今なぜ「大人のぬりえ」なのか。ドリアン助川さんとじっくり考えてみた。

「見る」だけでなく、「描く」、「ぬる」ことによって、物の見方というか、尺度や距離に変化が生じますね。

今なぜ「ぬりえ」なのか――。

「大人のぬりえ」が、日本国内のみならず、世界的な現象となっています。10年前から、その可能性に着目し、「ぬりえ」としてイギリス、台湾で出版してきましたが、今回、日本版の『心を揺さぶる曼陀羅ぬりえ』(猿江商會)の出版に際し、本書に「友情出演」としてテキストを添えてくださった作家・ドリアン助川さんと「ぬりえ」について語りあいました。

■「ぬる」ことではじまる作者との共同作業

ドリアン:そもそもマリオくんはどうしてこの「マリオ曼陀羅」というモチーフをぬりえにしようと思ったの?

マリオ:「物の見方というのは、目が動くことや、手を動かすことによって変わる」という提案をしたかったんですよ。自分の絵を使って、見る人の意識を刺激したかったというか。実験ですね。

ドリアン:俺自身は、画家としてのマリオくんの追体験できるっていうことが、とても新鮮でした。絵を漠然と見ているのと、自分で一本いっぽんの線を辿っていくのとでは、見えてくるものが変わるんですね。

感性一発で描いているように見えて、じつは大変に緻密な計算が随所にある。線に破綻がほとんどない。それが意識のうえで為されているのかどうかは分からない。これだけの入り組んだ線を描きながら、現実に3Dプリンターにかけたら、ほぼ再現できるんじゃないかなというくらい線に嘘がない。こういうことは、この線の一本いっぽんを追いかけていかないと絶対に分からない。参加することで初めて、主体的に画家の意識と交換しあうというすごい体験ができる。

マリオ:「見る」だけでなく、「描く」、「ぬる」ことによって、物の見方というか、尺度や距離に変化が生じますね。

ドリアン:それは、本を読むことにも似ていると思うよ。「読む」という行為はただ字を追いかけるだけじゃなく、頭のなかにいろいろと「イメージしてゆく」ことだから。読者も著者とともに創造者であり、さらには読者こそがクリエイターであるっていう言い方もできるわけですよ。この絵も、「ぬりえ」という形になっているからこそ、絵そのものを「見る」こともできるし、同時に「ぬる」こともできる。つまり、画家といっしょの作業がはじめられるわけです。

■自分だけの「目に見えないもの」を探す

ドリアンさんが実際にぬった「ぬりえ」

ドリアン:その共同作業のはじまりに、まず色をどう選択するかという問題が出てきます。じつは大人になると、絵を描いてみたいという気持ちがあっても、実際にはなかなかそんな機会はない。そんななかで、絵をぬるための色を選択するっていうのは、それだけでもう、とても面白い。「忘れていたなにか」を復活させられて、脳も活性化される。

マリオ:そういう部分はあるかもしれませんね(笑)。

ドリアン:あとはどこからぬるかということ。寿司を食べるときにどのネタから食べようかなという感じ。俺は真ん中からぬりたかったんだよね。

マリオ:性格があらわれそうですね。僕のは、なんの絵だか分からない絵ですから、どこからぬるかというのも謎かけみたいなものかもしれません。

ドリアン:うん。それで、この絵におけるセンターはどこなんだと眺めているうちに、不思議とだんだんセンターが見えてくる。そして、ようやくそこから作家の画いた絵に命を与えていくという共同作業がはじまることになる。僕の場合は青系統の色が好きだから、真ん中はまず青がいいと。

マリオ:絵に新たな命が吹き込まれる瞬間ですね!

