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なぜ今、カール・マルクスの『資本論』に立ち返る必要があるのか?

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私は、11月9日に鎌倉孝夫氏(埼玉大学名誉教授)と共著で、『はじめてのマルクス』(金曜日)を上梓した。マルクスの『資本論』の方法に基づいた社会分析は、われわれが置かれている社会的位置を客観的に認識するために重要だ。しかし、現在、このような視座から作られた経済学の入門書が少ない。それならば自分で作ってみようと思って、この本ができた。鎌倉孝夫先生(埼玉大学名誉教授)は、私が高校生時代に『資本論』の読み解きを手引きしてくれた恩師である。35年振りに鎌倉氏と『資本論』について語りあうことができ、感無量だった。

さて、人間は、食べなくては生きていくことができない。生きていくためには、誰もが何らかの経済活動に従事しなくてはならない。しかし、「経済とは何か」と聞かれると、ひと言で説明するのは難しい。本書は、マルクスの『資本論』を分析の基礎に据えた、現代経済に関する入門書である。

「マルクスなんて時代遅れじゃないか。それにソ連や東欧の社会主義体制が崩壊したので、マルクス経済学が間違えていたことは、歴史的に証明されている。確かに中国は一応社会主義を掲げている。しかし、政治は共産党の一党体制だけれども、経済は資本主義だ。マルクス経済学なんか勉強する価値がない」

こんなふうに思っている人に、是非、読んで欲しいと思ってこの本を作った。

私はマルクス主義者ではない。思想ということならば、キリスト教(プロテスタンティズム)が私の物事を考える基本になっている。政治的には、私は保守陣営に属するという自己意識を持っている。しかし、私は、マルクスが『資本論』で展開した資本主義分析は基本的に正しいと一貫して考えている。それは、マルクスが資本主義の根本的な矛盾が、労働力の商品化にあることを解明したからだ。その具体的な内容と論理については、この対談でわかりやすく説明しているので、是非読んで欲しい。労働力の商品化ということの意味がわかると、世の中がまったく異なって見えてくる。そして、経済現象に関して、ほんとうに重要な事柄と、そうでない幻影との区別ができるようになる。現代の主流派経済学に慣れている読者には、難病を治療するにあたってのセカンド・オピニオンとしての意味を『資本論』は持つ。

私は本書の目的についてこう記した。

例えば、「株価が上がったのでアベノミクスは成果があった」とか「いずれ株価が暴落してアベノミクスの失敗が可視化される」というような議論をあちこちで耳にする。日本経済がうまくいってるか、いないかを判断する基準として、誰もが株価を気にする。しかし、株価を基準に経済を考えるという発想自体が、既に特殊なイデオロギーを自明の前提としていることに気づいている人があまりにも少ない。すこし乱暴な言い方をすれば株価至上主義という宗教にわれわれはマインドコントロール(洗脳)されているのである。しかし、マインドコントロールされている集団の中にいると、その現実に気づくのは至難のわざだ。企業に勤務する社会人で、自己責任論や成果至上主義で疲れ切っている人が加速度的に増えている。リストラの不安にさらされている人もたくさんいる。国家公務員、地方公務員でも、自らの仕事にやりがいを見いだせないという悩みを抱えている人は多い。将来が不安になり一年生のときから就職活動で走り回り、腰を落ち着けて勉強をすることができず、何のために苦労して受験勉強をして大学に入ったのかわからなくなったと嘆く学生もめずらしくない。もし、あなたが、そのような悩みを抱えているならば、是非、この本を読んでほしい。なぜ日本の社会がこういう状態になっているかを、この対談でわかりやすく解き明かしているからだ。(3〜4頁)

世界と日本の現実を知るために『資本論』の重要性は、一層、高まっている。それは、1991年12月にソ連が崩壊したことと関係している。ソ連崩壊まで、日本を含む西側資本主義国では、「社会主義革命をいかに阻止するか」ということが、国家指導部にとっての最重要課題だった。それだから、国家が経済に介入して、雇用政策や社会保障政策を通じて、労働者を保護した。資本家も、労働者からの搾取と収奪を強めて社会主義革命を惹起するよりは、利潤を少し減らすことにはなるが、体制としての資本主義を維持することを優先すべきと考えた。その結果、資本主義の下でも福祉政策が可能になった。いわゆる国家独占資本主義である。

