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民進党代表選と蓮舫新代表

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政治の異常状態は続く


日本政治は異常な状態が続いています。2012年末に自民党が政権に復帰して以降、自民一強、安倍官邸一強が続き、日本政治から政権交代の緊張感が消えているのです。国民の多くにとっては、もはや、当たり前の感覚になりつつあるかもしれませんが、小選挙区制を基軸とする選挙制度を持つ民主国家において、まったく政権交代の緊張感がないというのは異常である、という認識を持つことが必要です。

安倍政権には、近年の政権にはなかったある種の老練さや安定感がありますが、この異常さの原因の大半は野党の体たらくに負っています。

その流れを反転させるきっかけが、野党第一党である民進党の代表選挙でした。蓮舫氏の代表選出により、少なくとも岡田民進党よりは、攻勢を強めるのではないかと思います。蓮舫氏のコミュニケーション能力や、「キリッ」とした主張には見るべきものがあると思います。複雑な背景や経緯のある問題を単純な図式へと流し込む能力は、乱暴な側面がある一方で、現代の民主国家のリーダーには必要な能力ですから。

与党が、経緯論に拘って官僚答弁を繰り返すような局面では、蓮舫氏のスタイルは特に効果的でしょう。野党政治家としては、恵まれた才能をお持ちだと思います。

ただ、これで日本の政治に政権交代の緊張感が戻ってくるかと言えば、私は、その可能性はほとんどないと思っています。正直申し上げて、民進党の代表選は大変に残念なものでした。

蓮舫氏の二重国籍問題については後述しますが、政治信条の根幹にかかわり得る問題について、「その場しのぎ」の説明で切り抜けようとしたのは大きなマイナスでした。民主党政権の失敗の大きな理由であった危機管理の未熟さを克服していないことを露呈したからです。

当初から、蓮舫氏有利が伝えられていたからかもしれませんが、前原氏の覇気のなさや、玉木氏のとりあえず出てみましたという姿勢から期待感が生まれることはないでしょう。野党第一党としてしっかりしてほしいのか、もはや、日本政治が異常さから抜け出すために期待をかけるべき存在ではないと割り切るべきなのか、その岐路にあります。

なぜ体系的な経済政策を語れないのか


民進党が、自民党の対抗勢力になりえないのは体系的な経済政策を語る能力を持たないからです。極めてシンプルなことです。大事なのは、一にも二にも経済です。

民主党時代の外交・安保がひどかったのは事実です。沖縄問題で手痛い失敗をして日米関係は信頼感をなくし、融和的な姿勢を取っていたはずなのに中韓との関係も良くなかった。ただ、外交・安保は、対外的な環境によってやれることがある程度決まってきますから、そんなに大怪我はしないはずなのです。最悪、官僚任せにしてもそれほど実害がありません。

経済政策は違います。人口構造が厳しい中で、国内の既得権と戦って生産性を高めなければいけません。グローバルな競争に耐えるだけの産業を創生しながら、民主主義の足腰を弱くする格差にも目配りが必要です。それを、未曾有の財政危機の中で、社会保障が持続可能性を失いつつある危機の中で行わなければいけないのです。

誰が担当しても茨の道ですが、であるからこそ、一定の信頼感を国民から得なければ政権の座は絶対に回って来ません。

3候補の中で体系的な経済政策の存在を感じさせる方はいらっしゃらない。あるのは、財政政策の中の一部分に過ぎない分配政策だけ。今回は、時代のはやりなのでしょう「人への投資」や「教育の無償化」ということに少々力が入っていただけでした。

これまで、何度も繰り返してきたことですが、金融政策と財政政策と構造政策のすべてにおける大まかなスタンスくらいは明確にしないと経済政策を語ったことにはならないのです。経済を「暮らし」と言い換えたり、成長に「安心」を対置したりする言葉遊びではダメなのです。

アベノミクスの第一の柱である金融政策が株高まではもたらしても、経済全体の好循環につながっていないという指摘は、今となっては一定程度フェアなものでしょう。じゃあ、どうしたいのか。金融緩和はやめて、引き締めを行うのか。黒田総裁の首をとって、どんな考えの候補を日銀総裁にしたいのか。

いま、金融を引き締めることで経済が冷え込むことにはどのように対処するのか。その程度のビジョンがないということは、あり得てよいものなのでしょうか。

財政政策に力が入っているのはわかります。公共事業を見直し、細かな租税特別措置法を見直して、財政を組み替えることにも納得感はあります。ムダの排除で何兆円もの財源を捻出するという案は、さすがに民主党時代の反省があって聞かれませんでした。代わりに各候補が口を揃えたのが、人への投資であり、教育の無償化でした。曰く、人への投資を増やせば経済は良くなると。