ドリアン:ぬっていくと面白いのは「クラインの壺」みたいにさ、表に出てきてる部分と裏に隠れている部分があることに気付くんだよね。

絵をただ漠然と見ているときは、現実と、現実じゃないところを出たり入ったりする線があるということに気付かなかった。世の中って目に見えるものだけで動いているように見えるわけだけど、ほんとうに大切なのは『星の王子さま』じゃないけど「目に見えないもの」なんだよね。「ぬりえ」っていうのは目に見えるものにしていくという作業なんだけど、目に見えないものからの圧倒的な刺激を受けつつやっていく。この虚と実が出たり入ったりしている絵というのが、ロマンチックで非常にいいね。

マリオ:パズルですね。一見わけがわからない絵ですけど、実は辻褄が合うように描いています。辻褄は合っているんだけど不条理というようなことってあるじゃないですか。世の不条理だけでなく、個のなかにも条理・不条理というものがありますよね。ある仮定を設けて、そこに向けてのなんらかの具体的な作業をしてゆくなかで、自分のなかの条理・不条理というものに初めて気付くものだと僕は思うんですよ。

ドリアン:あらゆるものの本質って揺れててさ、受け手の環境や、受け取るタイミングによって、何もかもが違ってくる。だから、ぬりえも100人の人がぬったら100通りのパターンが出てくる。当たり前といえば当たり前なんだけど、そういう意味では新たな絵画の可能性として、何かものすごいことがはじまったんじゃないかという気がするのよ。

■蔓延する「一元化」と「ぬりえ」の持つ多様性

マリオ:ぬりえがブームになっていますが、そのような状況があって自分の絵が新たに受け入れられたというのは感慨深いです。

ドリアン:そういう時代になったんじゃないのかな。作り手と受け手との共同作業。それは絵画に限らず、文字に綴ったり歌をうたったりする人間にとっても、まったく同じ。こういう例えがいいのかは分からないけど、通り一遍の言葉しか出てこない政治とか、通り一遍の解釈で力に頼ってしまう精神、そういうものと対局をなすものだという気がする。

マリオ:そういう物事に対する反発は、僕自身もともと強く持っているかもしれません。一元化されていくことに対する違和感や抵抗感といいますか。

ドリアン:本当の暴力だからね、それは。

マリオ:紋切り型なんていう言葉も一部で流行っていますよね。そんな物事に対抗するとなると......。

ドリアン:それはきっと「森林」と「平和」ということなんですよ。いろんな草木があり、誰が伐採するわけでもない。適度なバランスのなかで、みんなが背を伸ばしている。だけど「一致団結」とか「絆」とか「○○ジャパン」とか言いはじめると、そこに暴力が働きはじめるわけです。そういうものに頼ってしまうというのも、人間のひとつではあるんだけど。

マリオ:そう考えると、100人いれば100通りのぬり方がある「ぬりえ」というのは、「森林」的なものだとも言えそうですね。

■「自分自身」に没頭するという素敵な体験

東京・代官山のライブハウス「晴れたら空に豆まいて」でのライブペインティング

ドリアン:実際にぬってみて感動したのが、自分がまだ集中力を持っていたという発見。

今、20年前にはありえなかったような変化が起きているよね。昔はワープロを目の前にすれば、文字や文章を書く機能しかなかった。それが今はメールも送れるし、SNSだってできる。世界中の動画だって見られちゃう......。つまり非常に気が散りやすいんですよ。

マリオ:身の回り数十センチの世界であれもこれもできてしまうことで、気持ちがざわつき、もやもやして苦しいことになる。

ドリアン:だからこそ、「ぬる」という作業に没頭できることがとても貴重なわけ。ところがこのぬりえをやっていると2時間、3時間があっという間に過ぎていってしまう。何かに没頭した後のほうが、夜飲む酒も美味いだろうし(笑)。

マリオ:僕には、絵を通じてそういう時間を提供してみたいという思いもあるんです。なんなら「いっしょに描いてみて欲しい」と。

ドリアン:自分でやってみて思ったことは、このぬりえは俺じゃなきゃできなかった1枚であるということ。それはあなたが作ってくれたことの上にやっているわけなんだけど、でもこれは、俺じゃなきゃできなかった。そういう体験が、1日、1週間に一回でもあるっていうのは貴重なことだよ。

目に見えない「何か」に追われて、過ぎ去っていってしまう時間のほうが圧倒的に多い日々のなかで、例えば「ぬりえ」というのは、生きたというひとつの時の記録になるんですよ。そのときの記録を自分なりの鮮やかな色彩で残せるというのはとても魅力的なことで、それに気づいている人が増えているのかもしれないね。それはとても素敵なことですよ。

素敵なことやってる人って、その人がまず素敵なんですよ。素敵じゃないことやってる素敵な人っていないの。素敵なことをしている人が素敵な人であり、また素敵なことをすることによって、確実に素敵になるんだよね。

大人のぬりえ

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