しかし、社会主義体制が崩壊して、資本主義諸国にとって、革命の現実的な脅威はなくなった。その結果、資本の活動に歯止めがかからなくなった。これを「資本の暴走」と批判しても、あまり意味がない。なぜならば、資本とは、本質において暴走するものだからである。

ところで、資本とはいったい何なのだろうか。このことを知るためにもマルクス経済学の知識が必要になる。資本とは、カネや株で現れることもあれば、機械、原材料、そして労働力という形で現れることもある。いろいろ形を変えて(マルクスはこのことを「メタモルフェーゼ」、日本語では通常、「変態」と訳されている)現れる運動なのである。

『資本論』の急所にあたる部分を本書では、痒いところに手が届く形で説明している。繰り返すが、この本を読む前と読んだ後では、世界が異なって見えてくる。

さて、マルクスは、カリスマ性を持った大思想家で天才である。こういう天才の著作を読み解いていると「贔屓の引き倒し」のようなことがよく起きる。「論語読みの論語知らず」と同様に「資本論読みの資本論知らず」という現象が起きてしまう。マルクス主義経済学というのが、まさに「贔屓の引き倒し」型の『資本論』の読み方である。マルクス主義経済学者は、革命を起こすというマルクス主義イデオロギーに基づいて、『資本論』を革命の手引き書として読んでいく。そうすると、資本主義が発展するにつれて、貧富の差が拡大して、絶対的な窮乏化が起き、それに反発して、労働者が決起して革命が起きるという希望的観測に基づいて『資本論』を解釈することになる。そうなると、恐慌によって、資本主義は終焉するというような、無理な『資本論』解釈が生まれてくる。マルクス主義経済学者は、現実から遊離した希望的観測に基づくイデオロギーに基づいて、現状を分析するので、それは実態から乖離し、役に立たない内容になる。残念ながら、『マルクス経済学』であるとか『「資本論」入門』とかいうタイトルのついた本の大多数が、このようなマルクス主義経済学の立場から書かれたものだ。

これに対して、別の『資本論』の読み解き方がある。資本主義の内在的論理を明らかにした体系知(ドイツ語のWissenschaft、科学という訳語を充てることが多い)として『資本論』を読み解く方法だ。この人たちは、社会主義イデオロギーが過剰なマルクス主義経済学者と差異化するために、マルクス経済学者と自称する。宇野弘蔵(1897〜1977)がこの方法で『資本論』を読み解いた元祖だ。宇野派は、論理整合性の観点から『資本論』におけるマルクスの記述に問題があると考えれば、それを修正することを躊躇しない。『資本論』のテキストに神秘的な意味を付与し、無理な解釈をするマルクス主義経済学者とは、本質的に異なった思考様式で『資本論』を読み解く。鎌倉孝夫氏は宇野弘蔵の高弟だ。

さて、本書は、読みやすい対談という形態をとっているが、鎌倉氏は、理論的にかなり高度で、論争的な問題も取り上げている。特に重要なのは、アベノミクスを含む現代資本主義を分析する鍵となる擬制資本に関する考察だ(本書25〜29頁)。言い換えると、擬制資本が成立することによって、資本自体の商品化が実現するのである。これは青年時代から鎌倉氏の一貫した主張である。

株式資本(一定の価格をもった土地とともに)は、擬制資本としての商品形態をもつ。それは売買されうる対象になる。しかし資本主義の原理的関係の中ではこの売買は一般的には現実化されない。このことは、資本自体の商品化は、擬制資本によってはじめて行われるということ、そして擬制資本は決して現実資本から独立して自立的に存立しうるものではない、ということを意味している。すなわち、擬制的関係としてしか成立しえないということは、現実的関係の中では現実化しえない、ということである。「完全な物的関係による自己増殖は、資本の理念的な到達目標でありながら、剰余労働の搾取に基づく資本にとってはこの目標には絶対に到達できないということであり、それは物的関係による人間的根拠への支配の限界を暴露するもの、といってよい。擬制資本の商品化が現実化しえないということは、まさに労働力を完全に『物』として自由に操作することは不可能であるということに対応する。」(鎌倉孝夫『経済学方法論序説』弘文堂、1974年、265ページ)

