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「激安払い下げ」以前の大切な問題について〜公教育とは何か?

2017年03月10日 17時47分 JST

各社着陸点をどこに据えているかは、なかなか一筋縄では予想できないが、とりあえず仮死状態に近かった日本の木鐸(世人に警告を発し教え導く人たち)たる大メディアが、森友学園設置認可問題では気を吐いている。

国有地を不合理かつ非常識な段取りで私的に占有することは大変な問題である。事件のプロセスの透明化を目指す民主政治の統制を妨害するような財務官僚の虚偽答弁は、言語道断である。ギアの入ったメディア関係者も、議論を忘れた立法府のメンバーも、そこをえぐることに尽力せねばならないのは当然である。

ところが、昨今の報道を眺めていると「この件がどうしてそんなに問題なのか?」という原点がだんだんと曖昧になりつつある。なぜならば、この件を「少々エキセントリックな法人理事長が虚偽と不正を図って、国有地を私物化するために善意の政治家や官僚を利用した」という話にして幕を引こうとする、官邸の意向を忖度した一部のメディアの政治的意図が見え隠れして来たからだ。

多くの読者・有権者がその筋に今引っ張られようとしている。法人理事長の合理の体をなしていないコメントや一風変わったたたずまいへの人格的攻撃は、その流れを一層加速させる。支離滅裂なる総理大臣の国会での答弁も、問題の筋を曇らせる。

今回の事件の問題の根本は、国有地の不正取得の有無ではない。この問題は「とある学校法人が真偽も定かではない廃棄物の存在を理由に常識はずれな安い価格で国有地を払い下げてもらったこと」に収斂しない。つまり、この話は「濡れ手に粟を得た奴がいる」という銭金の話ではないのだ。

この問題の中心は「はたして公教育(public education)とは何か?」という点にある。

我々の社会は、この「公(おおやけ)」という言葉の意味を極めて一面的にとらえてしまう心の習慣を持っている。それは「公=国家」あるいは「公共的=行政的」という理解である。

「公共的なるもの」とは断じて「国家的なるもの」に回収されるものではない。文科省官僚が言葉にする「公」教育とは、一寸の疑いもなく「国家が管理・関与する教育行政」の意味である。

だが、もともと公共的とは「開かれたもの(open)」かつ「共通の(common)」という意味であり、市民革命以来の政治思想の流れでは、国家ではなく、むしろ国家に対抗する自律的「社会」の側が持つ固有の原理である。

例えば「公共の場におけるマナー」というのは、「国家が規定する人間の立ち振る舞いのガイドライン」ではなく、「社会に所属する、お互いに面識のない対等な私的人間(共通!)が出会う場(公開!)だから、自部屋(プライベート!)で過ごすような振る舞いをしてはならないとする取り決め」という意味だ。

その意味で、「各々自由な価値観に依拠しているが、人間として対等に重んじられ、同時に協力し合いながらこの社会を支える共通の心の持ちよう」というのが公共の精神なのである。これは自分たちの社会の共同事務所(政府!)、そして粒立ち良く緩やかに連帯する政治的共同体としての国家を、内側から強力に支える。

自由な個々の人間が、"社会"の共同性を守るために持つ原理が公共性である。

森友学園の塚本幼稚園でなされている幼児教育は「私学」教育である。

自治体の保育施設が行なっている教育と比較して、21世紀の現実に照らして、その内容が復古主義的であったり、封建主義的な色彩が濃いものであったりしても、「自由な個々の私的集団」が持つ価値観だから、「それを持つな!」とは言えない。

信条の自由だからだ。

しかし、どれほど独自の教育方針を持つことが自由だとしても、「我々が協力しながら支える社会の根本価値である個人の自由と尊厳、それを相互に認め合うという根源的平等」を尊重せず、これら根本価値と裏表の関係にある「民族差別や排外主義を容認しない」という信念に反するような私学教育ならば、それは「公教育」の名に値しない。

なぜならば、我々の社会の根本的価値は「個々の人間の尊厳とその相互承認」に支えられているからだ。王様の支配から決別した世界の全ての社会の根本的価値である。

その意味で、森友学園の幼稚園で行われていることは公共性に反するのである。

だとすれば、そうした反公共的な学校法人に特別な便宜をはかり、他の学校法人では到底得られないような社会的利益を手に入れることに協力することは、我々の社会の公共性をないがしろにすることになる。

安倍首相をはじめとする現行政府の要人たち、与党政治家が我々の社会の共通センスを無視した学校法人の学校設立認可に手を差し伸べたとするならば、それは「不当に安い価格で払い下げたから」という銭金と利権の問題というよりも、「そのような基本的社会的価値すら足蹴にする団体へ公職者が政治的に思想的にコミットしていることの異常さ」にこそ糾弾のポイントがなければいけない。

不当に安く払い下げる便宜をはかったことよりも、社会が相容れない価値観に「公」職者たちが協力したことが重大な問題なのである。

首相も首相夫人も「公人」である。

それは法律上「国家公務員」の身分にあるかないか「だけ」でなく、夫人秘書が非番の公務員であったかどうだったか「だけ」でもない。民主国家における公人とは、「我々の社会が共有している根本的価値を固守し、それを前提に社会全体の奉仕者たらんとする人」だからだ。

その意味で、かような反公共的な学園の便宜をはかり、手を差し伸べ、それを私的政治的利益に利用しようとするような反公共的な活動に勤しんでいたとすれば、総理大臣も、それを全く批判しようともしない与党議員も、ともに「反公共的」政治家である。

公共性に反するような政治家は退場していただくしかない。

問題の筋を取り違えてはならない。