なぜ仲井真知事は記者会見で激昂したのか?

12月27日、沖縄県の仲井真弘多知事が辺野古(沖縄県名護市)の埋め立て申請を承認した。中央政府は、知事の承認が得られたから、これで来年1月19日の名護市長選挙で、米海兵隊普天間飛行場の辺野古移設を容認する候補者が当選すれば、そこに嘉手納基地と並ぶ巨大基地を作ることができる思っているようだ。しかし、辺野古の基地建設は、27日の記者会見で仲井真知事自身が強調したように難しい。

12月27日、沖縄県の仲井真弘多知事が辺野古(沖縄県名護市)の埋め立て申請を承認した。中央政府は、知事の承認が得られたから、これで来年1月19日の名護市長選挙で、米海兵隊普天間飛行場の辺野古移設を容認する候補者が当選すれば、そこに嘉手納基地と並ぶ巨大基地を作ることができると思っているようだ。しかし、辺野古の基地建設は、27日の記者会見で仲井真知事自身が強調したように難しい。

仲井真氏の埋め立て承認を受けて、『琉球新報』と『沖縄タイムス』は、緊急世論調査を行うので、その結果を見てから、今後の情勢に関する予測分析を行いたい。今回は、若干、散文的になるが、本件に対する沖縄の受け止めについて記したい。

東京での本件に関する報道で興味深いのは、28日の『東京新聞』朝刊が、同日の『琉球新報』の社説を全文転載したことだ。東京の視座で、沖縄情勢を読み解くだけでなく、沖縄の内在的論理を読者に伝えようとする『東京新聞』のアプローチは適切と思う。

保守系の政治エリート、マスメディア関係者の中には、沖縄県民の大多数は、米海兵隊普天間飛行場の辺野古移設について、無関心であるか、諦めているにもかかわらず、『琉球新報』と『沖縄タイムス』の地元2紙と、沖縄内外の左派、リベラル派が、沖縄県外移設を煽っているという、実態から乖離した見方がある。このような偏見を、とりあえず括弧の中に入れて、28日の『琉球新報』、『沖縄タイムス』の社説を読むことが、沖縄の内在的論理をつかむために不可欠の作業である。両紙共に仲井真知事の辞任を求めている。事態はかなり深刻だ。

まず、『琉球新報』の社説を引用しておく。

知事埋め立て承認 即刻辞職し信を問え 民意に背く歴史的汚点


仲井真弘多知事が、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた政府の埋め立て申請を承認した。「県外移設」公約の事実上の撤回だ。大多数の県民の意思に反する歴史的汚点というべき政治決断であり、断じて容認できない。

知事は、2010年知事選で掲げた「県外移設」公約の撤回ではないかとの記者団の質問に対し「公約を変えたつもりはない」と述べた。しかし、どう考えても知事の説明は詭弁(きべん)だ。政府も当然、知事判断を辺野古移設へのゴーサインと受け止めるだろう。知事は責任を自覚して即刻辞職し、選挙で県民に信を問い直すべきだ。


見苦しい猿芝居


知事の声明は法律の適合性についての根拠が曖昧なほか、安倍政権の基地負担軽減策を恣意(しい)的に評価しており、詐欺的だと断じざるを得ない。

安倍政権の沖縄に対する思いを「かつてのどの内閣にも増して強い」と評価した。政権与党が自民党の県関係国会議員や県連に圧力をかけ「県外移設」公約を強引に撤回させたことなどまるで忘却したかのようだ。知事の政権評価は、県民の共感は到底得られまい。

首相が示した基地負担軽減策で、普天間飛行場の5年以内の運用停止は「認識を共有」との口約束であり、日米地位協定は抜本改定ではなく新たな特別協定締結に向けた「交渉開始」と述べただけだ。

米海兵隊輸送機MV22オスプレイについても、訓練の移転にすぎず沖縄への24機の常駐配備に何ら変化はない。要するに負担軽減の核心部分は、実質「ゼロ回答」なのだ。辺野古移設反対の県民意思を顧みない知事判断は、県民の尊厳を著しく傷つけるものだ。

