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先行の憲法論議の言葉と思考の習慣を組み直そう

2014年04月08日 18時47分 JST | 更新 2014年06月08日 18時12分 JST

自民党の政権復帰後、解釈改憲をなおも進めようという動きと共に、その先の憲法改正への動きも活発化しつつある。近年最も復古色の強い政治的価値を掲げる現政権が、この時とばかりに戦後の精算を目指し、前のめりとなっていることは明らかだ。その拙速を防ぐためにも、真に必要とされる論点で成熟した議論が重ねられなければならない。

ところが有権者の間にそのための有益な言葉と思考の枠組みが提供されているとは言い難い。最大の問題は、「護憲対改憲」という二項対立構図で語られるという、相変わらずの言葉と心の習慣の呪縛である。もはや「憲法死守か戦後憲法の清算か」という物言いは過去の不毛な文法として手放すべきである。なぜならば、この図式は護憲と改憲の中間に存在する広大なゾーン、そして護憲と改憲それぞれの枠内にすら鋭く対立する個別の主張があることを見えなくさせるからである。

こうした根強い習慣は、改憲の手続きや政治的段取り論が先行しながら、論議のための豊な言葉や思考枠組みを可能な限り共有し合うという、憲法論議のための「畑の肥やしづくり」が不十分であるということを意味している。

すべての憲法改正論議は、「そもそも憲法が存在する意味」と「今、改憲を必要とする理由」という出発点からなされねばならない。ここから発しない「改憲は戦争を起こす」というナイーブな主張も、「憲法が現実に追いついていない」という、憲法と一般法規の区別もつかない稚拙な議論も、いずれもかつての「護憲対改憲」という図式のままなされる、出来の悪い、色あせた古いシネマの再上映に過ぎない。若い世代は見向きもしない。

メディアもこの点を克服して、意識的に新たな構図を市民に示すべきである。典型的な古い物言いが、「自民、維新、みんなの党および民主党の一部を足せば、今や改憲を主張する政治勢力が全体の7割を超える」という類いのものである。これではここに含まれる多様な「改憲論者」の切り分けができない。

改憲論の中には、必ずしも9条の戦争放棄のみを対象にするものだけでなく、特定秘密保護法などに見られるような、危機的状況にある立憲主義の現在をどう再構築・再構成するかを軸に、強力な国家統治を前提にする憲法構造か、分権と自治を憲法でどう表現するべきかという、護憲憲法学者ですら手つかずの根本的議論が含まれている。

またあまり言及されないが、日本の政治的共同体の構成員である「個人」をどう位置づけるかによっては、第1条の天皇の規定や、文言としての「国民」の選択の当否も含めて様々な問題が導き出される。ここにおいても改憲論者の間の違いは著しいものがあるし、護憲論者内部においても同様である。

「護憲対改憲」という大雑把な仕切りは、そうした重要な違い考えるきっかけを皆封じ込めてしまっている。その結果、「改憲=即戦争突入」、「護憲=売国サヨクの妄想」という、怯えと引きこもりを動機とする、それゆえにマイクの音量を上げ下げするだけの言霊が虚空を舞うことになる。このレベルのやり取りは、この国の基本政治原理を作るための潜在力である、若くて賢明な次世代有権者の失望とシニシズムを生み出すだけである。

憲法を必要とする理由、改憲の根本的理由をめぐる議論を前提に、「改憲によって集団自衛権を位置づけ国家の機能強化を図る」という考えはもちろんあり、同時に「正しく国家権力を制御するためには、下位関連法規を十全に機能させる改憲が必要」という主張もある。後者は「改憲を通じた規範力の回復」を目指す。同時に「現行憲法の下でも関連法規を適切に改正して憲法の規範力を取り戻せる」とする護憲論も存在する。

こういう違いをそろそろ我々はきちんと切り分けなければならない。改憲は憲法を守るために存在するからである。我々が本当に守るべきものとは、9条の条文「そのもの」でも、曖昧とした「国柄」でもなく、憲法の持つ規範力である。