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お金が無くても全然苦しくなかった。自由を満喫し、あらゆる価値観や世界的なクリエイティビティに出会えたから -- ルイス容子さん

2015年07月05日 00時53分 JST | 更新 2016年07月02日 18時12分 JST

7月4日のアメリカ独立記念日を記念し「アメリカで人生が変わった人々」を特集しております。前回の高尾幸子さんに続いてお届けするのは、米サンフランシスコに拠点を置くプロダクト&グラフィックデザイナー、ルイス容子さんとのインタビューです。

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日米でデザイナーやプランナーとして活躍する容子さん。単に商品をデザインするだけでなく、その商品のブランドのネーミングやコンセプトをゼロから考え、それに基づいてプロダクトやロゴなどをデザインします。

日米での活動歴が約30年にも及ぶ容子さんをご紹介いただいたのは、いつも私たちMy Eyes Tokyo(MET)がイベントを行わせていただいている、西日暮里の"フロマエcafé & ギャラリー"さんでした。実際にご挨拶をさせていただいた後、容子さんが次に帰国するタイミングで公開トークイベントを行わせていただくことにしました。

題して「日本人プロダクトデザイナーの"傷だらけキャリア構築術" in USA」。今回はそのイベントでの公開インタビューのもようをお伝えいたしますが、容子さんがこれまで行ってきたことで「慎重派はマネしてはダメ!」と言いたくなる部分がほんの少しあることを、この場をお借りして先にお伝えしておきます(笑)

*インタビュー@フロマエcafe & ギャラリー(荒川区西日暮里)2015年3月8日



■ シンプルで普遍的。それが私のスタイル

アメリカに住んでいると、日本のことがよく見えます。欧米と日本の違いは、販売サイクルです。欧米は良いものは長く販売する一方、日本は売れる・売れないをすぐに判断しますから、販売周期が短い。だから日本での商品開発は大変だろうなと思います。

私は"良いものは長く売れ続けてくれる"と思いますし、私が携わらせていただいている檜のデザインなどは20年近く海外で売れ続けているので、そのことをとてもうれしく思っています。

またできるだけ"ユニバーサル"なデザインを心がけています。日本人だから日本ぽいデザインをするのではなく、どの国のどの人にとっても使いやすく、シンプルでありながらもライフスタイルを提案できるようなものを創りたいと思っています。

私が20歳くらいの頃に強い影響を受けた本があります。「チープ・シック - お金をかけないでシックに着こなす法 - 」です。ファッションについての本ですが、私が衝撃を受けたのは、お金をかけずに"自分を表現する"というコンセプトでした。つまり「自分を表現するために、自分に合ったものを選びなさい。人からのお仕着せのものや流行、ブランドに左右されず、自分で選んで着こなしなさい。自分のライフスタイルを作りなさい」という考え方です 。そのコンセプトをそのままデザインに当てはめ「デザインが自分を表現する手段なんだ!」ということを私に気づかせてくれました。しかも"お金をかけず"に・・・だから私は、お金をかけることなく、素朴な素材の良さを引き出し、その素材を上手く生かすようなデザインを心がけています。

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容子さんが手がけられた商品の数々 

*撮影:箕輪弥生さん(フロマエcafé & ギャラリー)



■ 衝撃、そしてエスケイプ

私は京都芸術大学ヴィジュアルデザイン科を卒業後、しばらく広告代理店で仕事をしたあと、初めての海外旅行でニューヨークとボストンへ行きました。そのときに、偶然にもずっと憧れていた"クレイト・アンド・バレル"(Crate & Barrel:米イリノイ州に本拠を置く家具・日用品・ホームアクセサリー専門小売チェーン店)をボストンで見つけ、強い衝撃を受けました。「自分のデザインした商品をいつかここに並べたい!」という思いを強く抱えたまま日本に帰り、幸運にも商品企画の仕事を得るチャンスに恵まれました。そのときに「産業用に使う紙やクラフト紙をラッピングに使ったら面白いのではないか」という発想で手がけたギフトラッピング商品が、日本を代表する美術雑誌である「美術手帖 デザインの現場から」に取り上げられました。