日米両国が喧伝(けんでん)する自由・民主主義・基本的人権の尊重という普遍的価値の沖縄への適用を、知事自ら取り下げるかのような判断は、屈辱的だ。日米の二重基準の欺まん性を指摘し「沖縄にも民主主義を適用せよ」と言うのが筋だ。

知事の埋め立て承認判断は、基地問題と振興策を取引したこと一つを取っても、国内外にメディアを通じて「沖縄は心をカネで売り渡す」との誤ったメッセージを発信したに等しく、極めて罪深い。

辺野古移設で取引するのは筋違いだ。振興策も基地負担軽減も本来、国の当然の責務だ。その過大評価は県民からすれば見苦しい"猿芝居"を見せられるようなものだ。

再び「捨て石」に


知事は25日の安倍首相との会談の際、「基地問題は日本全体の安全保障に役立ち、寄与しているという気持ちを持っている。われわれは今(政権の)応援団。ありがとうございます」とも述べた。

強烈な違和感を禁じ得ない。沖縄戦でおびただしい数の犠牲者を出した沖縄の知事が悲惨な歴史を忘却し、軍事偏重の安全保障政策に無批判なまま、沖縄の軍事要塞(ようさい)化を是認したに等しい妄言である。今を生きる県民だけでなく、無念の死を遂げた戦没者、沖縄の次世代をも冒涜(ぼうとく)する歴史的犯罪と言えよう。

知事の言う「応援団」の意味が、軍事を突出させる安倍政権の「積極的平和主義」へ同調し「軍事の要石」の役割を担う意思表明であるならば看過できない。沖縄戦で本土防衛の「捨て石」にされた県民が、再び「捨て石」になる道を知事が容認することは許されない。

知事の使命は、県民の生命、財産、生活環境を全力で守り抜くことであるはずだ。知事は県民を足蹴(あしげ)にし、県民分断を狙う日米の植民地的政策のお先棒を担いではならない。

県民大会実行委員会や県議会、県下41市町村の首長、議長ら県民代表が「建白書」として首相に突きつけたオール沖縄の意思は、普天間飛行場の閉鎖・撤去と県外移設推進、オスプレイ配備の中止だ。県民を裏切った知事の辞職は免れない。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-217223-storytopic-11.html

この社説で、

仲井真知事が埋め立てを認めたことで、「カネをつかませれば沖縄人は何でも言うことを聞く」という印象が日本で急速に強まっていることに対しても沖縄人は苛立ちを覚えている。日本の地上面積の0.6パーセントしかない沖縄県に在日米軍基地の74パーセントがあるのは不平等な状態だ。沖縄以外の都道府県が新たな海兵隊基地を受け入れないのは、民意が反対しているからである。沖縄の民意も反対している辺野古の受け入れを強要されるのは、沖縄には民主主義が適用されないという構造化された政治的差別である。

仲井真知事は、県外移設の公約を変更したわけではないと述べるが、もはや「話者の誠実性」、すなわち本心を述べているのではないという疑念が持たれている。これは政治家にとって致命的な打撃だ。ところで、石破茂自民党幹事長の強い圧力を受け、沖縄関係の自民党国会議員5人うち、「県外移設」の公約を堅持しているのは國場幸之助衆議院議員1人だけという状態になっている。11月30日の『琉球新報』は、社説で

次に12月28日の『沖縄タイムス』の社説を見てみよう。

社説 [知事埋め立て承認] 辞職し県民に信を問え


政治家の命綱である「選挙公約」をかなぐり捨てた姿というほかない。だが、本人はそうは思っていない。埋め立ては承認したが、「県外移設」の公約は変えていない、という。県外移設を実現するために、政府から何の担保も取っていないのに、である。こんな説明で県民の理解が得られるとほんとに思っているのだろうか。

