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ゴースティングが詐欺になる時~佐村河内氏と鈴鹿ひろ美の違い

2014年03月16日 22時27分 JST | 更新 2014年05月16日 18時12分 JST

■ゴースティング「問題」

予め断っておくと、ここでいう「詐欺」は法律用語で言う「詐欺」ではなくて、日常生活で「騙した」ことになり、そして「騙された」方が程度差はあろうが「怒っている」状態になるということです。別に法律論を言おうと思っている分けではないです。

で、改めて経緯には触れないですが、佐村河内守氏がゴーストライターを使用していた問題で、3月7日に行われた佐村河内氏の記者会見は大荒れに荒れました。自分も本務の休み時間で一部を見てたんですが、それまでの報道で見たのとはまさに一変していたご本人のお姿もさることながら、そこに来ていた取材陣の怒り具合がニコニコ動画の画面を通じてもヒシヒシと伝わってきました。

ところが、この話はゴーストライターの是非そのものに拡大してきたのはご承知の通りです。同日、漫画家の佐藤秀峰氏がTwitterで、かつて自ら挿絵を担当した堀江貴文氏の小説「拝金」(2010年)「成金」(2011年)でゴーストライターを使ったことを批判したことが発端だったでしょうか。

他者の名前で音楽や文章など著作物を公開することを総称してゴースティングということがありますが、ゴースティング自体は、実はコンテンツ産業の現場ではありふれたものです。特に企業経営者が経営や法律、経済の理論を説くとか、歌手が小説や歌詞を書くとかいった、有名人が専門外の分野での作品をつくるタイプの作品では、常態化しているきらいさえあります。常態化しているのは産業界としての合理性があるからで、この観点からゴースティングを擁護する意見表明も相次いでいます。

この点で、ジャーナリストの佐々木俊尚氏が説明するゴースティングの合理性(http://www.pressa.jp/blog/2014/03/post-14.html)は、コンテンツ産業界を研究する筆者から見ても簡潔かつ説得的だと思います。

佐々木氏は、ゴースティングは表記上の作者、パブリッシャ(出版社、レコード会社など、作品を商う事業者)、ゴーストの三者にすべて利があると説明します。表記上の作者は少なくとも名誉を得ることができるし、作品を扱うメディア事業者は無名の作者の作品など手に取らない消費者が反応する、よく売れる商品を手にすることができる。そして、ゴーストライター自身は自分の能力で収入が得られ、自分の作品が他人名義ながら世にでる快感があり、また時に自身のスキル向上にもなる、ということです。

そして、ここが重要なところなのですが、佐々木氏はそれが市場ニーズに合っている、という意味で、著名人の面白い作品を味わえることは消費者の利益にもなると暗示していると思います。

その通りです。私もそう思います。

ただし、そこには二つの重要な前提があるのではないかと思うのです。

■鈴鹿ひろ美問題~どうして鈴鹿は非難されなかったのか

一つは、ゴースティングが最後まで露見しないか、或いは消費者がゴースティングを最初からわかっていることです。前者の場合、消費者の夢は覚めないし、後者の場合、消費者は最初から夢を見ていない。つまり、どちらにしても消費者ががっかりすることがない。まぁ、最近の消費者であればわかっていて夢見ることを楽しんでいるのかもしれないですけど、やはり、それが暴露されて「やっぱり」という気になることは気持ちのよいものではないでしょう。

もう一つは、ゴースティングがあくまで表記上の作者が作品を生むための支援的位置づけに留まることです。例えば、著名人をインタビューしてその内容から作品をゴーストが作ることはよくあります。この場合、着想や論理の基本ラインはあくまで作者のもので、それを文字化するサポートや根拠としている事実の確認などをゴーストがすることになります。しかし、これたいきすぎると着想と結論だけ、いや、「こんな感じの結論で」みたいな抽象的発注をゴーストがこなして作品を作ることにも繋がります。ここまでくると、どっちが作者かまさにわかったものではない。組織の代表のコメントを事務方が作る、例えば大臣の答弁を官僚が作成するのと、個人の名で出す本を他者にゴーストさせるのとではわけが違うと思います。

