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小川誠司氏に見る「大学教授のあり方」

教授に求められる仕事とは。

2017年09月25日 20時36分 JST | 更新 2017年09月26日 11時19分 JST
小川誠司

9月7日、小川誠司・京都大学教授(腫瘍生物学)にお招きいただき、小川研でミニ・レクチャーを行った。その後、京大医学部のキャンパス内で小川研のスタッフや学生たちと一緒にバーベキューを楽しんだ。終了後は小川研に戻り、酒を酌み交わした。

愉快な時間はあっという間に過ぎる。京都駅前のホテルにチェックインしたのは午前1時半。レクチャーは夕方の5時に始まったから、実に8時間も話し、飲んでいたことになる。

小川研は、日本の医学部の中で、もっとも実績を挙げている研究室だ。13年4月に京大に移籍以降、最終著者として、『ネイチャー』1報、『サイエンス』2報、『ニューイングランド医学誌』1報を発表した。

小川教授は岡山朝日高校から東大。88年に卒業後は第三内科に入局した。私の5年先輩にあたる。

私と小川教授の出会いは、96年、私が東大病院第3内科に在籍したときだ。当時、小川教授は新任の助手、私は研修医を指導する「中ベン」という役割だった。97年に研究室に配属されたときには、小川助手の下についた。研究テーマは、6番染色体長腕に存在するがん抑制遺伝子のクローニング。私は「兵隊」として、毎日、FISH検査やシークエンスを行った。

結局、目的とした遺伝子はクリーニング出来なかったが、私は、このときに学んだ技術を使って、深在性真菌症の遺伝子診断を確立し、学位論文を書いた。この技術は大塚アッセイから商品化された。

優等生タイプが多い東大第3内科の中で、小川先生は異色のキャラだった。先代の髙久史麿教授が期待していたのはわかったが、当時、彼が、ここまで活躍すると思った人はいなかっただろう。

現在の彼の活躍は、コネや縁故に頼ったものではない。自分で築き上げたものだ。彼の成功の原因とは何だろう?

この点を論ずる前に、その後の小川教授と私の交流をご紹介したい。

私は、99年3月に東大大学院を卒業すると虎の門病院に異動した。その後、第3内科との交流はなくなった。

数年して、風の噂で聞く話は、「小川先生は病院執行部と合わずに、苦労している」というものだった。彼の京大移籍は「「東大を追われるような形ででていった(第三内科OB)」と言われている。

小川先生と再会したのは、2010年ころだ。私は2005年に東大医科研で研究室を立ち上げた。御指導いただいたのは宮野悟・東大医科研ヒトゲノム研究センター長だ。宮野教授から「小川先生って、すごい雰囲気だね。どんな人?」と聞かれた。

宮野教授は情報工学者で、ゲノム研究の第一人者だ。当時、中村祐輔教授と協同で、世界のゲノム研究をリードしていた。小川教授は、縁もゆかりもない、雲の上の存在である宮野教授に共同研究を持ちかけたのだ。東大生は、このような「飛び込み営業」は苦手だ。宮野教授との連携が、小川教授の運命を変えた。

宮野教授は多くの臨床家と共同研究をしている。なぜ、小川研とのコラボは大成功したのだろう。

それは小川教授に「営業力」があったからだ。彼は各地で「営業」し、独自のネットワークを作り上げた。そして、多くのサンプルを入手し、宮野研とともに解析した。

多くの教授は、この「営業」が出来ない。「営業」できない人は、「学会」という徒党を組んで、組織的にやろうとする。ところが、多くの場合、このような組織は機能しない。だから、仕事がでない。

大学教授のあり方を考える上で、小川教授の存在は示唆に富む。

私は大学の医局は、プロ野球チームに似ていると思う。実際に診療や研究を行う若手から中堅医師は「選手」だ。自分の実績で評価される。中堅以降は、後輩医師を指導する。これは「コーチ」だ。指導力が評価される。「選手」と「コーチ」に求められる能力はオーバーラップする部分が多い。立場こそ違えど、実際に診療し、論文を書くという点では同じだ。

ところが、教授に求められる仕事は違う。プロ野球でいえば「監督」と「フロント」を足したような存在だ。「監督」として大方針を決定する。社会の変化に対応し、学際的な研究を進めるには、幅広い教養がいる。同時に「フロント」として、スカウトは営業の仕事もやらねばならない。

小川教授は、この能力が高かった。だから、宮野教授と関係を構築し、他施設からのサンプルを集めることも出来た。こうして、「選手」や「コーチ」に仕事をとってくることが出来た。優秀な「選手」や「コーチ」は、小川教授のとってきた仕事を必死でこなしていった。この結果、大きな実績を挙げることができた。見事なチームワークだ。

小川教授の背中をみて、次世代のリーダーが育つことを願っている。

*本稿は「医療タイムス」の連載に加筆したものです。