、「その人のパーソナルな全人的精神生活」と「専門の内容」が不可分に「醸し出されるように」成立してなきゃいけないという「実に京都学派的態度」の結果であるようにも思えました。

正月にアップした私の前回のブログ↓

で書いた「実存主義的態度」が京都に生きていると世界の他のどの国よりも「関西人的down to earth」なレベルでデフォルトモードになってるってことかもしれません。(上記ブログで引用した原田まりるさんの本も京都が舞台でしたしね)

で!!!

ここで言いたいことは、「こういう性質」こそが学問の本道だろ???と言うことではないんですよ。あらゆる人がこういうやり方を始めたらそこら中に夜郎自大が増殖してどうしようもなくなると思いますし、ある程度そういう態度に対して厳しい目が向けられる現代の風潮にも意味があると思う。

ただ、「そういう種類の学問のやり方もあるんだね」という「一例」として「多様性」の中に存在している意味は絶対的にある。

私はガクシャ人生を歩んでないしアカデミックなシステムの中で生きることは絶対できないタイプだと自分で思って生きてきてるんですが、それでも彼らと共有している「マイペースにしか生きられない」中で培っていく自分の作品・自分の仕事で勝負したいという気持ちは凄くあって、でもそういうのって今の時代的にあまり歓迎されない環境であることも事実なので、こういう意味での「京大らしさ」については

「まあ、自分はそういうふうにしか生きられへんからそうやって生きてるけど、あんま他人に薦められるもんでもないでぇ」

ぐらいの気分がどうしても抜けなかったんですが、彼らの「勇姿」というか、ちょっと世慣れない言論の建て方でも全然空気を読まずに堂々とテレビの前でやっちゃう超然とした感じ・・・を見ててかなり「勇気づけられた」感じがあったのは事実です。

そして、文系の学問だけでなく、理系でもノーベル賞受賞者が「すぐ役に立つ研究ばかり求められる環境になって研究力が落ちている」と声を上げたりする現在、その方向でシステムをいじることも今後なんとかするべきですが、さらには「ああ、こういう超然とした学問のやり方をする人がいていいんだ」というロールモデルを感じさせてくれる存在が、チラホラでもいいから社会の中にいることの「勇気づける力」というのは侮れない重要性を持っているはずですよね。

で、「こういう要素」は別にたまたま京大に行った人にだけある性質ではなくて、ある程度学問的な真面目さを持とうとしている人にとっては憧れる性質の一つだとは思うんですよね。

ただ、例えば東大生になると、同級生と何か話すんでも、「今の時代の流行の言論」に対して、華麗なる空中戦を常にやってる必要が生まれるというか、「●●の説によるとこうだね。☓☓の説によるとこうだよね」っていうのがポンポン出てくるのが当然の環境の中で、「え?それってどういう人?俺まだ読んでないんだけど」となかなか言えない環境にあったりする。

基本的に東京の大学では京都に比べるとそういうところがシビアなので、出て来る「権威」の種類が大学のキャラクターで違う・・・東大なら例えばロールズの『正義論』が出て来るところ、慶応なら『ワーク・シフト』的な著作だったりするかも・・・けれども、「あの流行りのアレ読んでないの?」的ピア・プレッシャーは一様に強いことが多いように思います。

でも京大では・・・そこで「え?それどういう人?俺読んでないわ」って言うのが全然恥じゃない雰囲気があることが多いというか、そこで読んでる方も別に見下さずにちゃんとレクチャーして、「ははあ、なるほどなあ。そういうことってあるかもしれんな。でもちょっと無理やりっぽい感じせえへん?俺こういうとこコダワリたいんやけどなあ・・・その場合はどうなるんかなあ?」ぐらいのボヤーっとした議論になっても全然OKみたいなところがある。

勿論ちゃんと「学問的業績」にまとめていく時にはそれじゃ済まないことも沢山出てくるんでしょうけど、「日常生活のモード」によって「どういう方向性になるのか」は大きく違ってくる感じが想像していただけるでしょうか。

で、そういう「京大らしさ」を発揮してる卒業生がある程度の数社会の中で活躍していると、別に京大行ってない人も、それぞれの環境なりに「そういう要素をちゃんと出してってもいいんだ」というふうに「勇気づけ」が行われることで、さらに「社会の本当のダイバシティ」は増進するんですよね。「OKさの範囲が広がる」というか。

実際、私は東京に出てきてからいろんな東大生に凄く良くしてもらったなあ・・・と思ってます。なんか京都から面白いヤツが来たぞ・・・ってなって、「これを理解して位置づけてやれるのも東大生の俺たちのツトメ」みたいな使命感持ってくれてるなあって感じでいろんな人に引き合わせてくれたり、議論の弱い部分を優しくサポートしてくれたりヒントをくれたり。そういうことをすることが「彼らにとっても価値を感じられる」関係が結構あったというか。

