私は日本に来て、強くなったと思います。

日本に来る前はミャンマーを出たことがなかったから「私の国が一番美しい」と思っていました。

千葉県船橋市にお住まいの金子ティンギウィンさん。幼少時代の日本との出会いから、運命の人と出会って日本に渡るまでの波乱に満ちたミャンマー人女性の物語を、母国の独立記念日(1月4日)に合わせてお伝えしました。

第2回目となる今回は、ミャンマーの祝日である「ユニオンデー」(2月12日)に向けて、数々の障害を乗り越えて日本へと渡った後のティンギウィンさんの人間的成長の軌跡をお届けいたします。

*インタビュー@西船橋(千葉県)

*Part1はこちらから

■ パスポートをめぐる攻防

ベトナムから日本に帰ってきてからも、私は自分のことが許せませんでした。

でも私の父が生前私に言った「いろいろな苦難が待ち構えていると思うが、自分で決めた道なのだから、自分でそれらを乗り越えなさい」という言葉は、父自身の死のことも念頭にあったのではないか・・・そう思いました。

だから、私が落ち込んでいたら父がもっと悲しむかもしれない - そう思い、私は頭を上げました。

一方で私はその頃、ミャンマーと日本の間を自由に行き来できる立場ではありませんでした。

ミャンマーでは外国人との結婚は法律違反でしたから、私はまず短期の観光ビザで日本に行き、そして日本で配偶者ビザを得ました。しかし私のパスポートは有効期限切れが迫っていました。

入国管理局に期限切れのパスポートを持参し、特別な書類を作成してもらうという手続きを経れば、ビザを更新することができました。

つまり、日本に滞在することは認められていましたが、日本国外に出ることは許されなかったのです。

私がパスポートを申請するためには、私が日本人男性の妻として日本で生活することを、ミャンマー政府に許可してもらう必要がありました。

それは納税面で必要なことで「私は日本では主婦なので、仕事の対価として賃金を得ておらず、そのためミャンマーには納税できない」ということを許可してもらうという意味がありました。

当時、父の一周忌が迫っていました。ミャンマーにいる私の家族や友人が、毎日のようにミャンマー外務省に、その許可をいただけるように働きかけてくれました。

その間に、私の日本での立場を認める書類はミャンマー大使館に届いていたそうです。しかし、なかなか事態は進みませんでした。

ある日、私の家族の友人のご子息が日本、しかも都内のミャンマー大使館に来ているという情報に触れました。

私の家族から、その方が来日しているという知らせを受け、お名前とご連絡先を教えてもらい、コンタクトを取りました。その方は「パスポート申請に必要な書類は、ミャンマー大使館に届いています。ですので、いつでもお越しください」とおっしゃいました。

しかし、もうひとつ関門がありました。

その書類を受け取るためには、まとまった金額のお金を大使館に支払う必要がありました。万が一主人との離婚または死別により、私が日本にいられない状況になり、帰国する必要が生じた際には、それを交通費に充てるという名目でした。

その時に受け取った領収書は大切に保管し、ミャンマーに帰国する時は必ず携帯するように言われました。

この状況は2013年まで続きました。

2014年以降は、ミャンマーでは外国人との結婚は許可され、その際の結婚証明書を裁判所が作成できるようになりました。国同士の往来も自由になっています。

今の若いミャンマー人にとっては、私のエピソードはどこか遠い外国のお話みたいです(笑)

■ 日本で生きる覚悟

私がミャンマーで結婚式を挙げた時、父は私に言いました。

「時間を大切にしなさい」「時間があれば勉強をしなさい」「人々の役に立ちなさい」。

だから私は、日本でこれから生きていくことへの決意表明として、日本語能力試験2級を目指し、千葉県松戸市内にある日本語学校で勉強を始めました。そして2回目の試験で合格しました。

息子が生まれる前、主人は私をいろいろな国に連れて行ってくれました。日本に来る前はミャンマーを出たことがなかったから「私の国が一番美しい」と思っていました。

でも日本に来て、さらに他の国々に行くと、それぞれの国に素晴らしいものがあり、その国にしか無い魅力があることを実感しました。

ちょうどその頃、日本語学校からのつながりで、私は松戸市の国際交流協会のスピーチコンテストに誘われました。

私はコンテストに向けて 、日本人男性の妻として日本での生活で感動したことを書き、発表しました。ミャンマーと同じくらい日本のことを愛していることを、協会の人たちが感じてくれたのか、コンテストでは特別賞をいただきました。

