北朝鮮を脱出して自由にたどり着くまで

私は1964年、北朝鮮の平壌で生まれた。そして1997年に鴨緑江を渡り北朝鮮を脱出した。

私は1964年、北朝鮮の平壌で生まれた。そして1997年に鴨緑江を渡り北朝鮮を脱出した。

私が子供だった1960・70年代は、北朝鮮の経済史において二度と来ないだろう黄金期だった。父は「朝鮮体育指導委員会」で、母は平壌のビール工場で働いていたので、私は平壌の他の家庭に比べても裕福な環境で育った。一片の不幸もなさそうな「姫様」だった私が、どうして命をかけてその地を脱出するに至ったのか。

資本主義式の階級を打倒すると叫んだ社会主義体制を標榜していたが、北朝鮮の実体は「出身成分」によって徹底的に差別をする「階級社会」そのものだった。そして、その「出身成分」は独裁首領に対する忠誠度で決まった。

一つ目の挫折...努力しても乗り越えられない差別と蔑視

10才の時だった。ある夕べ、家に押しかけてきた「政治保衛部」の人たちは、父が両江道(ヤンガンド)地域の「社会主義大建設に進出」することになったと告げた。よく言って「社会主義大建設進出」で、両江道は北朝鮮でも悪名高い奥地。事実上「追放」だった。後で知ったが、父が反共活動をしたこととおばあさんの家族が韓国戦争当時に韓国に逃げたことが発覚したのが理由だった。

誇らしい朝鮮労働党の党員から「成分不良者」へとにわかに身分がひっくり返った私の家族は、「革命化」という名の下、私たちが住む家からはじめてあらゆる建設現場に動員された。私はまだ幼かったため学校に行かされたが、学校でも学校建設から薪取り、輸出用の山菜や松やにの採取など色々な労役をしなければならなかった。同じ学生でも出身成分の悪い私にはもっと過酷でもっと多い量の労働が課され、同級生や先生も当たり前のように私を見下していた。

私は必死に勉強をした。そうしたら出身成分を克服して大学に行き、ここを逃れられると考えたのだ。不幸中の幸いか勉強は私に苦でなく、金日成総合大学で開かれた全国数学大会で4位になったこともあった。しかし、17才の時、担任の先生はみんなの前で「お前みたいな成分不良が大学に行けると思うのか。大学推薦は夢にも思うな」と皮肉に言った。この言葉は強制労働で指先が割れて足が凍ることより大きな苦痛だった。

卒業したら自分の意志や能力、努力とは関係なく私は林産事業所に伐木作業者として就くことになっていた。絶望に陥った私は、結局家にあった農薬を飲んで自殺を図った。しかし、それも自分の運命ではなかったのか、母が倒れている私を発見して命を断つことはできなかった。

二つ目の挫折...政治犯収容所の恐怖

自分の全てをかけてでも出身成分を変えたかったが、変わるどころか大人になった後も配給、職業、結婚にまで足かせとなった。町中のみんなが依然として奴隷のように強制労働をさせられても、北朝鮮の経済は悪化する一方で、周りの多くの人が病気や飢えで亡くなっていった。

1994年の金日成の死亡でパニックに陥った北朝鮮は、粛清の嵐まで吹き荒れて社会の雰囲気はさらに殺伐となった。1994年から1997年まで、私が直接目撃した公開処刑だけでも4回あった。加えて配給制も中断されたが、北朝鮮政権は「苦難の行軍」と言いながら住民たちに責任と犠牲とを強要した。

これ以上悪くなることもないと思っていたが、まさかの不幸が待っていた。韓国に渡ったおばあさん家族がアメリカに移住したが、いとこがそこで本を出したという話を聞いた。その本には、私の父が金日成に反対する反政府闘争に加担していたことが「実名」で触れられていたと。しかも、その本がアメリカでベストセラーになって話題を呼んでいたと。この事実が保衛部の耳に入るのは時間の問題で、発覚したら家族全員が政治犯収容所行きに決まっていた。

