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雑感:議論することと個人を否定すること - 高畑紀一

2013年05月20日 22時49分 JST | 更新 2013年07月20日 18時12分 JST

こんにちは、木曜日担当の+Action for Children 高畑です。

5月はサッカー三昧にさらに拍車がかかっています。というのも、長男は全日本少年サッカー大会千葉県予選と千葉市少年サッカー大会が並行して行われていて、次男は千葉市美浜区大会に参加しているから。3つの大会が並行しているので、子どもたちは大変。そして私は毎週、子どもたちのサッカーが観られるので大喜び。毎週末、ビールが美味しいです。

と、充実した日々を送っているのですが、最近のウェブ上での情報やメディアの情報に触れて、ちょっと考えてしまいました。今回はその感じたことを、雑感として綴ってみます。

長男がVPD(Vaccine Preventable Diseases)であるヒブによる細菌性髄膜炎に罹患し大変な思いをさせてしまった反省から、私は無関心や不作為といったものを意識してしまうようになりました。長男が細菌性髄膜炎に罹患した2004年、我が国ではヒブワクチンは承認すらされていませんでしたが、他の多く国々では無料で全ての子どもたちがヒブワクチンの接種を受けられる環境にありました。これが「ワクチン・ギャップ」と呼ばれる状態です。

ワクチン・ギャップは、誰かが意図的に「日本のワクチン環境を遅らせてやろう」と行動して生じたものではありません。誰も望んでいなくても、予防接種やワクチン、感染症(特にVPD)等への無関心とその結果としての不作為が、「空白」を生み出し、ギャップを生じてしまったのです。20年前にベスト(もしくはベター)だった状態や施策が、時間の経過とともにベストやベターでは無くなることはある意味で当たり前です。何故なら社会を構成する様々な要素が変化していくからです。無関心と不作為は、これらの変化に対応しないこととなりますから、必然的に社会が必要とする状態や施策が得られない、実現されないということになります。

私が拙団体、+Action for Children を立ち上げた理由の一つが、この無関心と不作為に対する啓発と行動を促すことにあります。そのため、「知って」「考えて」そして「行動する」ことを掲げています。私たちは社会に暮らす有権者の一人として、社会の状況を知り、課題があると知ったのならどうしたら改善できるのかを考え、改善に向けて行動することが求められます。知り、考え、行動すること、これらが無関心と不作為に陥らない方法だと思います。

幸い、インターネットが普及し、情報端末が発展してきたおかげで、得られる情報の幅も量も増え、また、情報を発信するためのハードルが下がり、私たちは多くの事柄について、知り、考える機会を得られるようになりました。20年ともいわれるワクチン・ギャップを生みだした1990年代とは、大きく異なっている環境にあります。そしてこの環境は、無関心や不作為を防ぐことにプラスである、と私は考えています。

と、前置きが長くなりましたが、そのように「知り」「考える」ための環境が整いつつある一方で、その環境の恩恵を受ける私たち人間の側に、改善が進んでいない面があるのかなと感じています。多様な情報が多様な立場から発信され、気軽に得られる環境に、私たちは十分に対応できていないのではないか、そんな懸念です。

知る、という面では、情報発信や情報流通のハードルが下がった分、検証を経ていない出所不明の情報、真偽が定かではない情報も数多く飛び交うようになっていることへの対応ができているのか、とても心許ないなと思っています。玉石混交の情報の海から、玉と石を選別するためのリテラシーが我々に十分に備わっているのか。このことについては本日はこれ以上は触れませんが、多くの方々がこの問題について様々な見解を示してくださっています。私たちの子どもの世代に、どのように情報との付き合い方を身に付けさせるのか、私たち大人が考えていかなければいけない課題の一つでしょう。

考える、という点のひとつ、議論することにおいて、最近、眉をひそめる状況を散見します。ひとつのリンゴを目の前にして、「美味しそう」と思うか、「美味しく無さそう」と思うか、実際の食してみて「美味しい」と思うか、「美味しくない」と思うか、それは個人個人の価値判断です。そしてそのリンゴにいくらの値段をつけるのか、1個500円でも買いたいと思うのか、5個で298円でも買いたくないと思うのか、も価値判断です。

※「これはリンゴじゃない」とか言い出したら話しは別なんですけどね、今日は省きます。

この価値判断は人それぞれであり、ひとつが絶対的に正しくて他のものは間違い、というものではありません。この多様な価値判断をぶつけ合い、最終的にいずれを優先するのかを合意形成していくのが民主主義における議論なのだと思います。この議論でぶつけあうのは価値判断であって、主張するそれぞれの人間の価値や存在そのものではありません。にも拘らず、自分と違う価値判断を持つ立場の人の人間性や存在そのものを否定するような言動が目につくように感じています。

自分と異なる価値判断を主張する人への人格攻撃ともいえる情報が、ハードルが下がった情報発信環境において、簡単に流布されています。「○○派」とか「御用(エア御用というのもありました)」とかのレッテルを貼り、「悪魔」「犯罪者」と罵り、「断罪せよ」等と煽る情報。これでは議論は成り立たないですよね。お互い、何故自分の価値判断が社会的合意形成の上で施策として選択されるにふさわしいのかを議論しているのに、異なる価値判断を有する人の人格や尊厳を否定することで、議論を無いものにする手法といっても良いでしょう。この結果として、議論の結論では無く、激しく相手を非難し沈黙させた方が主導権を握るということがあるかもしれません。これで果たして良いのでしょうか。

議論することを放棄して個人を否定することで、結果として合意形成のプロセスを経ることなく何らかの意思決定が社会的になされた場合、その価値判断の妥当性云々とは別に、否定されることの恐怖や嫌悪、議論を放棄したプロセスに対しての無力感等から、無関心や不作為が生じる危険性が高いのではないでしょうか。私はこの事をとても強く恐れています。そして、最近の言論、とりわけweb上での遣り取りに、この危険性を感じています。

異なる価値判断を有し主張する人間個人を攻撃し否定し弾圧する、そのことが、時には国家間の戦争にまで発展することを私たちは歴史から学んだはずです。その過ちを再び繰り返しているような気がしてならないと言ったら、大袈裟でしょうか。

誰しも好き、嫌いがあります。自分と真逆の価値判断を示す人間を好きになれないというのは当たり前かもしれないですし、時には嫌いと思うことだって不思議じゃありません。だけれども、好き嫌いをそのまま行動に持ち込んで、相手を攻撃する、否定する、侮辱するなんていうのは、大人として子どもたちの前でとるべき行動だとは思えません。私たち大人が子どもたちに残すべきは、私たちが成長過程で過ごした環境とは大きく様変わりした現代の環境をうまく活用してより良い環境を更に後世に残していく力、能力ではないでしょうか。先に挙げたように、玉石混交の情報を適切に取捨選択するスキル、得た情報をもとに議論し合意形成を図り、実践することで、無関心と不作為を防ぐ力、こういったものを子どもたちに残してあげなければならないのだと思います。

異なる価値判断を主張する議論の相手を個人否定し、攻撃し、侮辱し、議論そのものを破棄する言動、「好き」「嫌い」という価値判断で、情報の発信者そのものを否定する言動、こういったものは子どもたちに残すべきスキルとは全く真逆の言動ではないでしょうか。

以上、雑感でした。

(※この記事は、2013年5月16日の「ムコネットTwinkle Days 命耀ける毎日」より転載しました)