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自分の活動が、ベトナムと日本を つなげてる。そう感じる僕は 今すごく幸せです。 --ハイチュウさん

2014年02月06日 17時43分 JST | 更新 2014年04月07日 18時12分 JST

日本で活躍する外国人のライフヒストリーを伝えるMy Eyes Tokyo、旧正月に縁の深い人たちのインタビューをお届けしています。前回は中国・上海出身で、日中友好にその身を賭す顧しょうたさんの熱き思いをお届けいたしました。

そして今回は、日本で活躍するベトナム人歌手、ハイチュウさんのご紹介です。

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撮影:レー スアン フィさん

ハイチュウさんに出会ったのは、2012年10月に行われた「Love Asia Vol.18」。 "音楽でアジアをひとつに"がテーマのこのコンサートで、ハイチュウさんは自らのバンドを率いて歌いました。遠目で見ると、ちょっぴり小柄な印象。しかし全身から放たれるその声量と堂々としたパフォーマンスに、私たちは本当にド肝を抜かれたのです。

彼のステージが終わった後、そのライブのMCを務めていた川上産業常務取締役の杉山彩香さんに呼ばれて、My Eyes Tokyo主宰の徳橋はステージに立ちました。次の出演者である「GYPSY QUEEN」がパフォーマンスの準備を進めていた時、彼はステージから、すでに客席に下りていたハイチュウさんに、マイクを通して「あなたの歌に感動しました!ぜひインタビューさせてください!」とお願いしたのです。

このように過去に全く例のない形で行ったインタビューのお願いを、快く了承してくださったハイチュウさん。非常に流暢な日本語で、穏やかにゆっくりゆっくりとお話する彼を貫くのは、日本への限りない「愛」でした。

*インタビュー@池袋

■ 日本人の心に届け

僕は、日本に来てから人間としてすごく成長したと思います。それに、物事に対する考えが深くなったと思います。もちろん年齢もありますが、日本に来て日本人の良いところを見習い、それを吸収したことで考えが深くなりました。そしてそれが、自分の歌に反映されています。

昔は、歌うテクニックを重要視していました。でも今は「人の心に届けること」を一番大事にしています。一つ一つの歌に込めた僕のメッセージを、日本の皆さんの心に届けたい。僕にはそれができると確信しています。なぜなら、僕が歌う日本語の歌に、日本の人たちも感動してくれているからです。中には泣いてくれた人もいますし、すごく遠いところから僕のライブに来て下さる方もいます。

日本で歌い始めた頃は、自分の日本語の歌が日本の人たちに受け入れられているか自信が無かったけど、だんだん分かってきたんです。「たとえ言葉の発音が悪くても、一生懸命歌えばきちんと届くんだ」って。僕は日本語が大好きです。最初に日本語を習い始めた頃から今に至るまで、日本語が好きだという気持ちは変わらない。歌詞を勉強して単語が1個増えただけでも、すごく嬉しいんです。

■ ベトナムの神童

両親によれば、僕が言葉を話せるようになった頃には、毎日歌を口ずさんでいたそうです。小学校ではよくステージに上がっていました。学校の代表で歌唱コンテストに出て優勝したことも数多くありました。それが理由なのか、勉強をしていなくても、先生が予想以上に良い成績をつけてくれたんです(笑)しかも、通っていた学校内で行われたコンテストでは、12年以上連続で優勝しました。だから全校で1000人近くいた生徒の中では、ちょっとした有名人でしたね(笑)

やがて、不定期ですがベトナムのテレビ番組やラジオ番組で歌うようになりました。子ども番組からお呼びがかかったら歌いに行く、という感じでした。

でもプロの歌手になることは、当時は全く考えていませんでした。両親には「歌手という職業は不安定だから、大学に行って勉強して、自分の知識を生かして生活した方がいいよ」と言われました。僕もその通りだと思っていましたので、地元フエにある「フエ総合大学」の英語科に入学しました(*現在は「フエ科学大学」に名称変更)。語学に興味があったんです。ただ、歌うことは大学入学後も続けていました。大学でも歌ったり、時には夜にライブハウスで歌ったりしていました。

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ハイチュウさんが率いるバンド”シクロ”との公演(2014年2月2日)

■ 炊飯器に書かれた文字

もしプロの歌手になるのだったら、地元フエではなく、ホーチミン・シティーのように大きな街に行くべきです。でも僕は地元に留まりました。実はフエは、僕が初めて"日本"に出会った場所です。

僕が子どもの頃は、もちろん日本語なんて知りませんでした。でも中学2年生の頃、僕がよく遊びに行っていた同級生の家には、盆栽があったんです。彼のお父さんが好きで、おかげで"ボンサイ"という言葉は覚えました(笑)そのおじさんには、当時ロシアに住んでいた別の息子さんもいて、その人に買ってもらったという炊飯器がありました。その取扱説明書に、各国語に交じって日本語が書かれていたんです。

もちろん、当時の僕にはそれが日本語であることすら知らなかったのですが、パッと見て「何て美しい文字なんだろう」と思いました。だからすごく興味を持ちました。でも周りには日本語を教えてくれる学校も無いし、テキストもありませんでした。でも僕はいつか日本語を勉強しようと思っていたから、そのチャンスをずっと待っていました。

そして大学時代、待ちに待った日本語学校が地元で開校しました。「南学日本語クラス」という、日本人が経営する学校です(*現在は閉校)。そこに受験を申し込み、合格しました。

■ "お父さん"に連れられて日本へ

南学日本語クラスで勉強する人は、合計で20人しかいませんでした。試験は英語で行われたのですが、授業料が全て無料だった分、問題が難しかったのです。でも僕は、運良く合格することができました。 勉強すればするほど、日本語や日本文化が好きになりました。