ゴースティングを巡る関係者の葛藤を克明に描いてみせた物語に、今年度上半期に話題になったNHK朝の連ドラ「あまちゃん」があります。主人公の母・天野春子が、若い頃、時のアイドル女優・鈴鹿ひろ美の歌をゴースティング歌唱していたという秘密が、全ての物語展開の補助線となっています。

劇中、鈴鹿ひろ美もゴースティングの事実を突きつけられ、それを認めて、初めてゴーストである真の歌唱者、天野春子に謝罪するシーンがあります。これは作品中のクライマックスの一つです。

 だが、その描写は佐村河内氏の記者会見とは大いに様子が違います。

筆者が注目する大きな違いは、二つです。

一つは、表の作者は最初からゴースティングを恥じていたこと。そもそもゴースティングはプロダクションの企みであり、本人すら臥せられていたというのが劇中の設定ですが、鈴鹿ひろ美は、このゴースティングにうすうす感づいていたのか、極力、歌を歌うことから逃げました。

もう一つは、ゴースティングの事実が最後までファンには臥せられていたことです。鈴鹿ひろ美の告白は、主人公・天野アキがかつてその母が歌い、鈴鹿の名で発表された曲を自らカバー歌唱する、レコーディングスタジオで行われました。ゴースティングの謝罪は行われましたが、それはあくまでゴースティングでスターになれた元アイドルがゴースティングでデビューできなかった元アイドルの卵に対して行った謝罪であり、それが消費者に知らされることはありませんでした。

消費者は、消費するに先だって消費対象の選択を行う必要があり、ブランド効果から自由にはなれません。そのブランドの一つというべきでしょうか、消費者は、それがなぜかは説明しがたいのですが、作者という個人に関心を寄せるクセがあります。単にブランドとしての作者、さらに作品そのものだけではなく、それらの後ろにあるストーリーを楽しむ性質があります。そうであれば、ゴースティングを行うことはコンテンツ産業の内側では合理的で、さして非難することもないのでしょう。しかし、そうであれば、全てを秘密裏に行い、消費者を落胆させないことはある意味、コンテンツ産業の供給者としてのビジネス倫理とも言えるのではないかと思えます。

■佐村河内問題とゴースティング問題の異同

こう考えると、佐村河内氏の記者会見の異常な取材陣の怒りの意味が見えてくる気がするのです。そう、取材陣は自らが佐村河内氏のゴースティングを見抜けなかった(未必の故意があったなどと意地悪は言わない)ことに憤りながら、佐村河内氏がゴースティングを暴露されたこと、そしてそれを認めたこと、さらにそれによって自分たちが記者会見時の質問者の言葉を借りれば「共犯者」にされたことに怒っていたわけです。罪名は「ファンと世間の夢を砕いた罪」とでもいいましょうか。

もちろん、佐村河内氏のゴースティングが暴露されたごく初期に論じられた、そもそも、ゴーストを使っていようがなんだろうが、作品そのものは一切変わりないと言う説明はよくわかります。だからCDの発売を中止するとか必要ない、という意見も説得力はあります。

しかし、記号であれコンテンツであれ、そうした意味単位がそれ自体では理解されず、背景事情や文脈の関係性の中で意味は影響を受ける(或いは歪められる、決定される)というのはコミュニケーション論の本質です。すべての事情を捨象しコンテンツそのものを味わえるほど我々のあり方は純粋ではありえません。

そういう意味では、佐村河内氏の活躍は、彼の発表した楽曲自体の価値もさることながら、彼が全聾の作曲家であったということに多くを拠っていたのでしょう。言い換えれば、彼が全聾でなければ、彼の楽曲をその人達は買わなかったのでしょうし、彼の楽曲は東日本大震災の傷跡いえぬ石巻で、被災した少女の手によっては演奏されなかったでしょうし、マスメディアの人たちは彼のことを報じなかったでしょうし、世の人々はその報道を読んだり見たりしなかったのでしょう。

コンテンツ産業界が消費者に売っているのは作品の鑑賞体験そのもので、単なるデータや紙の束、板ではありません。そう考えると、鑑賞体験の前提となる事実はやはり後から変えてはいけない、と言わざるを得ない気がします。