政治家の公約は有権者との契約である。知事はもはや、県民の負託を受けた政治家としての資格を自ら放棄したと言わざるを得ない。

米軍普天間飛行場の移設に向けて国が県に提出していた名護市辺野古沿岸部の埋め立て申請を、仲井真弘多知事は27日承認した。辺野古移設を認めたということだ。

知事選で県外移設の公約に1票を託した有権者への裏切り行為である。

知事は記者会見で、辺野古移設を承認したことと、県外移設の公約との矛盾を問われると、県外移設の公約を変えていない、と声を荒らげ、説明を拒否した。

17日に首相官邸で開かれた沖縄政策協議会以来、知事に決定的に欠けているのは県民への説明責任だ。それは27日の記者会見でも果たすことがなかった。記者とのやりとりはわずか30分余り。県の方から一方的に打ち切った。

知事は、県外移設の公約と、辺野古移設は併存するという。その理屈が分からない。辺野古移設は時間がかかるため、5年以内に県外移設するのが「普天間の5年以内の運用停止」の意味のようだ。

だが、過去の経緯を見ても分かるように、本土で具体的な地名が出るたびに地元から反対運動が起きてみんな頓挫しているのが現状だ。

知事が根拠としているのが、安倍晋三首相との会談で、首相が危険性除去は最大の課題であるとの「認識を共有している」との表明である。

沖縄の基地問題で、これまでなされた閣議決定、総理大臣談話でさえほごにされているのにである。首相の表明が「口約束」にすぎないことは、知事本人が一番知っているはずだ。

事務レベルで最後まで可否判断を保留していた環境保全については「現時点で取り得ると考えられる措置等が講じられている」として基準に適合していると判断した。本当にそうだろうか。

ジュゴンやウミガメの保護、投入土砂に混入する恐れのある特定外来生物は不確定要素が大きい。県は、留意事項として国に専門家や有識者で構成される環境監視等委員会(仮称)を設置することを求めているが、実効性があるか不透明だ。承認ありき、としか見えない。

本社が実施した直近の2種類の世論調査では「承認するべきでない」が64~72%に上り、「承認するべきだ」はいずれも約22%にとどまっている。知事と有権者の信頼関係は破綻したといっていい。知事の言葉が信を失っては、業務を遂行するのは不可能だ。

仲井真知事は、1995年の米兵による暴行事件を受け、大田昌秀県政が米軍用地強制使用問題で代理署名の拒否をめぐり政府と対峙(たいじ)していたころの副知事を務めた。

当時を知る関係者によると、「なんで県が中央と事を構えるのか」と言い、副知事として応諾の文案をつくる役回りを演じたという。2006年には当時の政府案を拒んでいた稲嶺恵一知事に「政府と事を構えるのはいかがなものか」といさめた。仲井真知事は旧通産省の官僚出身で、官僚体質がしみ込んでいる。その最も悪い部分が表れたのがこの日の記者会見だった。

知事は記者会見を県庁で開くことができなかった。警備上の理由から、知事公舎に移した。警察に知事公舎を守られながら開かざるを得なかった記者会見が、知事の埋め立て承認の正当性に疑問符が付くことを象徴している。

知事は会見で名護市民に対し何の言及もしなかった。17年間も地域を分断された市民の苦悩に思いをいたしているようには見えなかった。

多くの県民は「平和的生存権」「環境権」「人格権」「公平・公正な基地負担」をかけて辺野古移設問題に向き合ってきた。その主張の正当性は高まるばかりだ。

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=59679

『沖縄タイムス』は、大田昌秀革新県政の副知事をつとめていた時期からの仲井真氏の言動を省みて、本質において中央政府に過剰同化する「事大主義者」であるとの見方を示している。これは、仲井真氏に対する人格批判ではなく、沖縄人の日本との関係における構造的問題の指摘だ。

沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷(1876~1947)の「沖縄人の最大欠点」というエッセイで、沖縄人の欠点が事大主義であることを痛烈に批判している。沖縄人の自己意識を知る上で不可欠のテキストなので、全文を引用しておく。