(鎌倉孝夫『資本主義の経済理論――法則と発展の原理論』有斐閣、1996年、334頁)

擬制資本論に鎌倉経済学の特徴がある。宇野経済学は、純粋な資本主義社会を想定して資本の運動を解明する「原理論」、資本主義の歴史的発展段階の特徴を抽出し、類型的な個性記述を行う「段階論」、「原理論」、「段階論」を踏まえて、いまここにある社会を分析する「現状分析」の三段階論の方法で、重層的に資本主義社会を分析する。

労働力を商品化して、完全に「物」のように支配することが、本来的に不可能なものであるにもかかわらず、資本は労働力を「物」のように使おうとするのである。その無理が擬制資本として株式という現実の形を取る。株式は貨幣ではなく商品だ。擬制資本としての株式の機能は、「原理論」ではなく、国家の政策的関与、種々のイデオロギーなどの夾雑物が含まれた「現状分析」において分析されると鎌倉氏は考える。

この擬制資本に対抗するためには、人間社会の根底に、目には見えないが確実に存在するリアル(実体的)なものを取り返さなくてはならない。この観点から、資本を形態としてとらえることによって、逆説的に資本自体に存立根拠がなく、むしろ人間が自然に働きかける労働過程に資本の実体的根拠があると鎌倉氏は考える。本書で鎌倉氏はこう強調する。

『資本論』の難しさにも関係してくるのだけれど、価値の実体をマルクスは強調しています。商品価値の実体的根拠をマルクスは明確にしようとしていたのですが、最初のマルクスの方法は、労働・生産があってその発展のなかから商品が生まれると、そういう理解だったのです。宇野がそれを引っくり返したのです。結局、宇野の決定的な意義は、実体の把握にある。形態論というよりも、資本を形態だととらえることによって、逆に存立根拠は実体だと。実体的根拠、それは人間と自然との関係なのです。労働者が自然に対して主体として働きかけるという労働過程論が「貨幣の資本への転化」のあとに位置づけられている。なぜそうなのかということが、ぼくが宇野から学んだ最初のことだったのです。それは大変なことだったのではないかと思うのです。ヘーゲルの論理でいえば、有論から本質論への転化なんだけど、本質に基づかぬ「有」、つまり形態自身には存立根拠がない。形態自身には自身が自己存立しているというのは仮象(Schein)だということです。(本書131頁)

ここで、鎌倉氏が、疎外論の立場から世界を見ていることが明らかになる。人間が自然との本来の関係を取り戻すことによってのみ、資本主義を超克することが可能になる。問題は、この本来の関係を取り戻す力が人間に内在しているかどうかだ。この点について、鎌倉先生は、内在していると考える。それだから、ヒューマニズムに対し、肯定的価値を付与することになる。鎌倉先生が、故金日成主席の主体(チュチェ)思想に惹かれるのも、そこに初期マルクス、さらにフォイエルバッハに通底するヒューマニズムがあると考えているからであろう。

私は、ヒューマニズムに対しては否定的だ。人間は原罪から免れることができないので、人間の力によって理想的な社会を構築する試みは、必ず挫折すると考えている。現状で、資本主義を人間が真面目に超克しようとすると、そこにファシズムという病が忍び込んでくることを心配している。外部からの介入なくして(キリスト教的に言えば、それが神の歴史への参与になる)、人間の社会が変容することはないと思っている。しかし、いつかその介入があり、われわれが資本主義を超克することが出来る日がやってくるという希望は失っていない。もっとも、それが現実に存在した社会主義(その実態はマルクス主義というよりもスターリン主義であった)のようなものでないことだけは、確かと思っている。あえて言うならば、私は千年王国の到来を待望しているのである。もっともこのことを神学を専門とする人以外に通じる言葉で説明することが現時点での私にはできない。

それから『資本論』と宇野弘蔵の方法論的差異についても、本書には、示唆に富んだ内容が盛り込まれている。例えば、以下の箇所だ。

鎌倉 結局、僕は宇野体系の根本的な重要な提起は、資本主義の歴史的性格の理論的な証明だととらえているんです。それは、先ほど述べた労働力は本来商品とならない、ということにかかわります。