そういう見方から見ると、意地の悪い言い方ですが、佐村河内氏が最後まで世の中を騙しきれば、こんなことにはならなかった。

だが、もし佐村河内氏がこの露見の意味をわかっていれば、もっとコッソリと振る舞えたはずです。鈴鹿ひろ美が歌手ではなく女優として自らを立てたように、「全聾の天才作曲家」という像を手早く埋葬することが最善の道だったとも思います。

しかし、彼のとった行動は真逆でした。

佐村河内氏は、マスメディアやその他のシーンで「全聾の天才作曲家」を積極的に演じた。自ら構図を作り、楽曲を繰り返し発表し、東日本大震災の被災地でのイベントさえやってみせた。

佐村河内氏への非難は、誤解を恐れずにいうなら、ゴースティングへの非難ではなく、ゴースティングしながら自らを「全聾の天才作曲家」としてプロデュースし続けた態度への非難だということでしょう。

■消費者が成熟するために知っておいてほしいこと

ただ、私たち消費者にも反省すべき点がないではない。

確かに私たちは作品そのものではなく、作品が生まれた背景などにも「奇跡の天才」のストーリーを求めがちだが、そんなものは滅多にありません。というか、きっぱり「ない」と思っておいた方がよいでしょう。

第一、「作品」はたった一人の力で世に出ることは希です。

商業コンテンツは、その作成過程に関与する人の数でみると、最初は文章ものの本から始まり、音楽やマンガ、そして映画やテレビ番組といった映像ものといった順に多くなります。もちろんその規模も大きく影響するので、分量が大きな本、例えば辞書なんかは必ず複数の人が書いていますし、映像でもネットに上がる小品ならば作者一人の手によるということもありますが。

けれども、その一番小規模な文章ものの本、例えば新書レベルの本ですら、作者一人が書いているかといえば、かなり疑問です。筆者も新書を書いたことがありますが、担当編集者の指摘やアドバイスを何度も受けており、それは本文の内容に大きく影響しています。二人で書いたといってもいいくらいです。しかし、伝統的に出版や音楽の世界では、パブリッシャの一員である編集者やディレクターは「作者」の中には入りません。例外といえば、その当時、小学館の編集者であった長崎尚志氏が担当作家である浦沢直樹氏の作品に共同作者の一部である脚本家として名前を連ねたことなど、ごくごくわずかでしかないと思います。

ですから、たとえ一人の「作者」の名の下に世に出ている「作品」でも、たった一人の力では世に出ないのです。だから「作者」ではなく、その周りで作者を支える誰かの力で、その「作品」が素晴らしいものになっている可能性を常に頭の片隅に留めておくべきなのです。それだけで、「事実」がわかった時にガッカリする可能性は低くなります。

一人の「天才」がどこからともなく現れて、私たちに素晴らしい作品を与えてくれるという御伽噺は、ゴミ箱にでも捨ててしまった方がよいかもしれません。たった一人の天才によってではなく、様々な才能が協力し合って作品が生まれると考えても、その組み合わせのケミストリーが存在したという事実に奇跡は宿っているのだ。そう思っても、面白いとは思いませんか?

■ゴースティングの作法~詐欺にならないために

ただ、そうは思っていても私たちはその「個人」を見てしまう。

そのため、ゴースティングは、全て納得ずくで、わかっていたとしても、複雑な混乱が生じてしまうことがあります。

だからこそ、法律はゴースティングに厳しい態度を示しています。最近の判例(2006年2月27日、知財高裁)は、著作者人格権の保護は社会全体として行うものであり、真の著者(権利者)と表記上の著者が変わるとこれが達成できないという理由で、そもそもゴースティングは著作権法によって禁止されており、ゴーストライティング契約も無効だと説いています。

ただ、コンテンツ産業と消費者の「良い関係」を求める筆者の立場からすれば、これは産業側に対して、一度嘘をついた以上、この「虚構の同盟関係」を墓場の中まで維持していけ、と命じているようにも見えます。というのも、そもそも裁判所の判断は「誰か」が訴えない限り発動されないからです。

まあ、総じて言えば、やはりゴースティングは誉められたものでは