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「忖度は民主主義」という妄言について

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<忖度される側が「忖度はない」と言えるか?>

森友学園事件発覚後、籠池証人喚問を経て、メディア空間には「忖度(そんたく)」という言葉がキーワードとして躍り出ている。政治家を辞めた某元市長が、TV番組で「忖度は究極の民主主義」という趣旨の発言をしたそうだ。

これは「たとえ国有地の激安払い下げが、財務省が官邸の意向を忖度した結果であろうと、それこそ民意をバックにした首相の政治決定を実現させたという意味で民主的だ」と言いたいのだろう。「良い忖度なのだから首相は認めればいい」という、彼の同志である府知事の発言も同じ趣旨だ。

他方、安倍首相は国会の答弁で「忖度の余地はない」、あるいは籠池−昭恵夫人間の件(くだん)の証拠ファクスは「ゼロ回答だから忖度はなかった」という言葉で、頑固にそれを否定している(後に「満額回答」が発覚したが)。首相を庇うつもりの者が「忖度はあった」と言い、当の首相が「ない」と断言するという、語るに落ちる奇妙な連携がそこにある。

<世界に説明できない「忖度」のニュアンス>

忖度については、当ハフィントンポストにおいても、郷原信郎氏のブログ論考が紹介された(「官僚の世界における"忖度"について『確かに言えること』」)。氏によれば、忖度は上位者にはわからず、する側も意識していない場合が多く、通常は裁量権の範囲で、それを首尾よくこなす官僚こそ出世するとのことだ。官僚組織がどういう力学で作動しているのかを示す明晰な指摘である。

残念なことに、そもそも忖度という日本語が英語に適切に翻訳できないことは、籠池氏の外国人記者クラブ会見で通訳者が明らかにした通りである。

忖度のニュアンスを世俗的な表現である「みなまで言うな!(察しろ!)」とするなら、英語の "reading between lines"(行間を読む)が近いが、それでも「空気を読みつつ」、「誰かがそれを本当に望んでいるかどうかもわからないこと」を先回りして予測して、何らかの対応をして、それでいてその結果起こったことが誰かの不利益になっても、「誰も責任を取らない」という、日本の大人ならわかるあの独特の意味までは表現できまい。

<「思いやり」と政治における「忖度」の違い>

我々の日常には、「おそらくあの人は◯◯を望んでいるのだろうから、黙ってそれに応えてあげよう」という想像力と思いやりがあってこそ収まりがつくという場面もある。しかし、これが権力関係で生ずると、「課長はおそらく◯◯という結果をお望みだろうから、それを用意して差し上げよう」となり、それが常態化すれば、上位者による下位者に対する「行為の指定」が明白に発動されなくとも、上位者は己の望む結果を手に入れられる。政治学の言葉で言えば「自発的服従による支配の制度化」である。

その意味では、忖度とは「上位者は何もしないが本当は我々に"示唆"することがあるのだろう」と「勝手にメッセージを読み込む」ことである。郷原氏指摘の「上位者にはわからない」とはそのことだ。そしてその場合、「そんな忖度などあったのか?」とすることも、上位の者には可能だ。つまり、知らないふりもできるということだ。

もし「そういうことは、世間でも会社でもどこでもあることではないか」で終わりとするならば、この話は「結果的に多数者の利益に適(かな)う決定となれば、それは民主的ではないか」という結論にも容易に行き着くだろう(不当払い下げは明らかに少数者の利益なのだが)。これは「残った事実が民主主義」という、昨今流行の思考停止である。

<忖度で失われるもの:政治の言葉> 

では、こうした「人間ならば忖度するし、予測もするし、先回りして決定のコストを下げることもある」という一般論に、件の財務官僚の忖度を吸収させた時に、いったい何が取り残されるのだろうか?

それは民主政治における政治や行政の「応答性(accountability)」である。

ちなみに「会計(accounting)」という言葉が、どうして"応答性"と関係するかと言えば、それは銭金の出入りをきちんと説明して、その扱いの正しさを負担者に対して「応える」義務と信義があるからだ。これは政治や行政においては、通常「責任」という言葉で表現される。責任のいま一つの英語表現は、"responsibility"であるが、これも「相互に応え合う」という原義を持つ。そしてこの「応え合う」という相互行為に不可欠なものとは何か?

言わずもがなだが、それは言語である。

それなくして責任を負う政治や行政は"アカウント"できない。

忖度が政治にとって、時としてその潤滑油となり、同時に政治の死、政治の衰弱、意思決定の正当性を担保する公共性の無化を招くのは、この政治行為が当該決定に関わる言葉を記録として残さないからである。

一億の国民の生活と人生に多大な影響を与えるような諸決定が、どのような法と、どのような審議と、どのような権限と、どのような過程でなされたのかを、事後合理的に評価するために絶対に欠かすことができないものが言語である。しかし、忖度政治にはそれが存在しないのである。「みなまで言うな!」を自然に、そして意図的に内面化した者の作為だからだ。そして、失敗を前提として議論と検証を不可欠とする民主政治において、言葉の記録は本来その生命線である。

<「あったこと」だが「なかったことになっている」政治>

したがって、どれだけの不幸、どれだけの不正、どれだけの錯誤があろうと、その結果国民の生活と人生が大きく毀損されても、「総理がそれをお望みになっているのだろうと思ったものですから、円滑な行政を確保するための業務の一環としてそのようなことになったと承知しております」という論理が横行するだろう。

責任は誰にあるのか?やはり役人は答える。「我々は省の内規に従いまして、関係書類を破棄いたしましたので、そうした事実があったかどうかは承知いたしておりません」と。忖度に書類は邪魔だからだ。そして政治家は断言する。「そのような忖度はなかった」と。しかし、それは検証できない。言葉の記録が存在しないからだ。
 
今、この国で起こっているのはこういう事態である。法律家の反対を全部無視してなされた憲法解釈変更の閣議の「議事録」が存在しないという、万邦無比の国家においては普通のことなのかもしれない。

ちなみに先にこうした事態を「政治の死」、「政治の衰弱」と筆者は表現した。しかし、読者はそれをそのまま「政治の消滅」と読んではいけない。それでは忖度が足りない。もっと行間を読まねばならないが、筆者は政治家でも官僚でもないので説明する。

政治の世界において、究極の政治的機能とは、あたかももう「政治、権力などというものが発動されなかったかのような状況」を通じて、何者かの政治的目的と意図が隠然と達成されることだ。そこに政治はある。権力もある。しかし、忖度政治ではそれは「なかったということになっている」のである。なかったことに「させる」のである。

<「なかったこと」は"民主的"と評価できない> 

筆者は、今ここに、そういう「言葉」を残した。野暮ながら「みなまで言った」。だから、これを理解した読者は"忖度"をしたのではない。ある種の合理を言語的に確認したのである。ゆえに事後的に筆者に反論可能である。民主政治の生理がここにある。

忖度のカラクリでなされた決定を「民主的である」と表現することは全くもって妄言であり、かつ極めて露骨なる政治的な行為であることは言うまでもない。「なかったこと」を民主的であるとは、丁寧にものを考える者は強弁できまい。「結果がすべて」は彼らの常套手段である土俵のすりかえである。「今回の首相の忖度は良い忖度である」と擁護する者は、果たしてそのことに自覚があるのだろうか?

もし彼らを支持するなら、「きっともっと深遠なる狙いがあるのだろう」と、そこを忖度しなければなるまい。悪への道は善人が平(なら)すのだから。