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僕の中の競争心は、不条理で厳しい環境だからこそ育まれた。ニューヨークは"大好きな戦場"です

2016年07月04日 18時42分 JST | 更新 2017年07月01日 18時12分 JST

今年も早いもので、7月に突入しました。そこで7月4日のアメリカ独立記念日にちなみ、かの国で自らの進むべき道を決めた2人の日本人をご紹介したく思います。

お一人目は、ニューヨークを中心に活躍するバイオリニスト、大曲翔さんです。

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大曲さんとは、2015年の夏に都内で出会いました。ニューヨークで活躍する日本人たちが集まる食事会にお招きされ、そこで私たちの目の前の席に着かれたのが大曲さんでした。とてもユーモラスに、明るく場を盛り上げる大曲さんに、一気に親しみを感じました。

今年(2016年)に入ってから大曲さんに再会し、彼と向き合った私たちは、その半生に触れるうちに、彼が単に親しみやすい若者というだけではないことを改めて感じました。このインタビューでも繰り返していたのは「食うか食われるか」「歴史に名を残したい」という言葉・・・柔らかく、ややもすれば線の細ささえ感じるかもしれないその外見からは想像できない、飢餓感や渇望感にも似た強いエネルギーを感じました。

*インタビュー@東京駅

■ 爆音で情熱的に

僕はニューヨーク生活が長いからか、日本人らしさを失っている部分があるかもしれません(笑)それは演奏にも表れます。僕の演奏を日本人の音大生などに聴かせると「日本人男性に有り得ない演奏スタイルだ」と言われます。

もともとアジア人の多いニューヨークですが、いままで僕がコンサートマスターとして携わってきたオーケストラでは特にアジア系が多いのが特徴です。これは私見ではありますが、クラシック音楽と聞いて僕たちが真っ先に連想するユダヤ系の音楽家は、いかに美しい音楽を作ることができるかを重視します。それに対し、アジア系は緻密な演奏を特徴としています。逆に言えば、オーケストラは個性よりも技術的な安定性が特に求められるので、アジア系は重宝されています。

僕もアジア系ですが、どちらかというとユダヤ系のような感情重視の演奏をします。だからコンサートマスターに選ばれたのではないかと思っています。コンマスは、ソロの場面ではすごく感情豊かに演奏しなければなりませんから。技術の追求はこれからも続けていきますが、テクニックは手段であって目標ではない。そういう思いは常に持っています。

また性別で言えば、日本人男性と日本人女性を比べると、体格というハンデを意識するせいか、実は女性の方が力強い演奏をし、男性の方が繊細な演奏をします。でも僕は真逆で、音楽仲間曰く「爆音で情熱的に」弾きます(笑)アメリカ人からもそう言われるので、アメリカのスタイルともまた違うのでしょう。ヨーロッパとアメリカと日本を全て合わせたような演奏なのかもしれません。

大曲さんがコンサートマスターを務めるオーケストラ。2'16"から大曲さんのソロが始まります。

■「あの楽器で遊んでみたい」

僕はブラームスの生誕地である、ドイツのハンブルクで生まれました。その当時はまだ西ドイツと呼ばれていた時代で、父があるメーカーの内視鏡部門の開発者で、ドイツに駐在していたのです。ちなみに僕の家系はほとんど音楽に縁がありませんでした。

3〜4歳ごろに日本に帰国、それからすぐにバイオリンという楽器に出会いました。そして"自分の意思で"バイオリンを始めました。

僕は幼少の頃からNHKの「N響アワー」を見ていました。恐らく家でNHKがつけっぱなしになっていて、偶然僕がそれに気づいたのでしょうね。最初は訳わからず見ていましたが、そのうち好きになって、番組の時間になると僕が勝手にテレビのチャンネルをNHKに替え、指揮者がお辞儀をすると僕もお辞儀をしていました(笑)それである日、僕が親に「あれで遊んでみたい」と言って指したのがバイオリンでした。

