地震は我が家の裏庭で起きたようなもの。だからどんな危険があろうと、日本から出て行くことはあり得ない選択でした。--アンジェラ・オルティスさん Part1

My Eyes Tokyoハフィントンポスト版「311特集」。東日本大震災にその人生を大きく左右され、そして被災地の人たちに寄り添って生きることを選んだ外国人をご紹介しております。前回は、チェルノブイリ原発のすぐそばで生まれたアーティスト、カテリーナさんの"チェルノブイリ"と"震災"を軸にした半生をお伝えしました。

My Eyes Tokyoハフィントンポスト版「311特集」。東日本大震災にその人生を大きく左右され、そして被災地の人たちに寄り添って生きることを選んだ外国人をご紹介しております。前回は、チェルノブイリ原発のすぐそばで生まれたアーティスト、カテリーナさんの"チェルノブイリ"と"震災"を軸にした半生をお伝えしました。

そして今回ご紹介するのは、宮城県南三陸町で震災復興支援活動を続ける"O.G.A. For AID"の運営理事、 アンジェラ・オルティスさんです。

My Eyes Tokyoは2012年夏、あるアメリカ人に会いに東北に向かいました。その人は、前年の3月11日に起きた東日本大震災以来、休まずに被災地の住民の支援に取り組んできました。だから私たちは、彼女にぜひ感謝の意を伝えたいと思っていました。

My Eyes Tokyo主宰の徳橋は2011年、そのアメリカ人、アンジェラ・オルティスさんにFacebookでフレンドリクエストを送りました。それは当時私たちが制作に関わっていたラジオ番組への出演をお願いするためでした。しかしアンジェラさんはあまりの忙しさにその時間を割けず、彼女の声が電波に乗ることはありませんでした。一方で私たちは番組で「近いうちに必ず東北に行きます!」とお伝えしてきました。

そして2012年夏、ようやくアンジェラさんに会うことができました。今もなおスケジュールがびっしりの彼女ですし、私たちも東北の地での長期滞在は出来なかったので、わずか1時間のインタビューでした。それでもアンジェラさんは自身が目にしたこと、感じたこと、これまで行ってきたことを、余すところなくお話してくれました。

このインタビューは2部構成です。パート1は地震直後にアンジェラさんたちはどう動いたのか、パート2は彼女たちのその後の東北復興支援への取り組みについてお伝えします。

*インタビュー@シーサイド・センター(宮城県南三陸町)

*英語版はこちらから!

■ 「日本は故郷だよね」

私の家族は1986年に日本に来ました。父も母も日本が大好きだったんです。ですので私も日本に26年住んでいることになります。

私は11人兄妹の4番目です。家族の中で母、姉、弟、そして私の4人が幼児教育での教諭経験者で、インターナショナルスクールで働いていました。私の両親が青森市内でインターナショナルスクールを経営しているんです。

昨年(2011年)3月11日の震災直後、家族間でいろんな議論が起こりました。福島の原発事故により、身の危険が明らかに押し寄せていたからです。私のオーストラリア人の義理の兄は「オーストラリアに来なさい!」と言い、アメリカにいる私の母方の家族は「日本から脱出してアメリカに来た方がいいよ!」と言い、コロンビアにいる私の父方の家族までも「私たちがみんなを受け入れるから、日本を出た方がいいよ」と言いました。私たちも、せめて小さい子だけでも彼らのところにしばらく預けることを考えるべきかと思いました。

でも弟のジェシーが言いました。「日本は俺たちの故郷だよね。俺たちはここにずっと長い間住んできた。だからここにいる以外の選択肢なんて、考えられないよ」。地震は、いわば私たちの家の裏庭で起きたようなもの。だから誰が何と言ってこようと日本に留まり、出来る限り多くの人を助けるのは、私たちにとって当たり前の行動でした。

■ みちのくで始まった支援活動

震災が起きた3月11日の夜、ノルウェー人ジャーナリストが父の元を訪ねました。彼らは被災地まで乗せていってくれる人を探していました。父は翌日の3月12日、彼らを乗せて宮城県南三陸町へ車を走らせました。

(2011年3月12日)

父とジャーナリストが現地入りした後、南三陸の中学校の校長先生に会いました。そして地元のお母さんたちの声を聞き、彼女たちがハンドクリームや靴下、下着、ジャケットなどの、普段ならどこででも手に入るものを必要としていることに、父は気がつきました。

そこで父はまず、オーストラリアから夫や娘たちと日本に来ていた姉のポーラに連絡しました。父から状況を聞いた姉は「私がかき集めて来るよ」と伝えました。そして私たちが育った青森にいる友人たちに連絡しました。