だから人はそれぞれの「個性」が本当に発揮されればされるほど、「補完関係」は勝手に出来上がっていくようになってるんだと思うんですよね。

また、こういう「ピア・プレッシャー」の方向性は、在学中だけでなくてその後でも言えて・・・というのは、京大生が100人いたら、5人から10人ぐらいは定職不明みたいになってヘラヘラ生きてるヤツがいて当然だろう・・・みたいな共通了解があったりするんですよね。

100人のうち50人〜80人ぐらいは結果的に「東大生とあんまり変わらない」キャリアを生きてたりする。官僚もいればニューヨークで活躍する国際弁護士もいれば大企業勤めもベンチャー起業家も外資系コンサルタントや金融会社にいったヤツもそれなりにいる。

・・・んだけど、なんかそれとは別になんかヒッピー(しかも今の時代によくあるスティーブ・ジョブズ型に経済的成功も追い求めるタイプじゃあないような・・・)というか世捨て人そのものみたいになって、大げさに言うと「新しいオルタナティブな生き方」を模索してるような人がいても当然で、

「国家官僚になったりベンチャー起業家になるのも、行方不明寸前のヒッピーになるのも"同じレベル"の並列な人生の選択肢の一つ」

みたいなところはかなりある。そこまで行くと言い過ぎかもしれないし、本音ではそこまで思いきれない人も多いかもしれないが、「公式的に京大生ならそういう価値観であるべき」みたいな意地?のようなものはあると思う。

(このあたりのことは「日本においてインテリであることは、他の国でインテリであるよりもっと大変なことなんだ」という方向で苦々しく思っておられる方も多いと思うんですが、そういうあなたには今回のブログの「こぼれ話」として追加に熱いメッセージを用意したので一度お読みいただければと思います↓。

で、一方東京の大学では・・・特に東大生は、「正しいルート」「ランキング上位のルート」と「そうでないルート」に関する自他共のコダワリはちょっと可哀想なほど一生ついてまわることが多いようです。特に「東大生なんだけどその後"あるべきランキング"から外れた人」の精神には、普段そう見せずにいる人でもふとした瞬間にたまに「ぎょっ」とするような鬱屈が顔を出したりすることがあります。

逆にそういう「ランキングに対する強迫観念とそこから外れた時の鬱屈」がないというのは、結果としてそういう「自由さ」を持て余してあんまり「世間的成功」ができなくなる可能性もなくはないんですが、その場合でも「まあまあ楽しく生きられる」のが、これは京大に限らずかもしれませんが、京都にある大学で4年間を過ごすと自然に身についてしまう「人生のモード」であるように思います。

さて、ちょっと「京大という特殊な例」について書いてみましたが、それぐらい「4年間をどこで過ごすか」っていうのは「単にランクを一個アゲたりサゲたりする」だけじゃない意味あるんだってことを、受験生とコミュニケーションしてみると、「このラインを諦めるかどうか」ではなく「主体的にどう選ぶか」という視点に変えることができていいんじゃないかと思います。

で、今の時代、ここで書いたような「京大風味」って、ここ10年ぐらいはあんまりうまく「成功しやすい」タイプではなかったところはあると思うんですよね。やっぱ東京の大学に行って、大学2年の時からいろんな企業でバイトしたりインターンしたりして・・・っていうタイプが「学生の勝ちパターン」扱いだった感じだし。

そういう視点で見ると京都にいるってことはハンデになるんですよ。勿論ね。

ただ、最近例えばDeNAがWELQというキュレーションサイトの不祥事で色々と問題になっていたようなことがあって、「単に目の前の課題を高速で最適化していくのに全力を尽くす」ような能力

・・・"だけ"で社会が埋め尽くされることの問題点

が今後クローズアップされてくるはずだと思います。

ここで私が言いたいのは、「京大生のあり方が人間の本道だ」とかいうことじゃないんですよ。「社会全体で見た時に、こういう要素もちゃんと還流するようにならないと、東大生らしさも慶応生らしさも"深い成果"には繋がらないぜ」というようなことなんですよね。

冒頭で書いた戦士と魔法使いと僧侶がいるパーティじゃないと・・・っていう話を思い出してください。

DeNAていう企業のあり方については、「凄くシンパシー」な人と「大嫌い」な人にかなり分断される時代だと思うんですが、しかし単に「嫌う」だけじゃあ社会は決して前に進まないんですよ。「DeNA的な要素も社会の中には必要な部品」だからです。

