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「すごいチームを持たされたな」と思いました。--池永大輔さん Part1

2014年04月04日 15時26分 JST | 更新 2014年06月02日 18時12分 JST

何度も大雪に見舞われた厳しい冬を越え、桜の便りがあちこちで聞かれるようになりました。そして、いよいよ日本でも、そしてアメリカでも、野球のシーズンを迎えました。今年の目玉は、何と言ってもマー君こと田中将大投手ですが、今回のMETハフィントンポスト版では、ヨーロッパ野球で活躍している日本人をご紹介したいと思います。現在はスペイン国内リーグ"リーガ・エスパニョーラ・デ・ベイスボル"に所属の"バルセロナ"というチームで投手を務める池永大輔さんです。

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池永さんは、これまでバットとボールで世界中を渡り歩いてきました。

小学校5年から野球を始めた池永さん。高校・大学と野球に熱中し、大学卒業後はプロ球団のプロテストを受ける日々が続きました。

そして2005年に渡米し、元巨人のウォーレン・クロマティ氏が監督を務めた"ジャパン・サムライ・ベアーズ"に入団。その後ドイツやオーストラリアなどでプレー後、フランスに渡りました。

"サヴィーニ・ライオンズ"というチームで2軍監督兼選手を務めた後、2012年のシーズンは1軍監督兼選手およびフランス代表アシスタントコーチを務めます。それらの実績を買われ、2013年にはフランス2部リーグだった"シャルトル・フレンチカブス"というチームに招聘され、監督兼任選手として活躍、見事チームを1部リーグに昇格させるという快挙を成し遂げました。そして2014年に渡西、ショートから投手に転向してのバルセロナ入りを果たしました。

そんな池永さんとは、2011年に知人を通じて知り合いました。これまで延べ7カ国でプレーされてきた池永さんの柔らかいお人柄、持っている空気の清らかさ、そして視野や見識の広さに、私たちはグイグイ惹かれました。そこで翌年2012年、ある場所での講演をお願いしました。

その"ある場所"とは、引きこもりや不登校の若者たちの自立支援施設。池永さんは、私たちのこのオファーに2つ返事でOKしてくださいました。そしてFacebookのご自身のページに、このように書いてくださいました。

「2012年2月7日に千葉市で引きこもりの方々を支援するNPO団体にお招き頂き、講演をさせて頂くことになりました。正直に言うと、野球人に話すよりよほどいい経験になると思います。人としてのキャパシティーが拡がるチャンス!!!!野球は自分自身のためと思ってやってきましたが、こうやって人のためになることもあるんです。楽しみだ☆」

そして講演終了後、このようにおっしゃいました。

「お話した相手の方々は"引きこもり"・・・と世間では形容されてますが、彼らは有能なクリエイターだったんだ!そう気付かせてくれてくれた彼らには本当に感謝しています。 やはり野球人は野球だけやっていてはダメなんです。 それが講演をお受けした理由でもありました。野球人と話してばっかりいたら世界が広がらないですからね」

今回はインタビューではなく、池永さんの講演を再構成したものを、2部構成でお送りいたします。Part1はフランス野球チームでの監督兼選手としての活躍の記録、Part2では日仏野球をつなぐ"橋"としてのご活動についてお伝えします。プロ野球が全てじゃない、こういう野球人生もあるんだ - 池永さんからのメッセージです。

*講演@千葉市(2012年2月7日)

*英語版はこちらから!

*池永さんの語学習得法についてもインタビューしました!詳しくはこちらをご覧下さい。

 

■ 取りあえず、言ってみよう

私は野球選手ですが、"一芸に秀でている"と言えるかどうかは微妙です。メジャーリーガーでも無ければ、日本のプロ野球選手でも無いわけですから。でも野球で生きる術は、自分で培ってきたという自負があります。

私は今年(2012年)フランスの野球チームの1軍の監督兼選手、そしてフランス代表のアシスタントコーチを担当します。元々フランスに行く前から、バッティングピッチャーでも何でもいいから野球のフランス代表の活動に帯同させてほしいと、チームには伝えていました。