それが縁で、松戸市の国際文化大使に就任しました。私を大使に推薦してくださったのが、私にとって"日本のお母さん"と呼ぶべき岩尾いくよさん。松戸市内でご自身の国際交流団体を運営されている方でした。

■ 異国でも強く生きるために

ミャンマーにいた頃は、私も高いヒールを履くなどオシャレを楽しんでいました。しかし日本では歩くことが多いので、一度もヒールを履いたことはありません(笑)

これをお読みいただいている方は「え、逆じゃないの?」と思われるかもしれませんが、ミャンマーにいた頃の方が、移動に車やタクシーを使っていました。

だから私は日本に来て、強くなったと思います。

なぜなら、主人と結婚してからも、誰かに頼ることはできなくなったからです。

もちろんミャンマーの家族とは離れ離れになったから、彼らに頼ることはできませんし、主人の母もお体が不自由な身。だから何をするにしても「まずは私がやらなくては!」と考えるようになりました。

私が里帰りしたら、友人が経営する日本語学校に行きます。そこで私は生徒さんに言います。

「日本に行ったら、皆さんは外国人になります。それでも"常に日本人の方が偉い"などとは決して思わないでください」。

もし日本人の意見がどう考えても正しくないと思ったら、我慢せずに「それは違うと思います」とハッキリと伝えるべきだと、私は彼らに伝えています。

もちろん私たちが間違っていたら、素直に謝るべきです。そしてもし相手の言ったことが分からなければ「もう一度教えていただけますか」と言って教えを請う。

これも日本で生きていく上で必要な態度だと思います。

■ ミャンマーを伝え 日本に学ぶ

日本でも、主に関東地方の国際交流団体や大学などでミャンマー文化の紹介をしています。また私はミャンマーの少数民族の衣装なども持っていますので、特に遠い場所での文化紹介の時には、ご紹介される方にそれらをお貸ししたりしています。

また日本に住んでいるミャンマー人から物事を頼まれた時は、できる限りご協力させていただいています。日本人ともミャンマー人とも、一つの場所で共に暮らしていくためには、助け合いが大事ですから。

今後はミャンマーの雑貨などで日本人に合いそうなものをご紹介したり、日本とミャンマー双方の生地を用いて作られた雑貨を紹介するような事業に挑戦したいと思っています。

将来的には、今以上にミャンマーと日本を行き来する頻度を高めて、ミャンマーで日本の国や文化の紹介をさせていただければと思います。ミャンマーに住む人だけでなく、日本に住むミャンマー人に対しても、ですね。

ミャンマーがこれから本格的に発展していくために必要なものはたくさんあります。

まずは教育。

ミャンマーには、今も教育を受けられない人が多くいます。そして医療や交通インフラなど、不足しているものは数多くあります。だから私は、ミャンマーの人たちが日本から様々なことを学ぶ機会をご提供できればと考えています。

ティンギウィンさんにとって、日本って何ですか?

2番目の故郷です。

私はもともと、現状を受け入れる方だと思います。日本でこれまで約15年間生活してきた中で、もちろん納得できないこともありました。

もそれは容易には変えられないし、それが日本ですから、もし日本で生活をするなら、受け入れることを考えたほうが良いと思います。

私の家族は冗談でよく言うんです。「あなたの先祖は日本人じゃないの?」って(笑)なぜなら私は日本に来た頃から日本食に全く抵抗が無かったし、日本文化にも他のミャンマー人より馴染んでいます。例えば温泉のような公衆浴場にも抵抗はありません。それにお正月や節分 、ひな祭り、こどもの日、梅雨のアジサイの時期などの食べ物についても、自然とその知識を吸収してきました。それは、日本人が季節に応じたお食事を用意する習慣がとても好きだからです。あと、日本人は日常でいただく食事もきちんと盛り付けし、口だけでなく目でも楽しみますよね。

これらの文化は、日本人の宗教観の延長線上にあるもの。多くの日本人は普段お経を読まないかもしれないけれど、宗教の教えは日々の生活に溶け込んでいる。例えば、電車に何か荷物を忘れてしまっても、必ず戻ってきます。他にも、物がお寺や道端などで無人で販売されているのに誰も盗みませんよね。

さらに、日本人は常に相手の立場に立って考えます。

目が見えない人が歩けるように道に誘導用のブロックを設けるとか、ゴミを捨てたくても付近にゴミ箱が無い場合は家まで持って帰るなどですね。

しかも道端にゴミが落ちていたら、他の人が捨てたものにもかかわらず拾ってゴミ箱に捨てます。

そういう日本人を、私は尊敬しています。


(2016年2月12日「My Eyes Tokyo」に掲載された記事を修正し転載)

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