例えば、DeNAの野球チームは凄くうまく行ってると思います。「野球チームという日本社会の中で物凄く土着的継続性が強い土台」がある上に、DeNAという企業カラーが良いように噛み合ってガシガシと問題解決しまくることで、「古い考えの日本の会社のナアナアさ」を排除してフレッシュな風を入れつつ、WELQ問題のような間違った方向にも暴走していない。

橋下維新と「都構想」も、小池都知事とオリンピックや築地問題も、「橋下維新や小池都知事がキライ」な人は徹底的にキライでしょうけど、嫌ってるだけじゃ社会は決してそれを乗りこなすことはできない。それを乗りこなせないと、日本全体がこの世界の中でちゃんと適宜正しい位置取りをし続けることもできないから、「現場は強いがトップは無能」なバンザイ突撃を旧大戦中と同じように繰り返し続けることになる。

DeNAも橋下維新にも小池都知事の改革にも、私も参加していた「マッキンゼー」という会社の先輩がたが関わってるんですが・・・・そして、必ずしも確かに彼らの「現状」が100%うまく行ってるとは言い難い現状ではありますが、しかしああいうあり方についてあなたがキライだからといって「単に否定」するだけじゃあ駄目な時代なんですよね。

実際問題として、彼らの問題点を強く指摘して、彼らを完全に否定しようとしても、どうしてもより強く彼らの影響力は増していく世の流れは止められない。なぜなら、彼らの「良くない部分」は当然あるんだけど、「彼らが背負っている事情」は世界的な情勢に対する対応をなんとかしなくちゃいけないという切実な事情そのものでもあるからです。

だからこそ、横浜の野球チームで「たまたま今はうまく噛み合ってる」ように、「外資系だったりグローバリズムで標準的な経営判断のやり方だったり」と「日本の土着性の良い部分」が、「罵り合うのではなく良さを発揮しあえるようになるかどうか」が一番大事で。そしてそれは「欧米VSイスラム国」「トランプVS反トランプ」的な世界最先端の課題に何らかのオリジナルな解決法をゼロベースに模索するチャレンジとなるでしょう。

今のところ、うまく行ってる事例は多くないですが、「古い日本」だけじゃ駄目だよな・・・という雰囲気が浸透してくることで、「国粋主義かハゲタカ外資か」の二項対立を果てしなく煽りまくるのではなく、「適切な資本の論理の延長に、日本の良さを連結する技法」自体に習熟するしかない・・・という方向性は徐々に「まともなビジネスマンの共通了解」になりつつあると思います。

私は常々その「いかにも水と油な性質の違う両者の連携」を幕末の「薩長同盟」にたとえているんですが、全世界がトランプVS反トランプ的な二項対立的分断に落ち込む中で、「超高速で今まで止めてきたボタン、最初のとこかけちがってたんじゃね?今更どうしよう・・・」的な混乱にニッチもサッチもいかなくなっていく現状において、「今まで20年間どちらにも進めず世界の人から笑いものにされてきた日本人」のある性質が、「最初のボタンちゃんと正しくかけないと、後からどうしようもなくなるじゃん!」的な知恵だったのだということが示してやれると私は考えています。

そういう時代に、「足りないピース」として「京大っぽさ」をもうちょっとフィーチャーしていく必要性があるはず!!!!と私は我田引水っぽいけど思ってるんですよね。

だから、まあ行こうと思えば東大行けるけどなあ・・・というワカモノも含めて、「ちょっとあえて京大選んでみるか!」っていう「あえて京大組」が増えてくれたら面白いなぁと思っています。で、ぶっちゃけて言うなら行ってみてやっぱあんまり向いてないなこういうのって思ったら「8割の東大生と変わらないキャリア」をその後選ぶことだって意識すれば実は可能なのが京大のオイシイところでもありますしね。

もし読者のあなたの周辺に、今まさに受験生だったり将来的に受験生になる人がいたりしたら、この記事を読んでもらった上で「その人にあった人生とは?」を一緒に考える機会にしていただければと思います。

今の時代によくいわれる「ダイバシティ」とは違う意味の、「個人的にはコレこそが本当のダイバシティってやつだと思うんだけど」的な可能性の扉がそういう対話から開かれるはずです。

単に京大らしさという話からちょっとかなり膨らませて来ましたが・・・こういう「新しいトータルな経済像」というビジョンに興味がある方は、私の最初の著作「21世紀の薩長同盟を結べ」あるいは二作目の「日本がアメリカに勝つ方法」、上記二作はもう読んだ・・・という方は三作目「アメリカの時代の終焉に生まれ変わる日本」を読んでいただければと思います。