それを機にチャンスが広がり、様々な素晴らしい仕事に巡り会いました。順調にデザイナー人生を歩んでいましたが、「どうしてもアメリカへ行きたい!」という気持ちは抑えられませんでした。だから私はそれまでのクライアントとの仕事を断ち、片道切符とトランク1個で東京を脱出、1984年にアメリカに渡りました。英語は話せなかったし、貯えは全然ありませんでした。そういう行動を英語で"Young & Stupid"(若きにして愚か)と言うんですけどね(笑)



■ "2ドル50セント"でも充実した日々

渡米したは良いけど、現地では無職で、しかもビザもない、お金もない。仕方なく知り合いの家に転がり込みました。私の場合は日本でのデザイナーとしての経験があったので、幸いにも仕事をさせてもらうチャンスがありました。サンフランシスコにはジャパンタウンに代表される日本人コミュニティがありましたし、"友達の友達"のようなコネもありました。

カリフォルニア州の最低賃金で働いて・・・当時は時給2ドル50セントだったでしょうか。アメリカ生活2年目で、やっとジーンズが1本買えたくらいですが、当時を振り返ると、素晴らしい経験をたくさんできたという思い出の方がずっと多いです。

当時のカリフォルニアには自由で明るく、独立して生きる魅力にあふれていました。お金は無くてもそれで十分でした。サンフランシスコ周辺は、フリースピーチやウーマンリブ、ヒッピー、ゲイコミュニティーなど、自由で人間的なライフスタイルのコンセプトやイデオロギーの発祥の地で、当時もその気風は十分にあったといえます。

街角でいきなり殴られて、60ドルを取られるような危ない目に遭ったこともありましたが、その時現地の人がにっこりして私に言った「Welcome to USA!」という言葉が、今でも忘れられません。

たとえ経済的に恵まれていなくても、 その中で自分がどう生きていくのか、自分は何をして生きていくべきかなど、いろいろなことを考える時間はたっぷりありました。しかもアメリカという土地でしか得られない様々な価値観や美意識、ライフスタイルを毎日のように吸収することができました。結果的に9年という長い年月、日本に帰ることなく、アメリカの生活雑貨、ライフスタイル、暮らしとモノの関係、ベッドルームやバスルームの色やテイストのコーディネーションなど、様々なクリエーションのソースを思い切り吸収することができました。

この9年は、もちろん、その後の自分の生き方を大きく変えることになりました。

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撮影:箕輪弥生さん(フロマエcafé & ギャラリー)



■ "神様"のドアをノック

その間、私は当時サンフランシスコにオフィスを構えておられた、アートディレクターのタモツ・ヤギ(八木保)氏に出会うチャンスを得ました。ベネトンやエスプリなど世界的なブランドと仕事をしてきた、私にとっては"デザインの神様" でしたので、八木さんが当時サンフランシスコにおられたことは、たいへんな幸運だったと思います。

インターネットなど影も形も無い当時、連絡手段は手紙か電話だけ。八木さんがサンフランシスコにいらしていたのは知っていたので、ある日、直接事務所に電話をかけました。すると、たまたま偶然、八木さんご本人が電話に出られたのです。私は「東京でデザインの仕事をしていた者です。 一度お目にかかりたいと思うのですが・・・」と言って面接の約束を取り付けました。最初に申し上げた「美術手帖 デザインの現場から」 をアメリカに持ってきていましたので、それ一冊だけを持って面接に行き、即採用になりました。

私にとって八木さんは凄すぎて近づけないくらいの存在だったのですが、たまたま電話に出てくれたのが八木さんだったことが、たいへんな幸運だったと後で分かりました。八木さんは、普段は電話には出ないからです。 たまたまオフィスには八木さんおひとりだったから私からの電話に出ていただいたのですが、もしスタッフのどなたかが電話に出ていたら「後で電話します」と言われて、それっきり永遠にかかってこなかったはずです。

