私が「不登校」相談ボランティアをする理由

卒業論文のテーマを探している際に、たまたま「フリースクール」という存在を知った。

不登校の子どもに勉強を教えるボランティアを始めてから1年経つ。

4月からは就職するため、3月末でそのボランティアを辞めることになった。

「来月から寂しくなりますね」

担当していた子どもから、そんなことを言われると、寂しさやら愛しさやらで胸が苦しくなった。

私は、少しでもこの子を明るい方向へ導けただろうか。

我ながらおこがましいと思うけれど、そんなことを考えてしまう。

原点に立ち返りたかったからボランティアを始めた

私がボランティアに携わり始めたきっかけは、卒業論文の制作を機に、自分自身の原点に立ち返ろうと思ったことだった。

自分の原点を探るべく過去を振り返ると、真っ先に思い当たるのは小学生時代の記憶。

その頃の私は学校が嫌いで、家の外で素の自分を出すことが全くできなかった。

毎日の生活の中で楽しいことはほとんどなく、外で嫌な出来事に遭わないことだけを祈って過ごすような日々だった。

ところが、 母親のすすめで小さな学習塾に通い始めるようになり、暗かった幼少期に転機が訪れた。

友達のようにふざけ合いじゃれあってくれる先生。少人数で友達が作りやすい環境。その塾の自由で温かい雰囲気が、少しずつありのままの自分を引き出してくれた。

家の外で唯一、安心して自分らしくいられる居場所を、私はようやく手に入れたのだった。

大学時代、卒業論文のテーマを探している際に、たまたま「フリースクール」という存在を知った。

知れば知るほど、「フリースクール」は私を変えてくれたあの塾に似ている。

懐かしい気持ちを胸に、気がつけば私はそれを卒業論文のテーマに据えていた。

論文執筆のためにフリースクールを取材していると、職員の方から、「よかったらうちを手伝ってくれないか」と不登校の子どもに勉強を教えるボランティアの誘いを受けた。

教える仕事をしたことはないし、子どもも正直あまり得意ではなかったため、最初は迷った。

それに、閉ざしていた自分自身の過去とあまり向き合いたくない自分もいた。

それでも私が話を引き受けたのは、かつて自分を変えてくれた塾に対しての愛情があったからだったと思う。

ボランティアを通して、大好きだったあの場所と、あの頃の自分自身にもう一度向き合ってみることにした。

ボランティアを通してやりたかったこと

ボランティアの内容は、担当を割り当てられた不登校の子どもと用意された場所で定期的に面会し、1回につき1時間程度、一緒に勉強したり、お話したりするものだった。

出会った子どもたちは、性格も背景も全く違うようだった。

しかし、皆、私に対してすごく気を遣ってくれる、あまり自己主張をしない優しい子どもたちで、そんなところが昔の自分にも重なるような気がした。

どのようにこの子たちに接していけばいいか。ボランティアを始める前はあれこれ悩んでいたけれど、子どもと出会ってすぐ、私は自分の在りたい像が見えてきた。

私の好きだったあの塾を再現したい。勉強を教えながらも、少しでも安心していられる場所にしたい。そう思った。

月に数時間の勉強で学校の授業の代わりになるはずもないし、互いに深く語り合ったりしたわけでもない。勉強以外の大切なことを教えられた自信もない。

それでも、勉強の最中に笑顔を見られたこと、少しでも自分について話してくれたこと、勉強に対してさらなる意欲を見せてくれたこと、そんな些細なことが私にとってはとても嬉しかった。

私の受けたそれには到底及ばないけれど、ほんのわずかでも自分が受けた恩をこの子たちに返せているんじゃないかと思えた。

恩返しの連鎖

「ありのままの自分を肯定されない状態のままで、自ら頑張って勉強したり、規律を守ったりなんてできっこない」

先日出会ったスクールカウンセラーの方がそのようなことを言っていた。

「そのままのあなたでいい」と他人から受け入れられた経験があってこそ、人は積極的に行動できるし、高みに挑戦することができる。

それは私の実体験からも感じられることだ。

「本当の自分は誰にも受け入れてもらえないだろう」そう感じていた自分をまるごと受け入れてくれる場所に出会ったからこそ、私自身も自分を認めてあげることができたのだ。

では、学校が人の自己肯定感を育む場としてふさわしい環境であるか、あくまでも自分の経験上ではあるが、私は必ずしもイエスとは言えないと思っている。

だが、そのような場所は学校で見つけなければならないわけでもない。

それは、塾でもいいし、フリースクールでもいいし、どこか全く別の場所でもいい。

今いる場所から逃げたっていいし、立ち向かったっていいし、自分以外の誰かや、どこかの組織に助けを求めたっていい。

ただ一度、どこかひとつでいいから、ありのままの自分が認められる場所ができれば、その場所を出て挑戦する勇気が自然と湧いてくると、私は思う。

そんな場所が、いま生きづらさを抱えている子どもたちにも、きっと見つかる。そう信じたい。

他人から認められた恩は、他人を認める動機になるし、誰かに救われた恩は、また新しい恩を生む可能性につながる。

今回私がボランティアを始めたきっかけのように、そうして恩返しの連鎖は続いていく。

そんなひとつひとつの恩返しの連鎖が、きっと少しずつ問題を小さくしていってくれるのではないだろうか。

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