佐藤 今から30年前に同志社の学生会館で鎌倉先生が講演をしたときに私が質問して、三位一体公式で『資本論』が終わっていることには意味があるのではないか、ということを述べたら、鎌倉先生から資本論というのは閉ざされた体系ではないという説明がありました。ここから理論と実践の関係について考えなくてはいけないのではないかという議論を30年前にしたんです。

鎌倉 そうでしたか。宇野「原論」の最後のところがなかなか難しくて、ちゃんと位置づけしていないのです。

佐藤 トリアーデ(ヘーゲル弁証法で、正・反・合の三つの契機を総称していう語)になっていないのですね。

鎌倉 トリアーデになっていないのです。ぼくが一応まとめたのは、まず資本の理念として財産所有・利子。資本の理念というのは資本=財産を持っているだけで、労働者を支配したり、経営活動をやったりしないで、最低限利子を生むということです。これが資本としての理想形態で、マルクスには『資本論』を書く前からそのとらえ方があったのです。

佐藤 それがフェティシズム(物神崇拝)ですよね。

鎌倉 まさに物神性の頂点です。それは宇野の体系の中に位置づけられているのです。資本主義社会の理念が現出している。資本主義社会の理念は追い求めていく目標というのではなく、理念を現実的に現してしまうということです。ヘーゲル的論理です。理念を現出するということは、結局それでその社会は終わりだということを示します。

その理念は人倫的な理念かというと、そうではなくて、資本の資本としての理念ですから、儲けようという理念なんです。いつでも自由に儲けを実現すること、持っているだけで利得を産むということ、これは資本としては最高の姿なのです。しかし、資本主義の理念なるものはなんと皮相、悲惨なものなのか。ある財産を持っているだけで利己的利得を得る-それは社会に対する配慮とか、モラルとか、共同・連帯、"友愛"などとは一切無縁なのだ。資本という者が利得・自己増殖の源泉、つまり"神"そのものになる、ということなのです。

では現実の価値の運動からそういう資本の理念は現実具体化するのか。それは直接には資本家の観念でしかない。

ということで、資本主義自体は自分自身の理念を出してしまう。だから理念を出したら、それで終わりなのです。しかしそれは現実具体化しようとしたら、擬制資本になるわけです。理念の現実化は擬制になってしまうのです。そして、その対極が「労働」=所得という形態です。資本主義としては労働者=人間そのものを、擬制資本にする(賃金を資本還元して擬制資本として物そのものにしてしまう)のが理想なのですが、賃労働者は奴隷じゃないので、それはまったく無理です。それが不可能なので、結局、資本家の活動を含めて「労働」による所得という外観的な形態を形成する。こうして価値=所得源泉は二元化するのです。これらの点は、『資本主義の経済理論』(有斐閣、1996年)を参照して下さい。

佐藤 そのことによって資本主義はフィクションによって成り立つ社会をつくることになるのです。このフィクションのルールブックが法です。それだから資本主義社会は「法の社会」だということになる。

鎌倉 そのフィクションが現にサブプライムの虚構の膨張とその崩壊ということで、具体的にいま示されているではないか、と思うのですよ。

佐藤 だから、その現実に対する認識をどういうふうにして広げていくか、ですね。これは要するに、資本家、労働者、官僚とか立場に関係なく、理屈の話ですから、ていねいに説明すればみんなわかると思うのです。わからないというのはイデオロギーで、どこかで認識を遮断している。

鎌倉 ちょっと考え方が違うと拒絶してしまう。自分の考えがイデオロギーに陥っているのではないかと反省することが必要だと思います。(140〜143頁)

法イデオロギーから国家を導くことを鎌倉先生は考えているのだと思う。国家論について、鎌倉先生と対談し、本書の続編を出したいと考えている。

ポスト・モダンが流行する以前の日本の知的伝統に立ち返り、現代を分析する作業に私は今後も取り組んでいきたいと思っている。そうすることによって、現在、われわれが見落としている「何か」が見えてくると直観している。そのときの導きの糸の一つとなるのが宇野経済学である。

(2012年11月18日脱稿)