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自治体関係者よ、「公共」の意味を取り違えるな 〜「改憲」も「護憲」も、「再稼働」も「脱原発」も、みんな政治性を帯びている〜

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4月16日の東京新聞の報道によれば、千葉県白井市が、「憲法や原発など世論を二分するテーマの行事は事実上、後援しない方針を決めた」とのことだ。白井市だけではなく、「自治体が『政治的中立』を理由に市民団体が主催する憲法の集会などの後援申請を拒否するケースは長野県千曲市や神戸市などで相次いでいる」のだそうだ。

驚くべきことに、白井市が行事共催・後援の規定を変えたのは、保守系の市議からの「(市は)政治性を持った講演を後援している」という市議会での批判を忖度したからだという。これは市議会の「一般質問」の形で出てきた、一市議の意見であって、市議会で条例を改正した結果ではない。つまり、「しろい・九条の会」が憲法記念日に行おうとしている講演会を「やるべきではない」と言っているのは議会ではない。一人の保守系議員だ。総務課長は、これを理由に規約を変えたと言うのである。役場の一職員が、こんな大事なことを「気をつかって」決定したということだ。

加えて不可解なのは、この市議が護憲団体の講演会を「政治性を持った」ものという理由で批判していることである。この市議が現行憲法に対してどのような評価をしているのかは知らないが、護憲が「政治性を持ち」、自分の憲法評価(政治家なら全員持っているべきである)は「非政治性」のもとにあるとでも言うのだろうか? 市議に尋ねたいのは、「それでは貴方は政治的に無垢な、政治性のない、つまり政治的見識を持たない市議」なのかということである。ご冗談でしょう? それなら今すぐ政治家を辞めなさいと言う以外に言葉が見つからない。貴方は一体何者ですかという話である。

昨今、ネットやSNS上の投稿や、自治体等への一部の偏執的クレームを契機にした「炎上」(議論の本筋を完全に失った愚劣な感情が飛び交う、稚拙な言葉の掃き溜めのようなやりとりのこと)が起こるたびに不可解な決めつけが散見される。その典型が「それは偏向している」と「それは政治的色彩が濃い」という物言いである。「偏向」も「政治的」も、その決めつけ方には、政治に関する根本の誤解があるようだ。

政治とは、「もっぱら国家や役所による営み」のことではない。政治とは「自分の価値観に依拠して、自分の生きる社会の評価を、言語を通じて、不特定多数の他者へ伝えること」である。したがって、全ての人間は世界を完全情報で評価できない以上、そして優れた言葉に遭遇した時には反省的に考えを変えることをも含めて、みんな政治的な存在なのである。だから「政治的」を理由に他者を非難するということは、この世界に「政治にまみれた特殊な世界」と「そこから解放された無菌の政治と無縁の世界」の二つがあるという、驚くほど「政治的」な決めつけからものを言っていることになるのだ。

このとき、自治体が担うべき「公共的」役割とは、ありもしない「政治的中立」などを自ら体現しているような錯覚から抜け出て、理性と合理に依拠したさまざまな政治的見識、意見、主張を「開かれた空間で」ぶつけ合うための討議アリーナを提供することである。「公共性=地方公共団体=非政治的」とする前提は、公共性の最も本質的な価値が「公開性と共通性」(open & common)であるということを理解しない妄想である。

「世論を二分するようなテーマ」だから忌避するのではない。そういうテーマだからこそ、自治体のような公共的役割を担う立場は、政治的なテーマのための「場」を提供しなければならないのである。一体何をそんなにおそれているのか?

もし件(くだん)の市議が自民党の憲法試案のような「政治性」を帯びている主張をしていて、これをたまさか護憲派の市議の批判を忖度した総務課長によって「政治性があるのでNGです」と拒否されたら、「ああそうですね」と言うのだろうか? もしそうなれば、失われているのは「美しい日本」ではなく、風通しのよい言論空間であり、つまりデモクラシーの基本条件である。市議は自分で自分の首を絞めているのである。

憲法や原発といったテーマにおいて、敵対する主張を持つ側を「政治的で偏向している」と非難するやり方は、デモクラシー、自由、社会的知性、未来を縮減させる、最も悪しき、愚劣な、「政治的」営為である。他の自治体が、こうした誤った対応を「バスに乗り遅れるな」とばかりに追従すれば、日本のデモクラシーに未来はない。正気にもどるべきだ。

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