この本では、京大の農学部演習林である芦生の森の原生林の話をしています。

今の時代、自然界の生存競争と、市場経済の生存競争を同等なものとして捉える論法は凄く普及していますが、実際に「原生林の生存競争」が体感できるような人の手が入ってない「本当の自然」に行ってみると、むしろ「あふれるような多様性」で、ゴム長靴で踏んだ地面がズボッって膝まで入っちゃうような土壌があったりする。

やればやるほどギスギスしてスカスカになってくる経済レベルにおける「生存競争」さんと、やればやるほど豊かな土壌になる原生林の生存競争の違いは何なのかを考えると・・・・ちょっと単純化して言えば、この記事で書いてきたような「京大生のありよう」みたいなものが社会の中にちゃんと還流するかどうかであると、私は真剣に考えています。

以下の絵のように、今の時代、「石の下の湿ったところで地味に分解活動をやるのが向いてる微生物タイプの人」も、「日陰でゆっくり育って最終的に森全体の湿度を保つドームになる陰樹タイプ」の人も、ある種DeNAやリクルート社にいるような陽樹」タイプの人と同じパターンで無理やり頑張らせてるみたいになってるので、時代を画するような骨太の新しい方針も生まれないし、日本社会の本来の良さであった地道で安定感のある生活のあり方もどんどん破綻してってるんですよ。

(クリックで拡大します)

これが本来こうなる↓

ような「全体のパターン」を再生していかないと、我々は本来かけがえのない味方であるはずの他人と罵り合うための面白いツイートをいかに数多く投稿できるかレースみたいなことばかりに真剣になっているうちに螺旋状に徐々に衰退していくしかなくなります。

日陰で微生物のようにジットリ生きることが向いている人や、じっくり長い時間ジトジトと考えた上で大きな方向性を見出していくようなタイプの人間に、非常に限定された種類のキラキラ系にアメリカンな「デキるビジネスマンテイスト」を押し付けて、「なんでできないの?」って煽るのは、人間がそれぞれ持っている本来的な多様性に対する「侮辱」ですよね。

「それぞれの価値」が「全体的に噛み合う仕組み」をこそ我々は実現しなくちゃいけない。「俺はこうやって成功したのになんで俺みたいにできないの?」だけで世界を一色に染め上げるような志向性が「ダイバシティ」の旗印を掲げていたりする茶番はそろそろ終わりにしなくてはいけません。

「アメリカンな文脈でのダイバシティ」や「ポリティカリー・コレクト運動」の「目的」を批判しているわけではないんですよ。ここで書いたように、どんな小さな「古い仕組み」の中にも、「生きているそれぞれの人のどこまでも個別的な差異を吸い上げるための歴史的知恵」が幾層にも用意されてるんだってことなんですよね。

だから今は、「ポリティカリー・コレクト運動」の「副作用」で、「非常にアメリカンな文脈に親和的なコミュニケーション強者以外は活躍できないような空気作り」みたいなことをしてしまってるんですよ。

それによって「民衆が生きる上での本当の多様性」をガシガシに抑圧してしまっている。だから反発も生まれて途中で頓挫してしまったりもする。

逆に言えば、その「副作用」をちゃんと理解して、「現地現物のリアリティレベルでの多様性」がちゃんと吸い上げられるような仕組みづくりも配慮しながらやるなら、「ポリティカリー・コレクト運動の目的」自体に本当に反対したい人なんてほとんどいないはずです。

必要なのは、ゲイかストレートかとか、民族的バックグラウンドの違いとか、そういう「ラベル」だけが「多様性」じゃなくて、見かけ上「マジョリティ」に属するあらゆる「個人」も、本当は他の誰とも違う「多様性」を持っていて、それをどこまでもきめ細やかに吸い上げる仕組みを作っていかないといけないんだという視点からスタートすることです。

「アメリカ的文脈」のレベルでのダイバシティは強調するが、その「網の目」よりも細かいレベルでの差異はメチャクチャ抑圧してしまう・・・ような現状を超えて、「現地現物レベルのダイバシティ」を吸い上げられるようになれば、「アメリカレベルのダイバシティ」をわざわざ否定しにかかるような人たちはいなくなるでしょう。

そこからはじめなくては、どこまでも二項対立的罵り合いがエスカレートする現代の人類社会は戦争へまっしぐらです。平和のための薩長同盟を、はじめましょう。日々両者のハザマの中で悩みつつ生きているアナタこそが、現代の坂本龍馬なんですよ!!!

それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

今回も、「ブログに書ききれなかった話」が「こぼれ話」として追加されています。さっきも書いたけど今回は非常に力作ですので、「日本に生きづらさを感じているインテリのあなた」にはぜひ読んでいただきたく思っています!

倉本圭造

経済思想家・経営コンサルタント

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