私は、教育に関わっている人間ですから、教育の重要性を過小評価するつもりはありませんが、さすがにそれは乱暴でしょう。人への投資が経済の活性化に結び付くまでには長い時間がかかります。しかも、人への投資はハコモノの投資と違ってとても難しいものです。さらに言えば、現在の日本の教育に対する理解が足りない。

幼児教育の大問題は、働く女性の増加を踏まえた供給不足であり、保育と教育の質を一体で高めていくことです。これは、単に保育士の給与を一律に底上げすることでは解決しません。最初に手を付けるべきは、看過しがたい官民格差を解消することです。

日本の高等教育も難題を抱えています。国際的なランキングは右肩下がりです。ソフトウェアやAIなど、21世紀のイノベーションの中心となるべき領域は圧倒的に人材が足りません。研究や教育の質を左右するポストもカネも中高齢の一部の研究者に偏り、学問の足腰は弱まっています。

それでも、改革に向けた動きは教授会とういう互助会統治によってほとんど阻まれてしまう。何かが壊れているとき、原因を追究せず、改善策を見出さず、とにかく予算だけ増やすという対処法がうまくいくことはあるのか。もう少し、まじめに取り組まれるべきです。

政権交代を支えたのは構造改革支持層


構造政策については、皆無と言っていいほどでした。各種の研究によって、2009年の民主党の政権交代を支えたのは、かつての小泉政権を支えた構造改革支持層であることははっきりしています。構造改革を進め、生産性の改善を進めることは中長期的に日本経済にとっての最重要課題であると同時に、党利党略としても合理的なのです。

民進党の議員や支持者の中に、成長そのものに懐疑的という方がいるのはわかりました。であるならば、ゼロ成長でも破綻しない社会保障政策を提案する義務があるでしょう。それはそれは、たいへん厳しい選択になることでしょう。

成長をあきらめないというならば、経済成長を促すものは何なのかについて自覚する必要があります。単純に言えば、それは労働や資本などのインプットを増やすか、生産性を高めるか、輸出などで国際的に市場を確保するかの3つしかありません。もちろん、そのどれもが必要です。

インプットを増やす政策は、労働の部分では女性と高齢者の労働参加を促すことです。資本の部分では、投資を促さないといけないということです。貯蓄から投資へと言われ続けて何十年も経っている個人による投資の分野でも、内部留保だけが積みあがっていく法人の投資の分野でも、カギとなるのはリターンを実現する機会が存在することです。

生産性を高めるための政策と共通しますが、社会の中でお金が回ることを実現するためには、市場に競争の規律が存在しないといけません。経営者は、業績を残すために行動し、結果に対して責任を負うということです。そういうことを申し上げると、すぐに株主至上主義であるとか、金融資本主義であるとかのレッテルが飛んでくるのですが、そんなたいそうな話ではありません。

単に、結果に対して責任を負う、責任を追及できるようにしておこうということに過ぎません。うまくいく事業にはもっとお金が集まり、ダメな事業からはお金が引いていくというサイクルを通じて、社会全体の生産性は高まるのです。

もちろん、「規律ある市場」以前の問題も存在します。単に、不要な規制、時代遅れの規制、一部の既得権者を利するためだけの規制が残存する場合です。そこでは、新規参入を促し、イノベーションを促すために既得権者と戦う規制改革が必要です。安倍政権は、かつて民主党政権時代に提案された規制改革案件のほとんどを棚ざらしにしています。どうして、そこを衝かないのでしょうか。

私が、ある種の憤りを覚えるのは、この程度のことさえ提案できないのはただの怠慢だからです。そこそこの能力を持つコンサルタントや、元官僚のチームを組成すれば簡単に立案できることです。

それでは、有権者には理解されないか、受けないと思っているとすれば、勉強不足を通り過ぎて、日本の民主主義をナメていると言わざるを得ません。民進党は、過去の反省を迫られている部分もあるけれど、本当のところは、現在の能力を疑われているのです。

「異端」な才能とガラスの天井


最後に、新代表に就任された蓮舫氏について少し触れたいと思います。前述のとおり、彼女のコミュニケーション能力には見るべきものがあると思っています。その上で、思うことは、日本社会に存在するリーダーシップの型についてです。

