ラスト・シーズン!アルペンスキー人生の集大成。清澤恵美子

初めてスキー板を履いたのは4歳。

ブカブカのレーシングスーツ

ウィンタースポーツ競技者には雪国育ちが多いイメージがあるが、平晶オリンピック出場に挑戦するアルペンスキーヤー清澤恵美子は神奈川県出身だ。

Kazuki Kiyosawa

初めてスキー板を履いたのは4歳。スキー好きの両親にへ連れられ、苗場で初滑りを楽しんだ。6歳からからはアルペンスキーに挑戦。小学2年生になると、周囲に誘われ大会にも出場するようになった。そんな清澤が競技としてのスキーに目覚めたのは、小3で群馬県の大会で優勝しメダルを取ったときのこと。この頃、買ってもらったワンピースのレーシングスーツはまだブカブカだった。レーシングスーツは高いので「長く着られるように」と、とにかく大きいものを購入してくれた。スキー競技を続けるには道具や遠征費など、費用がかさむ...。

水泳とスキーの日々

小学生時代、オフシーズンは水泳に明け暮れた。冬場になると苗場でスキー練習に打ち込む。特設ポールを立てたレーシングコースを周回して滑った。当時は、とにかくスキーが楽しくて仕方がなかった。たとえ手が冷たくて辛くても「恵美ちゃん、頑張れ!」の声で続けることができた。

小6の夏で水泳をやめ、スキーのための中学校進学を選択した。全国中学スキー大会(以下、「全国中学」)に出るにはスキーの先生の引率が必要だ。よって、スポーツに理解がある都内の私立中学校に進学し、スキー部に入った。シーズン中はときどき学校を休んでは遠征。夏は学校で走り込みをして体力強化に励んだ。

Kazuki Kiyosawa

「東京の子」呼ばわり

こうして、それなりに本気でスキーに取り組んではいたが、中学時代の清澤恵美子は平凡な記録しか残せていなかった。東京都予選会で上位4位に入れば全国中学の切符を得ることができる。でも、それも叶わなかった。気を揉んだ両親が「本気でスキー選手として一生懸命やりたいのであれば、広い北海道で荒波に揉まれた方が良いのでは」と判断し、愛娘が進むべき道をリサーチし始めた。そんな折、北海道にかもい岳レーシングという、全国から選手を募集して育成する名門合宿所があることを知る。結局、同合宿所に門下生として入所し、代表の齋藤博に師事することとなった。意気込んで合宿に出向いたものの、最初は「東京の子」呼ばわりされる日々...。

このとき、中学1年生の清澤は、小3で買ってもらったあのレーシングスーツを着ていた。周囲の門下生たちはというと、体格に適合するスキー・スキー靴・ビンディングの3点セットを揃えていた。「用具が統一されていない私は"普通の子"だった...」と、当時を振り返る。

Kazuki Kiyosawa

「絶対に見返してやる!」

そんな清澤に中2のとき、転機が訪れる。練習中でコースアウトしたときのこと。コーチに「そんなんだったら要らない!」「お前なんてやめちまえ!」と怒鳴られハッとした。反骨心で「絶対に見返してやる!」と一念発起。それからは「絶対にコースアウトしない!」と心に決めた。

-もし、コーチから強い言葉をかけられなかったら?

「人生を通して"諦める"ということを繰り返してきたと思います。あれ以来、練習中に諦めることはほとんどなくなりました。"絶対にゴールするんだ!"とか"あきらめないんだ!"という根本を植え付けてもらいましたね。あのときのお蔭だと、コーチには本当に感謝しています。」

その後、持ち前の反骨心で練習にさらに打ち込んだ清澤は遂に高校選抜で優勝を果たす。

あきらめない気持ちと怪我のリスク

さて、アスリートには故障が付き物である。数十キロのスピードで滑走するアルペンスキーヤーも、常に怪我のリスクと隣り合わせであることは想像に難くない。清澤にとっては16歳の時に右下腿に開放骨折を負ったのが、一番の大けがだ。また、29歳のときには、右膝の怪我を何度か繰り返している。"諦めない"ことや限界までチャレンジすることには怪我のリスクが伴うはずだが、どう考えているのだろうか?

