自分の子供が「いじめっ子」になってしまったらどうする?

子供たちに「優しくしなさい!」と叱るだけでは駄目だ。もっと具体的に説明しなければならない。

娘が4年生の時、クラスメートのベサニーが気に障ると言った日のことは決して忘れないだろう。

「ベサニーに何をされているの?」私は、咄嗟に娘をかばい立てする口調で聞いた。

「遊び場で私の後をついてくるの。お昼ご飯の時も私の隣に座るし!」まるで、それですべてが説明され、私が真っ向から娘の味方になるかのような口調だった。

「ベサニーが貴方と友達になりたがっているということ?」私は信じられないといった表情で尋ねた。

その瞬間、問題は私自身にあるのだと気付いた。私にとって最悪の悪夢を育てていたのだ。5人兄妹のど真ん中で、カリスマ性があり、生意気で、長い脚にブロンドヘア、ダンスが上手く、スポーツ万能で、体中から自信が溢れている女の子…。そんな娘が、彼女のようになれない別のかわいそうな少女をうっとおしく感じているようだ。

娘にとって不都合なことに、彼女の実の母親(私)が小学校時代は正にベサニーだったのだ。そばかす顔に縮れ毛の軍人の子供であった私は、転校ばかりで、いつも友達が欲しくてたまらず、娘のような自然な自信に溢れた少女たちに憧れていた。娘とのこの会話によって、心痛と憤慨の間をいったりきたりしている自分がいたが、1つだけ確かなことがある。ママが口先だけでなく実行に移す時が来たのだ。

翌朝、頑固な2人の戦いが始まった。醜い争いであったが、勝ったのは私だった。

娘は私立のカトリック系小学校に通っており、学校の日常生活は、娘とその仲間たちによって牛耳られていた。その日の夜にベサニーの母親と少し電話で話し、私が恐れていた最悪の事態は事実だとわかった。娘とその取り巻きは、あらゆる手段を使って、うっとおしいベサニーから逃れていたのだ。

私の過剰反応だという保護者もいるだろう。だが、私には、この国にまん延するいじめ問題を中心から対処し始めなければならないという確固とした信念がある。いじめをその本質から定義しなおすのだ。

娘とその「一派」がベサニーにしている拒絶や興味の遮断は、小さないじめの始まりだ。あからさまに不親切にすることも名前を呼ぶこともないというのは、(ベサニーの母親や先生たちの話から)間違いない。ただ、拒絶しているのだ。完全にその人に興味を持たず、その人から得られるものは何もないと勝手に決めつけているのだ。

私にも子供時代があったし、5人の子供を育てた経験から、私はいじめにおいてどちらの側に立ったこともある。だから、いじめがどこから始まるのかよくわかっている。短絡的に他人を評価し、拒否することだ。

社会進化論だったり、人間が他者を受け入れ・拒否する動機だったりについて率直に話せしさえすれば、子供たちはきちんと理解すると私は考えている。いじめは、あらゆる年齢、ライフステージ、人種、信念、宗教で発生する。その原因は、私たち自身が持つ拒絶に対する恐怖心や自信の欠如にある。

誰もが、社会的食物連鎖の中で優位な地位に立とうと画策する。私は、この図式を公然と書き出すことで、私の子供たちにきちんと理解させることができたと感じている。保護者は、いじめについて声に出して話し、醜い部分に明るい光を射さなければならないのだ。子供たちには、大人の世界でも同じことが起こっていると認めなければならない。

当然、社会的地位が2つ上の人に「媚び」たり「へつらったり」したくなるものだが、すべての人間は、注目を得たり最大限の敬意を払われるに値する。しかしそれでも、私たちは、子供たちや自分自身に対し、どのような人からも、自分の人生に予想や不測できない価値がもたらされる可能性があるのだと常に伝えていく必要がある。それを気づかせてあげるのは、私たち保護者なのだ。