八木さんの事務所には、日本人以外にアメリカ人とイタリア人が働いていましたが、中でも圧倒的に働いたのは日本人でした。

イタリア人は一番遅く出社して、終業後はすぐに帰ります。アメリカ人 - というかカリフォルニアン - は、雨が降ったら出社してきません。いずれにしても、イタリア人もアメリカ人も、悪びれる様子もなく堂々としていました(笑)おそらく単に価値観の違いだと思います。一方、愚痴ひとつ言わずに、毎日のように夜中まで仕事をするのは日本人でした。八木さんのオフィスで働くことで「世界にはいろんな人間がいて、いろいろな考え方があるんだ」ということを肌で感じました。

私は八木さんの元で、まず"紙の持ち方"から学びました。そしてグラフィックの勉強を基礎からやり直しました。その時にベネトンやエスプリへのプレゼンテーションを経験させていただいたり、CI(コーポレート・アイデンティティ)のプレゼンテーションの方法や応用方法を学ぶことができました。また、八木さんのオフィスには超一流のアーティストやデザイナー、フォトグラファーが日本やヨーロッパからやってきましたから、彼らの作品に触れる機会に恵まれました。そういう意味でもとてもインターナショナルでした。



■ 永住権取得、晴れてフリーランスに

渡米から9年後、ついに永住権を取得しました。そのタイミングで八木さんの事務所を退社し、フリーランスになりました。すると私が東京にいた頃のクライアントの方々が、私にコンタクトを取って下さいました。実際に皆さんは、そのタイミングを待って下さっていたんです。その後、高知県の四万十ひのきを使ったブロダクトを作られている"土佐龍"さん、他にもBEE HOUSEさんや西川リビングさんなどとのお仕事のチャンスが生まれました。中でも私が手がけた土佐龍さんの商品は、かつて私が心の底から憧れた"クレイト・アンド・バレル"の店頭に並びました。私の長年の夢の実現に結びついたのです。

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クレイト&バレル店頭に並べられた、四万十ひのきで作られた土佐龍 "Mini Sushi Bar"。アメリカで飛ぶように売れた。

*写真提供:ルイス容子さん

さらにBEE HOUSEさんとの仕事で生まれたティーポットは、ニューヨークタイムズでも取り上げられました。豊富なカラーバリエーションは、Made in Japanだからこそ出せる色やクオリティだという評判を得て、2000年〜2008年の間にアメリカで爆発的にヒットしました。色については、私の世界観が反映されたと同時に、それが彼らのニーズにマッチしたのだと思います。もちろん今でも売れ続けています。

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容子さんが手がけたBEE HOUSEのティーポット

*写真提供:ルイス容子さん



■ やっぱり西海岸が好き

私がフリーランスになった直後は、クライアントにアメリカの企業も少しいました。でもその後、大半が日本企業になりました。

そして今の私のクライアントは、全て日本企業です。でも「日本に戻らないといけない」と感じたことはありません。それにはいくつか理由があります。

八木さんの下で仕事をしていた当時に出会ったエスプリの元オーナーは、こんなことを言っていました。「カリフォルニアの気候、日本人の優れた感性や勤勉さ、イタリア人の発想のすごさ - これらが揃えば世界で怖いもの無し」。この言葉が私の心に焼き付きました。私はイタリア人ではないですが、カリフォルニアに住んでいればそれら3つのうちの2つは満たせます。

基本的に生活自体は、私にとってはアメリカの方が楽です。私がアメリカにいても、日本側のクライアントからは一度も「日本に拠点を持ってほしい」と言われたことはありません。日本が夜中の間に私は仕事を終えることができます。例えばクライアントさんが終業の頃に私に仕事を頼めば、彼らが翌日出社する時には仕事が完了しています(もちろんこれはemailというテクノロジーのおかげですが)。だからむしろ「仕事が早い」と言われるくらいです(笑)さらにアメリカの方が日本よりも世界の情報が集まってきますし、クライアントも出張でサンフランシスコにいらっしゃれるから喜んでくれています(笑)

でも私のアメリカ人の友達は言います。日本は世界で最も安全で、人が信頼できる国だと。そして日本は医療費が安くて国が全て面倒みてくれるから、お年

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