「障害児は授業の妨げになるから特殊学級に行け」の是非

「障害のある人も参加させてあげよう」ではなく、「障害のある人は本来そもそもそこにいて当たり前」の前提がもっと広がっていってくれたらなと思います。

タイトルの言葉は、オーストラリアの連邦上院議員の議会での発言です。

「障害児は教師、学校のお荷物になり、教師が障害児に時間を取られるため、他の子供の授業が進まない。そういう子供にも教育を受ける権利はある。だから、特殊学級に入れて特別な世話をすべきだ」と発言した

と記事にあります。

衝撃的な発言で、もちろん障害者団体等から抗議の声があがっているんですが、私はふと考えたんです。

「こういう本音を言い出せないまま我慢している子供や親や先生が実際にいるんじゃないかな?」と。

では、教室とは誰の為の場所なのでしょうか?

「障害のある子も特別に同じ教室で過ごせるようにしてあげようよ」という考え方。

「障害のある子たちは、そもそも本来そこにいるべき子」という風に捉える考え方。

後者の視点がまず大切なんじゃないかなって私は思うんですよね。

そして

  • 障害のない子が邪魔されることなく学ぶ権利は、障害のある子が同じ教室で学ぶ権利を奪っていいのか?優先されていいのか?
  • 他の子供の授業が進まないほど手がかかる障害のある子の「同じ場所で学ぶ権利」を優先する為に、他の子の学びを妨げてもいいのか?

の問いには、私はどちらもNOだと思うんですよね。

一番大切なのは「子供ひとりひとりのニーズや能力に適した環境」で学ぶ事が保障され、そこに参加する為に必要な支援を受けられる事だ思うんですよね。

例えば、「数字の概念を理解していない子が掛け算の授業中に別教材で勉強しているがゆえに、担任の先生がその子に付きっ切りで他の子が放置されている」場合、その子のニーズや能力に適した環境とは言えないですよね。

このケースの場合、他の子に迷惑をかけない為に支援学級で学ぶのではなく、その子に「個別」の支援が必要だからこそ支援級で学ぶのが大切なんですよね。

また、「集団生活における社会性を身に着ける」ことが課題の生徒が、障害があるからという理由だけで特別支援級で個別支援を受けていても何も学べない。

こういうケースは、支援員さんのサポートや担任の先生からの意識的なちょっとした声掛け等の工夫でその子に必要な環境で学びを得る事ができますよね。そして、こういう取り組みの延長で、障害がない子供でも一斉授業では理解できないケースでその子にわかるようなサポートを得られやすくなりますよね。

その子に必要な支援を、子供に障害があろうがなかろうが一緒に考えようとしたり、障害のある子にもない子にも「必要な支援が、その子に必要な時、必要なだけ行き届く環境」を提供するのは大人の責任だと思うんですよね。

障害のない子供に我慢を強いている環境があるのなら、それは障害のある子の責任ではなく、大人の責任だと私は思います。

学校・教室というのは社会の縮図です。

ここ数日、バニラ・エアの件で障害のある人のアクセシビリティ等の議論が起こっていますよね。

そこにも先程述べたように「障害のある人も参加させてあげよう」ではなく「障害のある人は本来そもそもそこにいて当たり前」の前提がもっと広がっていってくれたらなと思います。

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