「宮城県南三陸町の人たちが物資不足に直面しています。もし協力してくれる人がいたら、オルティス・グローバル・アカデミー(*ご両親が青森で経営しているインターナショナルスクール)まで、皆さんが寄付できるものを持ってきて下さい」。これが私たちの、被災した方々への支援活動の始まりでした。

そして私たちはペイパルに口座を開きました。それにより、Facebookからの募金が可能になりました。海外にいる私の親戚や友達、さらに友達の友達までもが私たちにお金を送ってくれました。それらのお金は、トラックとガソリンの購入に充てさせていただきました。

(2011年3月 南三陸に向かう道中にて撮影)

■ 家族全員で被災地入り

一方、私の弟と彼の奥さんは震災発生時、仙台にいました。彼らは仙台を出、その足で山形へと向かいました。そして山形で生活に必要な品物をかき集めて仙台に戻り、人々に届けました。

私はその頃、家族のみんなと離れた東京にいました。電話をくれた姉に「16日に青森に行くから」と伝え、地震発生5日後の3月16日、娘と一緒に青森に行きました。

翌17日、私たちは渡部さんという方と合流しました。過去に何回かお会いしたことのある人たちで、兄弟で東京からいらしてくれたんです。彼らのうちのお兄さんの方は震災直前まで東京でシェフをしていました。

私たち家族やボランティアは、青森の人たちが寄付して下さったものを仕分けし、梱包し、トラックに積み込みました。物品は2トントラック3台分にも及びました。また三沢基地が、私たちにトン単位で水を供給してくれることになりました。

下:寄付していただいた品々を被災地に運ぶ(宮城県南三陸町 2011年3月19日)

しかし、ここで問題に直面しました。ガソリン不足と、原発事故による放射能漏れです。自衛隊さえもガソリンがなくなって立ち往生したと聞きました。それに追い打ちをかけるように、当時は日本中が電力不足でした。それでも私たちは先へ先へと進みました。南三陸に着いたのは、青森を発ってから2日後の3月19日でした。

青森を出る前日、私の昔の同僚から小包を受け取りました。手紙が同封してあったので読むと、こう書かれていました。「南三陸町に"ホテル観洋"というホテルがあります。そこには渡邉陽介さんという人が働いているから、その人にこれを届けていただけますか」。包みには新聞と、彼のお母さんからの手紙が入っていました。渡邉さんの名前を思い出した私は、元同僚にOKの旨を伝えました。渡邉さんは私が23歳の頃、青森のホテルのフロントで働いていた時の同僚でした。

そしてホテルで渡邉さんとしばらくぶりに再会し、包みを渡した後、私は彼に聞いてみました。「ここにボランティアチームを少しの間泊めさせてもらってもいいかしら?南三陸の状況を知り、作戦を練りたいの」。それから私の弟、彼の奥さん、私、そして渡部さんがホテル観洋に入り、ホテル従業員の寮に5日間滞在させていただきました。

そして南三陸にいる間、私たちは地域の避難所や家を回り、子どもたちと遊んだり、青森でいただいた品々を避難民に届けたりしました。町の家々はどれも半壊状態でした。

(2011年4月 南三陸町内の中学校にて)

■ 「誰にも惨めな思いをさせてはならない」

私たちは状況を把握し、地元の人たちの声に耳を傾ける必要があると思いました。なので小回りの利くスクーターで町を走り回り、町の人たちと話しました。そしてどこからモノが届いてくるのか、小さい子どもとお年寄りは何人くらい住んでいるのか、医薬品はどのくらい必要か、そして町の人々がどのように今の状況に対処しているのかを聞いて回りました。

そして私たちは、人々が最も深刻に捉えているものに気がつきました。水不足の問題です。連絡網が混乱していた当時、そのために水の供給がままならなかったのです。通常の状態で水不足が起きた場合、地元の人は山の水や海水を湧かして飲料水に充てるそうですが、震災直後は山水も海水も津波で流されてきたゴミやガレキですっかり汚染されていました。

しかしそこへ、三沢基地から水が届きました。しかしただ配るだけでは混乱が起きるので、どのように配給するか考える必要がありました。私たちの合い言葉は「誰にも惨めな思いをさせてはならない」。でもそれを実現させるには、この大変な状況でもお互いが気を配り、人を思いやることが肝要でした。これを心がけていくうちに人々は変わり、そして困難に共に立ち向かう強い団結力を誇るコミュニティが生まれたのです。

パート2では、その後のアンジェラさんたちの復興支援の取り組みについてお伝えします。こちらをクリックしてご覧下さい。

【アンジェラさん関連リンク】

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(2012年8月17日「My Eyes Tokyo」に掲載された記事を加筆修正の上で転載)

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