子供たちを、「優しくしなさい!」と叱るだけでは駄目だ。もっと具体的に説明しなければならない。子供は、あからさまに冷たく接しなければ、優しくしていると考えるのだ。それは違うということを私たちは知っている。

バラバラの点をつなぎ合わせるのだ。人の衝動や行動を誘導する社会進化論的社会生存本能について説明してあげて欲しい。子供たちは理解できるはずだ。ある意味、子供たちが既に経験していることなのだから。ただ、あなた自身の言葉で、意識を変えさせる必要がある

私の娘に関して言えば、ベサニーを知る努力をするよう説教した。翌日、学校から帰ったら、これまで知らなかったベサニーのいいところを3つ報告するように宿題をだした。頑固な娘は反抗した。そんなことはしたくないと。しかし、私は続けた。宿題を約束しなければ、次の日、学校まで車で送らないと言ったのだ。

車のカギを持っているのは私だったので、少しは効力があったようだ。それでも娘は抵抗したため、社会進化論について話すことにした。ATMに例えて詳しく説明したのだ。娘は、余分に貸し出すことができる「社会銀行」を所有しており、ほぼほぼノーリスクで、かわいそうなベサニーのために、引き出してあげることができるのだと。

「投資してみなさい!」私は、熱く語った。

娘は嫌々ながら服を着替え、私は車で学校へ送った。その日は、娘にとっていい1日だった。朝の出来事を除けばの話だが。だが、私が迎えに行くと、娘はまだ機嫌が悪く、友達のお母さんは「我関せず」といった様子。「娘たちには友達を自分で選ばせている」と言った(ずる賢い女性たちだこと)。その後に、娘はこれまで知らなかったベサニーのいいところを3つ教えてくれた。

2週間後、私はベサニーの母親に再度電話をした。“フォローする”というやつだ(これをしない人は多い。子供の服、栄養、睡眠時間、衛生、サイエンスプロジェクトに関して「ヘリコプター」のように細かく監視し、社会問題は「子供まかせ」であることにプライドを持っている。「本当に?グルテン摂取量からサッカーの試合でずるをしたことまで、子供のありとあらゆる文字通りどうでもいいことは散々口を出すのに、これに関してはノータッチ?」と言いたくなったことは数えきれない。説明責任を負わず、いじめが存在するのも当然だ!)ベサニーのお母さんは、娘は友達の仲間に入れてもらい、うまくやっていると断言してくれた。

数年後、ベサニー一家は別の州に引っ越してしまった。娘は別れる際、泣いていた。あらゆるソーシャルメディアを使って、今でも連絡を取り合っている。ベサニーは当時も今も本当に素敵な女の子だ。周りにいい影響をたくさん与えている。

だが、一番の価値は、もちろん娘が得たものだ。娘はこの経験を通し、本当にたくさんのものを得ることができた。今は大学2年生で、多種多様な友達がいる。優しく、誰でも受け入れ、どのような人にもオープンだ。まだ人に影響されやすく、感受性が強くて、私の保護下にあった頃、娘は、

・人の第一印象は必ずしも正しくないことを学んだ。

・ありえなさそうな人とも友達になれることを学んだ。親友は自分のようなタイプの人ではない。友情の世界では、逆のタイプがプラスになる。

・社会的枠組みの中では、誰かに代わって“引き出し”を行うべき立場になる時期があることを学んだ。寛容に、投資するのだ!リターンはあるのだから。

だが、最も重要なことは、私は娘が理科の研究で何を用意するのかについてそれほど興味はなく、娘が乳糖不耐症なのかどうかや、娘の長いブロンドヘアがもつれていないかなどには全く関心がなかったが、娘は本当にきちんと人と接することを学んでくれたことだ。

保護者の皆さんに言いたい。子供は、ジャケットを着ることや、野菜を食べることの意味はいずれ理解するのだ。だから、社会性の向上にエネルギーを投資して欲しい。細かく口出しするヘリコプターペアレントでいたいというのであれば、少なくとも適切なエリアを飛んでいるべきではないだろうか。

この記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。