「たとえ"怪我が多いよね?"と言われても、自分の主張としては、"いやいや29歳までほとんど怪我をしなかったでしょ?"という気持ちです。"普通、29歳って引退してますよね?"私の膝は消耗しているから、まぁしょうがないでしょ?"というのが実感ですね。」

「もちろん、イチロー選手など怪我が少ないレジェンド・アスリートは凄いと思います。でも、アルペンスキーの場合は、1回のターンに400kgほどの負荷が加わると言われていて、かなりの負荷がかかるのは競技の性質上、仕方がないことなのです。30年近くやっていれば大怪我のリスクもありますし、それはしょうがないこととある程度割り切っています。」

Kazuki Kiyosawa

自分の"エサ"

-アスリートとしての長所はどんなところだと自己分析していますか?

「私は、基本は"凡人"です。体力測定でもスキーでもすごく秀でているものがあるわけではありません。でも、"続ける力"や"諦めない気持ち"は秀でているのではないかな、と自負しています。あとは、ネガティブをポジティブに変える力ですね。ネガティブや失敗をそもそも"生まなければいいのでは?"と思われがちですが、そういった考え方で失敗することが意外と多いのです。失敗は"成長の元"ですし自分の"エサ"だと今は考えています。」

-"エサ"とは言い得て妙ですね。一般的には、失敗はリスクとも捉えられますが、リスクを負うべき時やその覚悟についてどう考えますか?

「私の場合は"今、リスクを負うことができるかどうか?"と、まずスタート前に自分自身に問います。すると、コース状況やそのとき置かれている状況、自分の感情などによって、"リスクを負うことができる!"と思えるときと、そうじゃない時があるんですよ。"リスクを負うことができない..."と思うのにその気持ちに蓋をしてリスクを背負うと、すごくメンタルが傷つくんですよね。」

「もちろん、その時の感情や状況判断によって"リスクを負うことをできる"という確信があればリスクを負います。その判断にはキャリアによる経験や勘が生きています。昨シーズンからはメンタル面について深く勉強し始めました。"確実にできることを確実に積み立てる"という作業を繰り返してきました。その中でリスクを負うことが確実にできるのか、できないか。分析よりも感情の比重が高いのです。」

感情はコントロールできない。

-素人考えでは、プロアスリートは客観的な戦略や分析に基づいて自己コントロールしているようなイメージだったのですが主観も重要なんですね?

「はい。何故かというと、感情はコントロールできないからです。コントロールしようとしているのは、思考なんですよね...。例えば、"おいしい"と思う食べ物を出されて好物なのに、"マズイと思ってください。"と言われても、それは思考を無理やりコントロールしているわけです。」

-なるほど。よく分かりました。では、その時々の感情によって目標設定も調整するのでしょうか?

「はい。目標設定も"これだったら出来るんだ!"と確信する目標に対して挑戦すればうまく行きます。でも、"出来ないかも..."と思う目標を設定し無理に挑戦して失敗したときは、とんでもなくメンタルが傷つく。モチベーションの"エサ"が落ちて行動がストップしてしまいます。だからと言って、目標を下げることはありませんが...。常にゴールは一番の高みに置きつつ、"今できる"ベストな目標を設定した上で、"確実に出来ることを確実にこなす"ということをプロとして常に意識しています。」

数々の困難を乗り越えてきたベテラン・アスリートの言葉ひとつひとつには重みと説得力がある。そんな清澤恵美子は今、クロアチアで行われるワールドカップの3連戦に臨み平晶オリンピック代表に選考されるよう最終調整を行なっている。2018年は「アルペンスキー人生、最後のシーズン」だと覚悟を決めた。"自分に何ができるのか"自身に問い、"今できる"すべてを大好きなアルペンスキーにかける。「可能性が1パーセントでも残っていれば絶対に諦めない!」それが清澤恵美子の真骨頂だ。

※敬称略

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