政治犯収容所の話は聞くだけで地獄だった。「朝鮮人帰国事業」で日本から来た知り合いの張先生も、お母さんが朝鮮総連で対南連絡策として活動していたが、二重スパイの疑いで逮捕され北朝鮮の政治犯収容所に収監された。結局、無罪と判明したお母さんは17年ぶりに解放されたが、収監の間に何をされたのか半身不随となっていた。張先生もお母さんのせいで両江道に追放されていたのだ。

私は、政治犯収容所に行くならむしろ脱北した方がましだと思った。脱北の途中で保衛部に捕まえられて、うちの村に連れてこられる人々が収容所に送られ、数ヶ月で亡くなるのを見て恐ろしかったが、当時生まれたばかりの息子に収容所生活を送らせるなんて死ぬよりいやだった。

アメリカの伯父も中国の国境地域まで来て、私の家族に「早く北朝鮮を出ろ」という手紙を送ってきたので、私は家族とともに伯父と中国朝鮮族の助けを借りて鴨緑江を渡った。

北朝鮮を離れて自由へ

1997年10月、韓国金浦(キンポ)空港に到着。私は韓国でビルの掃除からはじめた。仕事も大変だし、その収入では子供を育てることが難しかったので、しょっちゅう「交差路」という求人情報誌をチェックしていて、何ヶ所かの職場を転々とした。

そんな中、保険会社で働く機会がやってきた。最初は月88万ウォンでスタート。保険仕事に慣れるまで何もかもが初めてで知らないことばかりだったが、歯を食いしばって働き、全社員の中で実績6位まで上り詰めた。給料で2700万ウォンをもらう月もあった。梨花女子大学で食品栄養学の博士号も取り、教授にもなった。

全く新しい環境に慣れる過程で泣くことも多かったが、韓国では仕事が適性に合わなかったり大変だったりすれば、最悪の場合、辞めればいい。仕事が下手だからといって炭鉱村や収容所に送られることはまずないから。仕事を辞めてプータローになろうが、頑張って保険販売王になろうが、個人の選択と努力によって人生を変えられる。それこそ自由の重さでもあるが、私はいくら重くても喜んでその自由を背負うことを選びたい。

変わらない北朝鮮...住民保護のために人権活動を始める

韓国での生活が安定してきた頃から、毎年自由を求めて韓国に入ってくる脱北者の定着の支援を始めた。彼らと交流しながら耳にした2000年代の北朝鮮は、私が住んでいた20年前と何一つ変わっていない気がした。それから既に脱北をした人だけではなく、北朝鮮で「人権」の概念すら知らないまま辛い生活をしている可哀想な人々を守るためなら何でもしたいと思い、人権活動に飛び込んだ。

今は私の活動を応援してくださる方も増えて、おかげさまで韓国に限らず他の国でも活動をさせていただいている。特に日本に関しては、私のように北朝鮮を脱出した在日同胞もいるし、北朝鮮による拉致や朝鮮人帰国事業などでまだ家族を北朝鮮に捕られている人々がいるため、共感し合えると考えた。知人にお願いして日本語のブログを始めたことも、コラムなどを書いて日本の新聞社に投稿したことも、「国連北朝鮮人権報告書」の日本語訳が無事出版されるように応援したことも、全てそのためだった。

しかし、国際社会の強い非難にもかかわらず、北朝鮮は5回目の核実験を準備するなど依然としてむちゃな歩みを繰り返している。崩壊寸前の経済状況に国連制裁をはじめとする数々の圧迫が加わった今、核開発の費用を調達するため北朝鮮にできることは、再び北朝鮮住民の人権を踏みにじって彼らを搾取することしかないだろう。

その負の連鎖から一日も早く彼らを救うためには、北朝鮮独裁政権の崩壊が正解だと信じている。北朝鮮は国際社会の制裁を巧妙にくぐり抜けていく中で、さらに悪辣に、さらに狡猾になった。そのような北朝鮮を一人、一国の力だけで倒すことは難しい。世界の意思と力を一つにすることが大事なのだ。そこに1%でも力になれるなら、私はいつどこでも声を上げていきたい。

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