「沖縄人の最大欠点」


沖縄人の最大欠点は人種が違うということでもない。言語が違うということでもない。風俗が違うということでもない。習慣が違うということでもない。沖縄人の最大欠点は恩を忘れ易いということである。沖縄人はとかく恩を忘れ易い人民だという評を耳にする事があるが、これはどうしても弁解し切れない大事実だと思う。自分も時々こういう傾向を持っている事を自覚して慚愧に堪えない事がある。思うにこれは数百年来の境遇が然らしめたのであろう。沖縄に於ては古来主権者の更迭が頻繁であったために、生存せんがためには一日も早く旧主人の恩を忘れて新主人の徳を頌するのが気がきいているという事になったのである。加之、久しく日支両帝国の間に介在していたので、自然二股膏薬主義を取らなければならないようになったのである。「上り日ど拝みゆる、下り日や拝まぬ」(引用者註*「昇る太陽は拝むが、沈む太陽は拝まない」という意味)という沖縄の俚諺は能くこの辺の消息をもたらしている。実に沖縄人に取っては沖縄で何人が君臨しても、支那で何人が君臨しても、かまわなかったのである。明、清の代り目に当って支那に使した沖縄の使節の如き、清帝と明帝とに奉る二通りの上表文を持参して行ったとの事である。不断でも支那に行く沖縄の使節は琉球国王の印を捺した白紙を用意していて、いざ鎌倉という時にどちらにも融通のきくようにしたとの事である。この印を捺した白紙の事を「空道」といい伝えている。これをきいてある人は君はどこからそういう史料を探してきたか、何か記録にでも書いてあるのかと揚足を取るかも知れぬ。しかし記録に載せるのも物にこそよれ、沖縄人如何に愚なりといえども、こういう一国の運命にも関するような政治上の秘密を記録などに遺しておくような事はしない。これは古来琉球政府の記録や上表文などを書いていた久米村人間で秘密に話されていた事である。私は同じ事を知花朝章氏から聞いたことがある。とにかく、昔の沖縄の立場としてはこういう事はありそうな事である。「食を与ふる者は我が主也」という俚諺もこういう所から来たのであろう。沖縄人は生存せんがためには、いやいやながら娼妓主義を奉じなければならなかったのである。実にこういう存在こそは悲惨なる存在というべきものであろう。この御都合主義はいつしか沖縄人の第二の天性となって深くその潜在意識に潜んでいる。これは沖縄人の欠点中の最大なるものではあるまいか。世にこういう種類の人ほど恐しい者はない、彼らは自分らの利益のためには友も売る、師も売る、場合によっては国も売る、こういう所に志士の出ないのは無理もない。沖縄の近代史に赤穂義士的の記事の一頁だに見えない理由もこれで能くわかる。しかしこれは沖縄人のみの罪でもないという事を知らなければならぬ。とにかく現代に於ては沖縄人にして第一この大欠点をうめあわす事が出来ないとしたら、沖縄人は市民としても人類としても極々つまらない者である。然らばこの大欠点を如何にして補ったらよかろうか。これ沖縄教育家の研究すべき大問題である。しかしさしあたり必要なる事は人格の高い教育家に沖縄の青年を感化させる事である。陽に忠君愛国を説いて陰に私利を営むような教育家はかえって沖縄人のこの最大欠点を増長させるばかりである。自分は当局者がこの辺の事情を十二分に研究せられんことを切望する。

(明治四十二年二月十一日稿『沖縄新聞』所載、『琉球古今記』所収「空道について」参照)>(伊波普猷[外間守善校訂]『古琉球』岩波文庫、2000年、88~90頁)