当時はインターネットが無い時代。どこに行けばバイオリンが手に入るのか、どこに行けば習えるのかを親が周囲に聞いて回りました。ようやく探し当てた隣町にある音楽教室で、僕が最初に手にしたのはバイオリンではなく、カセットテープのケース2つ。それを顎に挟んでバイオリンを持つ姿勢を叩き込まれましたが、その日のうちにバイオリンを持たせてくれたのでホッとしました(笑) 最初は汚くても、とにかく音を出すことが楽しかったですね。そして5歳の時に初めて人前で演奏しました。

音楽教室には小学校6年生の夏前まで通い、その後父の転勤に伴い渡米。それ以来、ずっとニューヨークに住んでいます。

■「あなたは本当に地球人?」

僕ら家族が根を下ろしたのは、ニューヨーク郊外のロングアイランド。 韓国系や中国系は多かったのですが、日本人は僕一人。しかも当時の僕は英語が全く話せませんでした。まだ自己紹介レベルに過ぎないドイツ語の方がマシなくらいで、自分の名前すら英語で書けない。"What is your name?"と聞かれたら理解できるけど、"What's your name?"と聞かれたら分からない。生きていくための最低限の英語 - "Yes" "No" "Where is a bathroom?"(トイレはどこですか?) - だけしか話せませんでした。

そんな状態にも関わらず、いきなり現地校に放り込まれたわけです。しかも全米15位以内に入る超優秀校。だからなかなか友達ができなかったし、よくからかわれました。「1+1=2」のような数式は解けても、文章問題になるとお手上げ。それくらい英語ができない子供というのは、その学校には前例がなく、精神科医の診療を受けるように言われたり、学習障害を疑われたりしました。"英語が理解できない"という状況が理解できず「2ヶ月もアメリカにいるのに、なんで未だ英語が話せないの?そもそもあなた、地球に住んでいる人間でしょう?」と担当教師から責められました。

そんな僕を助けてくれたのが音楽でした。その学校はニューヨーク州の中でも音楽教育が最も充実しており、合唱やブラスバンド、オーケストラが選択科目としてありました。僕はその中からオーケストラを選び、水を得た魚のように活発に動いていました。 国境や人種を乗り越える、そんな音楽の力を感じた瞬間でした。

■初めての"優勝"

一方でニューヨークでも個人レッスンを受けました。先生は韓国系で、当時はニューヨーク州立大学の博士課程で音楽を研究していた学生でした。僕の「プロを目指しているので、そのつもりで教えて下さい」という願いに応じ、1曲を3年間弾き続けても容易に合格を出さないなど、厳しい指導を受けました。

中学3年の初め頃には、マネス音楽大学が主催していた高校生のための特別プログラムに参加しました。2001年9月11日の同時多発テロの直後も中止にしなかったほど熱心な、世界レベルの人たちが集まる場で、僕は高校生に混ざって音楽理論や音楽史、オーケストラ、室内楽などを学び始めました。全受講生は約200名、バイオリニストは50〜60名。お互い"食うか食われるか"の競争をしていました。

中学生にして高校生向けプログラムへの参加を許されたからには、修了するまでの5年間で、必ずやトップに立とうと決意。高校2年生の時にプログラム主催のコンクールで優勝しました。

■ "世界"を目の当たりに

高校卒業後、さらに音楽を究めるためにマネス音楽大学に進みました。高校時代に通っていた特別プログラムとは全く別なので、その頃の実績が入学に有利に働いたということはありません。

大学で本当の競争が始まりました。プログラム参加者たちも確かに優秀でしたが、彼らはあくまでアメリカ国内から集まった人たち。一方で大学には、世界中から優秀な人たちが集まっていました。特に僕が刺激を受けたのは、中国出身で僕より2〜3歳年下の女性でした。

その人は14〜15歳の頃に飛び級でマネス音楽大学に入学していたので、僕より1年先輩。中国トップの音楽大学である"中央音楽院"で、国内で最も力を持つバイオリニストに学び、その演奏技術は機械よりも精密だと思うほど。しかも生徒であるにも関わらず、大学からは奨学金に加えてお小遣いまでもらっていました。

高校時代にコンクールで優勝した自分でも、世界レベルで言えば底辺。まだまだ上がたくさんいる。「プロになるんだ!」と思ったは良いものの、卒業してもこのままでは音楽で生きていくことができないのではないか・・・

