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国政選挙論点シリーズ(1)-少子化対策のキモ「官民格差」に踏み込めるか

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国会の会期末が近づき、7月の参議院選挙に向けて主要政党の候補者が出揃いつつあります。永田町界隈の関心は、サミットで出される玉虫色の宣言を一つの方便として、消費増税の延期を発表し、国民に信を問うために衆議院を解散する衆参同日選挙のシナリオです。まあ、解散カードは効力が最大化される瞬間に切られるのでしょう。

いずれにせよ、今後数年の日本政治の方向性を決める国政選挙が迫っていることは間違いありませんから、山猫日記では重要と思われる論点について改めて綴っていこうと思います。

あらかじめ断っておきますが、論点シリーズといっても、各党が公約やマニフェストに掲げている政策の字面を紹介することが目的ではありません。

公約集に「作文」を乗せることは誰でもできることであり、ありていに言えば信用に値しません。特定の政策課題がどのような歴史的文脈の中に存在し、それぞれの政党の中でどのように位置づけられてきたかを構造的に理解することの方がよほど重要であり、実際にその政権なり政党が推進する政策を予想する上での糧となると信じるからです。

与野党が設定した少子化対策という主戦場


私は常々、政治家の最大の権力は問いを設定すること、いわゆるアジェンダ=セッティングを行うことであると申し上げてきました。

問いへの答えではなく、問いそのものが重要であると。論点シリーズの第一に少子化対策を持ってきたのは、人口問題が中長期的に日本の運命を一番大きく左右する問題だから、というだけではありません。与野党双方がこの問題を選挙の主戦場に持ってこようという意思を持っているように見えるからです。

与党が大勝した2014年の総選挙と異なり、日本経済の勢いに陰りが見える状況ではアベノミクス一本で押し切るというのには無理があります。それを見越していたのかどうかはわかりませんが、政府与党は、「一億総活躍社会」、「新三本の矢」等のスローガンの柱として少子化対策を掲げています。対する野党も、民進党を中心に子育てや保育の政策が攻めどころと捉えているフシがある。

「保育園落ちた、日本死ね」ブログを取り上げて名を挙げた山尾志桜里議員を、合弁直後の目玉人事として政調会長に抜擢したことはその明確な表れでしょう。

もちろん、今般の国政選挙には、消費増税の是非、アベノミクスの是非、安保法制の是非など多くの論点が存在します。改憲勢力が衆参で2/3を想定しうる水準まで勢力を拡大し、憲法改正が初めて現実の政治日程に乗りつつあるというのも大きい。与党側の動きを受けて民共が協力し、部分的に共闘が実現しているというのも政治力学としては重要な展開です。

しかし、少子化対策は、与野党双方が選挙の主戦場として自ら設定し、与野党双方が自分たちこそが「勝てる」論点であると思っていそうなところが面白い。そして、与野党がガチンコで対立する論点であると同時に、与野党の特徴をよく表す論でもあると思っています。

少子化対策をとりまく政治的構造


少子化という課題そのものは新しいものではありません。合計特殊出生率が2.0を超えていた最後は第二次ベビーブーマー世代の終盤である1974年です。当時こそ、少子化を問題と捉える向きは少なかったものの、既に40年以上にわたって人口を維持する水準の出生率を達成できていないのです。ところが、政治的課題として大きく注目を集めたのは、ごく最近の出来事と言っていいでしょう。そのあたりを理解するためには少子化をめぐる政治構造を理解する必要があります。

まず、長らく少子化対策は「女性の問題」であると認識されていたということです。少子化対策として重視される、子育て環境の整備も、多様な家族のあり方の肯定も、男女を問わない労働環境の改善も、政治的には傍流のテーマでした。政治の担い手が圧倒的に中高年男性である政界においては、何十年にもわたって女性に子供を産ませるための頓珍漢な議論が続けられてきました。

ようやく2005年に合計特殊出生率が1.26の最低を記録し、2007年に柳沢厚労相の「産む機械」発言が政治問題となったあたりから、政局に発展しうる重要問題と認識されるようになり、少子化担当相のポストも生まれました。