仲井真氏が、腹の中では、5年以内の普天間飛行場の運用停止が実現するとは思っていないにもかかわらず、大げさな表現と身振りで、安倍晋三首相に擦り寄っている姿に、

『琉球新報』と『沖縄タイムス』が、仲井真氏を烈しく批判するのは、政治的観点からだけではない。発言と行動が乖離し、沖縄振興策というカネで、沖縄人としての筋道を譲ってしまう人が、民主的手続きによって沖縄人の代表に選ばれたという現実に直面して「沖縄人とはいったいどういう存在なのか」「われわれ沖縄人は、名誉と尊厳をもって21世紀に生き残っていくことができるのだろうか」という存在論的問題が浮上しているのである。大民族である日本人には、圧倒的少数派である沖縄人の存在論的不安、コンプレックス、傷つきやすさが理解できないのである。沖縄人と日本人の複合アイデンティティを持つ筆者は、その点を何とか言語化したいと思うが、うまくいかない。

『沖縄タイムス』の社説が、

同時に、仲井真氏が、沖縄人としての自己意識を強く持っていることが、期せずして記者会見で浮き彫りになった。

日本人のテレビ記者が、「仲井真さんは、日本国民としての日本語能力を、常識的な日本語能力をお持ちの方だと思うからお聞きするのだが、公有水面の埋め立ての申請があった場所は県内か、県外か」さらに「県内に埋め立てをして、そこに移設をしようという、その承認を求めるところに今日公印を押されているんですね。交付されたということは、辺野古に、つまり県内移設を認めるということに同意されたというふうに、普通の一般的な日本語の能力を持っている県民の方が理解するというのは当たり前のことだと思いますよ。」と仲井真知事と沖縄県民の「日本語能力」を問題にしたときことだ。仲井真氏が激昂し、「私もあなた同様に、日本語はあんた並みには持っているつもりですが、何ですか」と怒鳴った。

この瞬間の仲井真氏の、反射的な憤りの意味をどれだけの日本人記者が理解できたであろうか。仲井真氏の世代の沖縄人は、本土で学び、働くときに日本人から「あんたたち日本語ができるのか」「沖縄では英語を話すのか」などという無礼な質問をされ、あるいは独自のイントネーション、語彙を持つ沖縄訛りの日本語の故に、揶揄され、差別されてきた経験がある。日本語能力を問われた瞬間に、仲井真氏の記憶に封印されていた何かが弾けたのである。

われわれ沖縄人は、琉球語という独自言語を持っていた。われわれの琉球語は、都市化のプロセスと中央政府の日本語強制政策によって奪われていった。学校で琉球語を話すと「方言札」をぶらさげられたという経験を仲井真氏の世代の沖縄人は持っている。ちなみに筆者が、2009年から半田一郎東京外国語大学名誉教授(故人)について琉球語の学習を始めたのも、自らの言語を回復することが、沖縄人としての自己意識の確立に不可欠と思ったからだ。

日本語は、沖縄人にとっても、リンガ・フランカ(共通語)である。しかし、それはあくまでも外部から沖縄に浸透してきた言語である。アイルランド人にとっての英語のようなものだ。政治的には沖縄人の側に立っているという自己認識を持っているのであろうこの日本人テレビ記者の「何気ない一言」に、まさに差別が構造化されているのである。

善意に解釈するならば、仲井真知事は、強大な中央政府の権力を前にして、沖縄が主張できるのはこのくらいで、もしそれで沖縄の基地負担削減ができるならば、歴史が知事の正しさを証明してくれると考えているのであろう。率直に言うが、時代が仲井真氏を追い越してしまった。仲井真氏は沖縄人の底力を過小評価している。昔の沖縄人、特に沖縄の保守エリートは、差別されているという現実を認めるとみじめになるので、差別という言葉を口にしなかった。そして、日本人以上に日本人になる努力をした。しかし、過剰同化によって差別を脱構築することはできない。現在の沖縄人は、「われわれが政治的差別の構造に組み込まれているのはおかしい」と正々堂々と主張できるレベルの強さを持っている。しかし、中央政府の差別政策を直ちにはね除けることができるほどの力はない。この現実を冷静に見据えた上で、沖縄人は、どのようにすれば自らが名誉と尊厳を維持して生き残ることができるかという課題に命懸けで取り組んでいるのである。

(2013年12月29日)

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