そして昨年(2011年)7月、アメリカの大学選抜チームがフランスに来たときに、コーチとして参加してみないか、と言われました。予想外でしたね。だって、いくら「やりたい」と言ったところで、簡単にさせてもらえるとは思わないじゃないですか。しかも私は日本人です。

でも、私の"仕事"が認められて、米仏の大学選抜の試合で1塁ベースコーチを任せていただきました。それがすごい良い経験になりましたね。ですので今後は、フランスの代表としてはヨーロッパカップ、WBC予選への参加、そして自分のチームではフランス国内でのリーグ戦とカップ戦で2冠を獲る。そうなれば『情熱大陸』も夢じゃないかもしれません(笑)でもそうやってメディアに出ることで「こういう野球人生もあるんだ」「プロ野球が全てじゃない」というメッセージを発せられたらと思いますね。

 

■ バット1本、渡り鳥

私はこれまで、アメリカ→ドイツ→アメリカ→日本→オーストラリア→フランスと、延べ6カ国でプレーしてきました(補足:2014年4月1日現在、これらにスペインが加わる)。一番最初に在籍したアメリカの「ジャパン・サムライ・ベアーズ」は本拠地を持たない球団でしたから、ホテル泊まりとバス移動が生活の全てでした。いつも自分の炊飯器を持っていっていたんですよ(笑)

またドイツでは、地平線に夕日が沈んでいく光景の中、お客さんわずか3人という状態でプレーしたこともあります。普通なら切なくなって、野球が嫌いになるかもしれませんよね。でも私は「こんな状態で野球をやったことのある日本人が、一体これまで何人いただろう?」と思って、俄然野球が楽しくなって来たり(笑)オーストラリアでは、アテネオリンピックの銀メダリストたちに混じってクローザー(抑え投手)をしたりしました。

そんな中で、いろんな国のプレースタイルを吸収しました。例えばアメリカは「野球=エンターテインメント」です。だから遠くまで打てるとか、速い球を投げられるとかで観客を沸かせるんです。日本のように送りバントで確実に塁を進めていくというやり方は、あまりしないように思います。それに、日本はどちらかと言うと守備重視ですね。どちらが良いかは分かりません。なぜなら日本はWBCで2度優勝しているのですから。

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海外野球人生の出発点「ジャパン・サムライ・ベアーズ」

私たちは基本的に1年契約で、同じチームに2年連続して在籍できません。だからシーズン中から次の移籍先を探すために、自分のプロフィールを希望の球団に送ります。「プレーに集中できないのでは?」と思われるかもしれませんが、それをやらないと次につながらないんです。そのようにして私は海外リーグを渡り歩いて来て、フランスで初の"2年目"を迎えます。

一口に"フランス人"と言っても、その人種構成は実に様々です。白人だけでなく黒人もいるし、アラブ系やカリブ諸国出身者もいる。だからベンチに入ったらフランス語だけでなく、英語やスペイン語も飛び交う。中には英語が全く話せない人もいます。すごく国際色豊かだから、日本人の私が入っても浮かないのでしょうね。というか、私はむしろ、日本人がいない環境の方が面白いと思ったから、フランスで野球をすることには全く躊躇しませんでした。

そもそもフランスで野球をするようになったのは、あるフランス人の黒人選手を紹介してもらったのがきっかけです。2004年にフランスでプレーしていた日本人の友人が、その選手、フレデリック・ハンビと当時チームメイトだったのですが、フレデリックを通してフランスの球団とつながって、契約することになりました。彼とは後に日本で再びつながることになりますが、これについては後で詳しくお話しますね。

 

■ まるでRookies

監督兼選手という立場は、フランスが初めてです。2011年、私はフランスの野球チーム「サヴィーニ・ライオンズ」と契約しました。2軍の監督兼選手として登録し、2軍のシーズンが終わったら1軍の試合に出場するという形でした。私がいたチームの1軍は強くて、プレーオフの常連でした。フランス代表チームにも6人くらい送り込んでいます。エースは時速148キロくらいで投げます。監督はアメリカ人でした。その1軍の試合で重要な場面になった時に私が出る、という感じでした。