少子化対策が進展してこなかった最大の要因は、政治における女性の地位が低かったからですが、「女性の問題」を推進する勢力が分断されていたという点も重要でした。当初重視された権利の平等を保障する選挙権の付与や、財産権の平等を定めた民法の改正が達成された後には、問題意識の分断が進んでいきました。ある者は、(弱い立場の)女性を保護する政策を重視し、ある者は女性の社会進出を促す政策を重視しました。現実の政治において最も重要であったのが、専業主婦と働く女性の間の分断でした。

福祉国家化を実現しつつあった日本は、税制や年金において大きな存在感を示しつつあった専業主婦層を優遇する政策を導入します。専業主婦優遇策は、働く女性や共働き世帯からの所得移転によって成り立つ、国家が特定のライフスタイルを優遇する政策であり、女性が労働市場に参入するインセンティブに影響を与える政策でした。しかし、同時に、それは専業主婦世帯にとっては権利であり、政治的にも侵すべからざる既得権でした。

少子化対策という文脈においては、政策がターゲットとすべき対象が不明瞭にされてしまいました。女性活躍や、それを支える保育園の整備が言われるたびに、いまだに、「すべての女性が社会進出を望んでいるわけではない」、「専業主婦を前提とした政策を提示すべき」という、入り口論に政治的エネルギーを費消する結果となっているのです。少子化対策の柱となるべき、幼保一体化においても、離婚男性の養育費の徴収強化においても、多様な家族を肯定することにおいても、女性の間の価値観や利害の分断が大きかったのです。

結果として、その後も少子化対策は冬の時代が続きます。少子化担当相は創設以来の8年間で16人を数え、平均在任期間は6か月足らずです。しかも、お世辞にも大物が付くポストではない。初入閣の女性閣僚をにぎやかし程度に任命するか、複数の政策分野を束ねる閣僚が兼務するかという状況が続いて来ました。

何より、政策の中身がまったく進化してきませんでした。少子化対策は、先進国共通の課題ですから、欧米やアジアの先進国に豊富に先行事例が存在します。効果を上げるための政策パッケージはほぼ出揃っているにもかかわらず、いまだに、十年一日の議論が続いているのです。

そんな状況に風穴を開けたのは、意外にも歴代の自民党政権の中でも、もっとも保守的と見られていた安倍内閣においてでした。安倍政権は少子化対策を「女性の問題」ではなく、「経済の問題」、あるいは「国家の問題」として定義することで、その位置づけを変えたのです。女性こそが、縮小する生産年齢人口を補うための労働力供給のフロンティアであり、国力の最重要の基盤である人口を維持するための肝であると。少子化対策が、初めて保守が飲めるロジックで展開されたのです。

偏見に踏み込み不足の自民党


少子化対策が効果を発揮してこなかった本質には、偏見と利権があります。偏見とは、男性が社会で働き、女性は家庭を守ることで出産から子育てを一定に担うべきという価値観です。日本には思想信条の自由がありますから、個人がそのような価値観を持つことは咎められるべきではないけれど、国家が一定の価値観に基づいた政策を推進し、特定の集団の犠牲の下で他の集団よりも優遇する政策は正しくないということです。

出生率が継続的に2.0を下回るということは、超長期的には、この国は亡ぶということです。保守が飲めるロジックということを強調する所以は、保守層に対して「偏見のこって国亡ぶ」という状況を許容できるかという問いかけでもあるのです。偏見と闘うための政策は、偏見を体現する政策を一つ一つ乗り越えていくことであり、同時に、その根源に対処するための教育です。

以上の観点から、自民党の政策を評価すると、どうにも踏み込み不足と評価せざるを得ません。政権の目玉政策として発表された「一億総活躍プラン」は、お役所官僚主導の典型的な官僚作文集に仕上がってしまっています。

その中で、少子化対策と思しき部分には、保育士の待遇改善や、待機児童の数万人単位の受入拡大、特に待機児童が多い自治体との協力などが並んでいます。それぞれの政策は、やったらいいと思うものではあるけれど、政権の看板政策というにはさすがに迫力不足でしょう。少子化対策を阻害してきた偏見と戦うという意味では、腰が定まっていないのでしょう。

偏見と闘うという観点からは、「すべての子供に乳幼児教育の権利を保障する」くらいの宣言が必要でしょうし、政策がターゲットとすべき対象にワーキングマザーを置くということを明確にすべきです。その上で、「希望出生率1.8を実現する」と風呂敷を広げるならば、それぞれの政策が出生率に与える影響を予想し、現行の約1.4から1.8へとどのように積みあがっていくのかを示すべきでしょう。