焦りを感じ始めた僕は、心に決めました。「彼女に教えを請おう」と。

それからというもの、毎朝7時から夜中0時まで大学で練習に取り組みました。その間に授業はもちろんありますが、空いた時間は1分も無駄にせずに練習に充てました。その人がずっとマンツーマンで教えてくれるということはありませんが、彼女からもらったアドバイスを完全にモノにするまで家に帰りませんでした。もはや当時の僕は「音楽で食っていく」というレベルではなく「歴史に"大曲翔"の名を残す」ことを目標に据えていました。

■ チャンスは必ずモノにする

そのようにして過ごしたマネスでの4年間は、いわば世界の舞台に立つための準備期間。僕は本格的に世界へ飛び立つ最後の仕上げをするために、ジュリアード音楽院に入りました。

ジュリアードは世界的に有名なので、あらゆるところから大学に演奏のオファーが舞い込んできます。学校で仕事を受け、それらを生徒に振り分け、その後は生徒自身がクライアントと交渉し、契約する。つまり"音楽家として生活する"ために本当に必要なことを、ジュリアードでは教えてくれるのです。

僕はそれらを、正規では半年費やすところを、集中コースを履修して3週間で修了。それから様々な仕事をいただきました。中でも印象深いのは、ドイツ・イギリス・アメリカの共同チームからの、タイタニック号沈没100周年式典での洋上での演奏の依頼。その映像を制作するプロジェクトに加わりました。

式典は豪華客船上で行われ、そのチケットは最低でも1枚2000ドル。つまり、参加者全員が富裕層です。もしかすれば次の仕事につなげることができるかもしれません。だから客船の責任者にもつなげてもらい「場所と時間をいただけるなら、私たちはお客様の前で無料で演奏します」と伝えました。そうしてプロジェクトとは別に(もちろんプロジェクト責任者にも筋を通した上で)客船上でコンサートを開かせてもらいました。

また式典にはCNNやNBC、CBS、ITV(Independent Television;イギリス最大の民間放送会社)など、世界的なメディアが取材に来ており、僕も彼らからインタビューを受けました。

ジュリアードには、マネスで出会ったような世界トップレベルの人がそこらじゅうにいました。その中で頭一つ出さなければいけない。人に知ってもらわなければいけない。さもないと簡単に埋もれてしまい、単なる"卒業生A"になってしまいます。僕はAとかBではなく"大曲翔"として生きていきたい。だからいつも大舞台で演奏するチャンスを求めていました。何よりも、僕自身が小さい頃から、ワクワクすることが大好きなのです。

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式典での演奏の撮影風景。

2012年4月

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式典の準備のもようが掲載された、2012年4月14日付の新聞記事。右端でバイオリンを演奏しているのが大曲さん。

■ 辛い経験があってこそ

ニューヨークはアメリカの中でも特に競争が激しい場所だから、競争心が掻き立てられますし、個性をすごく大切にしてくれます。日本にいた頃は趣味の域を出なかったバイオリンですが、そのような環境に身を置くようになって初めて「プロになりたい」「誰よりも上手くなりたい」と思うようになりました。最初の頃はいろいろと苦労しましたが、もしアメリカに来ていなかったら、プロのバイオリニストになることは無かったかもしれません。

自分が英語の出来ないせいで、親にも周りにもたくさん迷惑をかけました。学校には毎週のように両親が呼び出され、そのたびに英語をなかなか話さない、授業でも全く積極的でないといわれ、それに対して反論の出来ない親もさぞ悔しかったでしょう。好き好んで英語が話せなかったわけではないのに、それを責められるのが辛かった時期もありました。おかげで打たれ強くはなりましたよ(笑)

これらのことは、もしロングアイランドの中でも企業駐在が多く住む地域に僕らが住んでいたら、そのようなことは無かったかもしれません。でももしかしたら僕自身、そのような心地良い環境で育ったら、プロの音楽家になろうとは考えなかったのではないでしょうか。当時は辛かったけど、「人生を渡米前まで戻って、もう一度別の場所でやり直したいか?」と聞かれたら「いや、また同じロングアイランドでいい」と答えるでしょう。僕の中の競争心は、そのような不条理で厳しい環境だから