日本の政界や芸能界には、「外人」や「ハーフ」(=「ダブル」)であるからこそ、あけすけにものを言う空間が存在します。日本には、そのような「異端」の存在を安全圏内で刺激に使ってきた伝統があります。ズバズバものをいう蓮舫氏はその系譜として、民進党の支持率をはるかに上回る支持率を獲得してきました。

しかし、異端の存在は、そのままではメインストリームにおいてリーダーにはなれません。日本社会のメインストリームは、閉鎖的な村社会であるように見えて、独自の論理と倫理に基づく厳しい競争が存在します。競争を勝ち抜く原理は集団の文化や環境によって異なるものの、そこには、ある種の人格を軸とした淘汰のプロセスがあります。さすがに、何かを成し遂げないと上にはいけないようになっていますし、一定程度の「雑巾がけ」も必要なわけです。

異端の存在は、この競争のプロセスの外にいます。蓮舫氏を見ていると、その種の競争から自由であったことで、個性が摩耗していないと感じる面もありますが、それよりも強く感じることは、ある種の危うさです。彼女の周りには、その人気にあやかろうという者以外に、危機にある彼女を支える存在がいるのだろうかと。リーダーの最も単純な定義である、フォロワーはいるのだろうかと。彼女は、今まで何を成し遂げてきたのかと。

女性の社会進出という観点から、蓮舫氏の党代表選出には象徴的な意味があると思います。しかし、同時に思うのは、ガラスの天井を壊す者がどんな方であるかも重要であるということです。蓮舫氏が体現する価値観が、女性が成功するための要素として抽出されることが果たして望ましいのかということです。きれいで、てきぱきとものを仰ることは政治家としてプラスでしょうが、次代を担う若い女性に与えるアドバイスとして、それが適切なものなのかどうか。

二重国籍問題で感じたことは、「その場しのぎ」の危うさであると申し上げました。蓮舫氏の一連の発言によって、いわゆる「ダブル」の方の社会への包摂も、日本社会の多様性の増進も全く図られませんでした。今後の展開によっては、悪化する可能性すら感じられます。

本件は、「二重国籍を放っておいて認識不足でした」ということでも、「二重国籍で何が悪い」ということでも良かったと思います。少なくとも、そのどちらにも真実味があります。

仮に前者の立場をとるのだとすれば、主流派として中道の支持を勝ち取るにはプラスでしょうし、今回の蓮舫氏の受けた批判が行き過ぎればいじめであると非難することさえできます。その場合、女性誌や朝日新聞などに表れた過去の自らが二重国籍であるとする発言は、正直なその時の認識や思いであり、国会議員なのに二重国籍なのはまずかったと国籍法への認識が足りなかったことを詫びることになるでしょう。

この素直な詫びをしなかった理由はおそらく、党や支援者を失望させないためであり、途中で違法性はまずいかもしれないと薄々気づいたときに、単なる手違いであると無謬性を貫く判断をしたからだろうと私は推測します。

後者の立場を取るのであれば、ダブルの由来をもたない想像力の欠けた日本人が、より多様性のある背景を持つ人への思いやりが足りず、親の22歳時点での単一国籍選択によってその子供が祖父(母)の国籍を選ぶ機会を奪ってよいのかと正面から訴えるべきだったでしょう。国会議員は仮にだめでも地方議員は良いのではないかなどと、蓮舫氏自身の考えを打ち出すこともできただろうと思います。

いずれにせよ、それは多様な背景を愛することであって、法律至上主義が時に個人レベルで具体的な不正義を生む場合があることに光を当てる結果になったでしょう。だからこそ、日本の国内法上違法でないと強弁するために、中華人民共和国の国籍法適用を持ち出したときには、さすがに私も力が抜けました。切り抜けられれば、何でもいいのかと。

個人に着目すると、自民党のリーダーと野党のリーダーの一番の違いは、統治者としての自覚です。統治者としての自覚について、蓮舫氏の場合、「わたしの自由」というところに問題意識がとどまっているように見えます。政治的な動機が、より普遍的に国民のため社会のためへと昇華される過程でこそ、統治者としての自覚は培われます。

今回の一件は、好意的に解釈すれば生みの苦しみとも言えるかもしれません。しかし、国民の寛容さは長くは続かないでしょう。現在の民進党は、体系的な経済政策を語れない、スタイルとレトリックだけの党になってしまいました。その意味では、党の顔としてふさわしい代表を選出したということになるのではないでしょうか。

(2016年9月14日「山猫日記」より転載)