公約とは共闘のための道具である 〜野党共闘のイロハ〜

そろそろ「綱領」と「公約」を区別すべき。

<定番の言葉「政策が違う」>

民進党が模索し続けてきた共産党との野党共闘を最終的に拒否した元代表前原氏は、その根拠として「政策の根本が異なる共産党とは共闘できない」と述べた。

共産党は日米安保破棄と言っているから共闘を組むことはできない。そんな共闘は「野合」であって、それでは支持者を裏切ることになるし、政権交代を目指すにおいても無責任の誹りを免れない、ということだ。

議会の内と外では、政治的メッセージを作る工夫が異なるから、院内の人間が院内の人間を意識して言うことと、院外のメディアへのハウリングを計算して使う言葉は異なる。特に胸突き八丁の最中には政治家には言えないこともあり、言葉は自ずと曖昧になる。

「特オチ」を避けたい政治部の記者も、政治家の独特の物言いに引きずられて、気がつくと状況を切り分けられない定番の言葉に寄りかかる。

その典型が「政策の不一致」という大雑把な言葉である。共産党とは政策が違う。維新の党とは政策が一致しない。希望の党の右派とは政策を共有できない、などだ。

しかし、冷戦下のイデオロギー対立は過去のものとなり、「圧勝」と報じられる自民党も実は単独で集める票だけでは政権を取れない現在(創価学会の基礎票が必須)、野党は有権者の「分かれなければ勝てるのに!」という気持ちにそって、なおも共闘の工夫を模索せねばなるまい。そしてその障壁となっているこの「政策」という言葉の曖昧さに気がつくべきである。

<そろそろ「綱領」と「公約」を区別せよ>

最大の問題は、我々政治を報ずる者が、政党の「綱領」と「公約」の区別を曖昧にしたまま、ぼんやりと「政策」という言葉で政治の話をし続けていることである。

日本共産党は「日米安保を破棄する」と言っているから、現実の政権運営をするためには、それは受け入れることができないとなる。ちなみに綱領の第4章「民主主義革命と民主連合政府」の第一項には次のように書かれている。

「日米安保条約を、条約第十条の手続き(アメリカ政府への通告)によって廃棄し、アメリカ軍とその軍事基地を撤退させる。対等平等の立場にもとづく日米友好条約を結ぶ。」 http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Koryo/index.html

確かにこれを直ちに実行に移すのは不可能である。しかし、これは「綱領」であって、「公約」ではない。綱領は、有志が集まって世界の未来に対する夢とヴィジョンを共有し、共に歩むための「約束の言葉」であり、だからそれは「同士との約束」である。世界を変え、理想の社会を作るための政党の綱領は、それゆえ常に輝く理念を掲げねばならない。その純度と目標の崇高さがあればあるほど、友との結びつきは強まる。

選挙における「公約」は、それとは全く別のものだ。2009年の民主党政権誕生の選挙では「有権者との約束」としてのマニフェストが宣言された。民主党には綱領がなかったが、マニフェストはあった。それ「この政権が次の選挙までに達成できそうな政策の到達予定表」であった。中選挙区制の下での自民党候補同士のサーヴィス合戦によって、政党の公約が無意味化していた事態への危機感が、そこには明確にあった。

政党は「次の選挙は任期満了ならば四年後です。四年経ったら通知表のように成績をつけて、それを投票で表してください」と呼びかける。マニフェストは、今日でも伝統ある英国議会選挙で使われる最も一般的な言葉である。

しかし、当時野党となった自民党はこのことの意味を解すことなく、民主党の使ったこの新しい言葉そのものへの攻撃に終始し、政権復帰後自ら出した公約を再び「ただの曖昧な政策花火のお題目」に戻して、安倍首相は「マニフェストなどという言葉はもはや恥ずかしくて口にできません」と打ち捨てた(これは英国議会政治への侮辱である)。

時計の針はまたグッと過去に戻り、公約は今、あいも変わらず曖昧な「約束なのか工程表なのか理念なのか何なのかさっぱりわからない、誰も読まない、信用できない」虚ろな言葉となってしまっている。

<「日米地位協定の見直しの諸条件の拡大を」と書くべし>

もはや多くの人々にもわかってきたように、沖縄米軍ヘリの事故検証すら許さない日米地位協定は、日本の主権を制限する植民地協定に近い。その条文を読めば、少々早熟な中学生なら「アメリカ軍は皇居二重橋の前にオスプレイの基地を日本政府に通告なしに作れるんだな」とわかる。

そして、自称保守であり「美しい日本」を賛美する首相は、なぜかそれに一切手をつけようともしない。民主党政権もそうであったし、それが我々の現実である。それならこのイシューに関して「四年間で前進できそうな努力」とは何だろうか?つまりどのような「公約」の言葉を編み上げることが可能であろうか?