政府が、政権の看板政策に掲げるというのであれば、与党内の保守層や、違う方向を向いている自治体をも巻き込むような強烈な政策推進の仕組みが必要というものです。

利権構造を温存する与野党


少子化対策のもう一つの障壁が利権です。もっともわかりやすい形の利権は、公的な保育園や幼稚園の関係者が有している既得権益です。日本の幼児教育政策の根本的な欠陥は、教育とケアとの双方の要素が必要であるとの根本を理解せずに、文科省と厚労省の省益に基づいた分断を許容してきたことです。

保育は「保育に欠ける」児童への福祉事業として国が社会主義的に供給体制を決定してきた結果、都市部では構造的に供給過小であり、何十年にもわたって待機児童が存在するという状況が続いています。それは、世界の半分を支配したソ連が、自国民が食べるパンを十分に生産できなかったのと同じ、計画経済というシステムの欠陥です。

過小供給の保育市場における認可の保育園は、公定価格でサービスを提供し、競争にもさらされず、消費者の厳しい目にもさらされません。あの手この手の理由をつけて供給の拡大を遅らせ、当然新規参入を嫌います。しかも、高コスト体質は改まらず、サービス水準も上がりません。既得権を反映して、公的な保育所の職員は、公務員として比較的恵まれた待遇で働きながら、まったく同じ仕事を担っている民間の保育士は生活するのがやっとという待遇にとどめ置かれているのです。

自治体側にも、供給を増やせば負担が増えるという構造があります。待機児童問題が存在しても、保育園増設を計画中であるとか、予想以上に子育て世代が増えたとか、悠長な言い訳をすればいいだけです。しかも、保育園に入所できるか否かは、お役人のさじ加減で決まってくるわけで、透明性は極めて低い。当然、落ちた人は「日本死ね」ということになってしまう状況があるわけです。逆説的に言えば、この社会主義的な保育サービスの供給体制を改めれば、待機児童問題の大半は早急に解消するのです。

具体的な流れはこうです。まずは、国が「すべての児童に幼児教育の権利」を保障します。その権利の対価として、すべての児童が保育サービスの購入に使えるバウチャーを配布し、親が自由に保育サービスを選べるようにする。

同時に、認可や認証の保育所への補助金は受け入れる児童数に基づいて配布されるので、保育所間で適切な競争が生まれます。あらゆる形態の自由参入を認めることは言うまでもありません。保育は、国民にとっても最も重要な幼児教育の場を担う場所として、行政は安全基準や品質基準を厳しくチェックすることになるのは当然です。

待機児童問題をめぐる政党間の対立を見ると、あたかも保育士の待遇改善が最大の障壁のようなことになっていますが、それは半分しか当たっていません。問題の本質は、保育士の待遇の官民格差であり、それを支える社会主義的な保育サービスの供給システムにあるのです。であるからして、自民党と民進党が保育士の待遇改善を2%増と5万円増で争っているのはいかにもピントがずれています。

自民党は、利権を温存しながら小出しに状況の改善を目指し、民進党は利権を温存しながら大バラマキを目指しているようです。面白いのが、おおさか維新の会の改憲草案で、教育の機会を保障した上で「幼児期の教育」について無償としている点です。いきなり、政策が憲法草案という形で出てくるあたり、唐突感は否めませんが、もっともラディカルな主張ではあるでしょう。共産党は、偏見の撤廃には踏み込む反面、民進党に輪をかけて利権の温存を重視しているというところでしょうか。

少子化対策を評価する視点


さて、最後にまとめておきましょう。少子化対策を評価する上では、まずもって、これまで何十年と続いてきたお題目を繰り返しているだけなのか、本気なのかを見極める必要があります。

政策を評価する際のポイントは、少子化対策の障壁となっていた偏見と利権に切り込んでいるかということです。まず、性役割分業の偏見を温存していないか、政策が想定するターゲット像が明確となっているかに着目すべきでしょう。その上で、政策実現の阻害要因となっている利権への切り込みがなされているかを確認することが重要ということです。

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(2016年5月23日「山猫日記」より転載)