本当は選手としてプレーに専念したかったのですが、外国人選手枠は全てアメリカ人で埋まっていました。フランスでは、外国人枠は1軍・2軍それぞれ2人です。「どうしようか」と思っていたところにチームから言われたのは「2軍の監督兼選手をまずはやって欲しい」ということでした。私は軽い気持ちで「いいですよ」と。お金はそこそこいただけるし、結構簡単な気持ちで引き受けました。

そして、初めてグラウンドに行った日。フランスの野球チームの2軍です。「ひどいな」と思いました。日本のプロ野球の2軍はかなりのレベルですが、フランスの野球チームの2軍はほぼ素人みたいなものです。キャッチボールすらきちんとできるか怪しい。「アメリカに戻ってまたプレーしたい!」と思っていた私は、彼らを見て「ずいぶん遠くまで来てしまった・・・」と思いました(笑)1軍と2軍の差が激しすぎました。

2軍のシーズンは、年間でも20試合くらいしかありません。期間も4月から6月末ごろまで、イニング数も7イニングです。それで私がいたチームは、私が来る前は1勝19敗という惨憺たるものでした。19敗よりも"1勝"に目が行って、「どうやって1勝したの?」と聞いたら、どうやら相手のチームの選手に何か不備があって、それで不戦勝した、と。そこで私が、チーム初の外国人監督として赴いたわけですが、「すごいチームを持たされたな」と思いましたよ(笑)でも逆に「自分次第でどうにでも状況を変えられる」とも思いました。

それで私が考えたのが「自分のプレーで選手を鼓舞しよう!」ということでした。結果として、昨シーズン(2011年)は10勝10敗になりました。私自身は監督だけでなく選手としても活動し、ホームラン以外の全てのタイトル - 首位打者、最多安打、二塁打、三塁打 - を獲りました。デッドボールも最多でした。攻められるからです(笑)。

私はこれまでの野球人生はほぼショートだったのですが、そこでは先発投手も経験しました。実はチームの10勝のうち、8勝が自分が投げた試合です。すでに31歳でしたが、ポイントさえ押さえれば、年齢に関係なく物事はなし得るんだと思いました。何かを始めるのに「遅い」ということは無いと、その時感じましたね。

チームだって、一人で変えるのはまず不可能ですが、私が成績面でチームを引っ張ることで、他の選手への説得力が生まれ、皆がついてくるようになったのだと思います。

 

■ 勝つ喜び分かち合う

私の監督としての方針は「成績は問わない」でした。みんな打率は1割ちょっとなのだから、成績のことは一切考えないでいい、と彼らに言いました。オレがカバーするから大丈夫だ、と。2軍のチームはどこも似たり寄ったりだし、内野手だって上手い人はそれほどいないから、「打席に立ったらまずゴロを打て」と伝えました。ゴロを打ってとにかく全力で走れ、それでショートとサードの間に飛んだら絶対にセーフだよ、と。だから私は選手にダッシュを何本もやらせました。

あとは「バッティング練習でフライを上げたヤツは走れ」。罰ゲームみたいなものですね(笑)日本人の野球選手たちへのアドバイスとしてはどうか分かりませんが、フランスでは受け入れられました。それは私の成績がモノを言ったからでしょう。他にも、選手たちとのミーティングを徹底的に重ねて「なぜ野球をやるのか」という原点にまで振り返ってもらったりもしました。

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バッティングの極意を伝授!(千葉市 2012年2月7日)

その結果、それまでずっと最下位(6位)だったのが、4位まで上がりました。それに何と言っても、接戦をするようになり、しかも接戦で勝つようになったんです。接戦だと、一つのミスが負けにつながるから、すごく緊張する。そこで勝てるようになるくらい、皆の意識が変わったんです。それを目の当たりにできたのが嬉しかったですね。

守備でも、ちょっと上手く処理しただけでものすごくファインプレーに見える。外野にフライが飛んで、それをキャッチしただけで、もうチームが勝ったみたいにガッツポーズしていました(笑)でも、それくらいがちょうど良いんです。あれくらいのレベルの人たちは、怒っても上手くなりません。嘘でもいいから大げさ