もしどうしても野党共闘によって現政権を打倒したいなら、そしてそのために共産党の持つ各選挙区の平均2万票が必要ならば、それで都市部の100議席を逆転させたいならば、野党第一党の代表は共産党に言うべきなのである。

もしどうしても維新の党以外の野党の結集を図り、もう一度強力な首相候補を立てて安倍内閣を打倒したければ、希望の党の首相候補も言うべきなのである。

「日米安保破棄は綱領でどうぞ主張し続けてください。私たちも日本の主権が制限されているという認識において御党と一致しています。願わくは将来条約を見直して、対等な地位協定を結び直すべきという点でも一致です。ただ、そこへのシナリオが異なるのです。でも四年間でできることはたかが知れてます。まずは隣国の韓国ですら実現した、対等を目指す地位協定の条項についての"見直しのための条件を交渉で広げる"という"公約"に賛成して欲しいのです。それをこの四年間で外務省も自民党も巻き込んでちょっとでも実現するのが当面の目標で、そのためにあなた方の力が必要なのです」と。

共産党も、「わが国の独立を脅かす日米安全保障条約を破棄すべき」などという、何十年もかけて内閣をいくつも潰し、数十人の政治家が抹殺されるほどのコストが必要な目標を「四年間の公約」として書くべきではない。書けばそれは今まで通りの"絵空事"となる。

政治記者も、「安保破棄」などと共産党や社民党が公約に書いたら、「それは綱領ですよね?我々が知りたいのは、もし野党政権となってあなた方が閣外協力をするなら、"四年の間にできる協力は何か?"という公約なのです。日米安保破棄はもういいです。綱領に書いてありますから」と質問するべきだ。

有権者も、自分が支持する政党がその基本政策と摩擦音を奏でるような公約を掲げたとしても、「変節だ!裏切りだ!失望した!」などと子供のような清潔主義的反応をする前に、「四年間あればもっとできるはずだ」、あるいは「そこはハードルが高いからもう少し漸次的でもよくないか?」とあくまでも具体的に考え、提言し、そして見守るべきである。

輝く理想の「綱領」と、「四年間でギリギリできそうな政策目標」を切り分けないと、我々はこの社会にある各々の組織とパワーを引き出すことができない。つまり永遠に「オリーブの木」など作れない。(1)

しかし、野党が現政権を打倒するために存在する以上、やるべき仕事は「次の四年を担う我々の内閣で協力しあえる項目を詰める」ことである。「安保破棄即実行し山村工作隊を再組織し武力革命に撃って出る」という現実目標などないのなら、それは十分可能であるはずだ。(2)

<部分を全体へとまとめる「公約(短期作業目標)」>

政党は英語では "political party" である。つまり「部分」(part)である。政党は「社会的部分利益の集約と表出」という社会的機能を担うものと期待されている。しかし、議会政治は、そこでの部分利益を相互の「競合と協力」を通じて、「部分」を国民「全体」に及ぶ "総大な利益(公共利益)"へと昇華させていかねばならない。そこにこそ議会が存在する意味がある。

綱領は「部分」のきらめきである。しかし、それがただ政党の数だけ並立するだけでは「我々の最大公約数としての利益」を構築する道筋はできない。だから我々にはそのための「道具」としての公約が必要なのであって、政治家も有権者もメディアも、その意味の違いを肝に銘じて、複数の政党(parties)の協力を通じて、"We All"の利益の品揃え(選択肢)を準備しなければならない。

共産党は、輝く栄光の綱領をきちんと維持したまま、天敵である前原氏すら翻意させるほどの「具体的かつ実現可能性のある四年間の工程表」を示さねばならない。

それが議会政治である。

多くの人たちは、こんな民主政治の基礎中の基礎の話を聞いて、鼻白みながら「今更そんな」と思うだろう。しかし、基本の基本ができていないなら躊躇は不要だ。「綱領と公約の切り分けすらできなかった」ならば、そこから積み上げるのが我々のデモクラシーの現在である。

脚注

(1)本稿では触れていないが、「公約はすり合わせできても党内民主主義のない政党とは協力はできない」という非常に重要な論点もあが、これは紙幅の関係上別稿に譲る。

(2) 現在の与党は、こんな切り分けをする必要性はないだろう。なぜならば、カネとポストと大中小の特権と便宜の配分さえすれば、公約の違いなど封じ込めるほどの求心力を維持できるからだ。あれほどの基本政策の違いがあっても、公明党は"現生利益"の下で不可思議なる連立を堅持している。

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