卒業後、日本語を使った仕事もしていたのですが、面白いエピソードがあります。京都にある機械メーカーの社長さんがフエに出張に来ました。その社長からフエの旅行会社に「仕事の合間に観光を楽しみたいから、日本語ができる面白いベトナム人がほしい」というオーダーが入り、それで僕が呼ばれました。僕はちょうど時間があったので、リクエストに応じることができました。

その社長が日本に戻られた後、しばらくして電話がかかってきました。「チュウくん、日本に遊びに来たい?」僕はもちろん「行ってみたい!」と言いました。そしたらすぐ手続きをしてくれて、僕は3ヶ月間、日本に滞在することができました。

中でも印象的だったのは、京都でした。僕の地元・フエにはたくさんのお寺があります。京都もそうですよね。フエのように美しい京都の街が大好きになって、たくさんの名所を見て回りました。

さらに社長が出張する時は、何と僕も同行させてもらえたんです。社長がお得意先で仕事をしていた間、社長のお知り合いが僕を観光案内に連れていってくれるというパターンでした。

おかげで僕は、広島や北海道など全国を回ることができました。それまでは雑誌やテレビでしか見ることのなかった日本でしたが、各地で出会った人たちはとても親切で、しかもさらに日本文化を深く知ることができて、日本への興味がもっと大きくなったのです。だから僕はベトナムに帰国後、日本への留学を決めました。

その社長のことを、僕は"お父さん"と呼んでいます。今でも僕のことを実の息子のように思ってくれる、そんな"お父さん"との出会いは、本当に運命的でした。もし彼に出会わなかったら、僕は日本に来ることは無かったかもしれません。"お父さん"には心から感謝しています。

「てのうた」My Eyes Tokyo主宰の徳橋が大好きな1曲

■ 母国でメジャーデビュー

日本の大学では、マスコミを勉強しようと思っていました。将来はベトナムのテレビ局で日本語教育番組を作る - そのような志を持って日本に来ました。そして僕は都内にある、映像編集やコミュニケーションを学べる大学に入りました。

そこにはとてもユニークなクラスがありました。「舞台で歌を歌う」というクラスです。受講者は先生と共に歌の練習をし、試験では1人1曲をステージで歌うというものでした。「日本は全くの新天地なので、歌うチャンスは無いかもしれないけど、それでもいい!」と思って日本に来て、そのような授業を見つけた。僕は迷わず履修しました。

そのクラスの試験で、僕はThe Boomの『島唄』を歌いました。すると先生が「ハイチュウくん、あなたは日本で歌手になりなさい!もう授業には来なくていいんじゃないの?」って(笑)同じことをそのクラスの先生だけでなく、同級生たちからも言われました。他にも大学時代、在日ベトナム学生青年協会が主催するイベントや交流会、ベトナム大使館が主催するイベント、アジア各国の大使の奥様方が集まる会議など、いろんなところで歌いましたが、そのたびにお客さんから「日本で歌手になって!」と言われました。

それらの言葉が、僕に力をくれました。ベトナムに置いてきた夢が、再びよみがえってきました。それに、もし日本語や日本文化を、僕がベトナムの人たちに伝えることを考えた場合、歌を通じてそれをすることになる。つまり、どこまで行っても自分の場合、歌から離れられないんです。

2006年、僕はベトナムで一番大きなレコード会社の社長に直接連絡を取りました。そして言いました。「アルバムを出したい」と。僕の知人を通じて僕の存在を知ってくれていた社長は「OK!」と言いました。プロデューサーは、当時ベトナムで最も有名な作曲家、ブイ・クォック・バオさんという方。そんな強力なサポートを得て『美しい昔』というアルバムを作り、ついにベトナムでメジャーデビューを果たしました。それまで歌が好きで歌ってきただけでしたが、メジャーデビューの瞬間、僕は歌手として活躍していくことへの実感と責任を、はっきり意識しました。

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2ndアルバム「From Tokyo」

■ 日本で日本語の歌を歌いたい

メジャーデビューした時のアルバムには、僕がかつて日本で歌った『島唄』のベトナム語バージョンや、日本語の曲も収録しました。日本語の曲は、元々ベトナムの曲だったものを、僕が日本語に訳して歌ったものです。大変な作業でしたが、リリース後はベトナムで日本語を勉強する人たちが、それを聴いてくれました。僕はベトナムで多くのメディアに取り上げられ「日本語で歌うベトナム人歌手」として知られることとなりました。

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ハイチュウさんの活躍をマスコミが大きく取り上げた。

だから「ベトナムで、日本語で歌うベトナム人歌手」- これもきっと初めてでしょう - になることも考えました。でもベトナムには、日本語ができる人はそれほどいません。だから僕は「日本で、しかも日本語で歌う初のベトナム人歌手」になるという夢をあきらめきれなかったのです。

メジャーデビュー当時、僕は日本の大学院で日本語教育の研究をしていました。しかし、ベトナムと日本を行き来する生活のために大学院にあまり通えず、その上専門課程なので、授業を理解するのに必死でした。結局は卒論を残して休学することにしました。そして僕は、新たな夢に向かって走り始めました。

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枯れ葉剤に苦しむ人たちの存在を伝える目的で開かれた「アジアの夢コンサート」に出演。ここでハイチュウさんはアメリカ人の観客から「アメリカ人にも、平和を愛する人は多い。ベトナム戦争で苦しんだ人もいる」と言われ、アメリカ人への印象が変わったと言う。*詳しくはハイチュウさんのこちらのブログ記事をご覧下さい。

2008年@ワシントンDC

■ 歌でベトナムと日本をつなぐ

恐らくこのインタビューを読んで下さっている方々の中には、僕が歌手として出発するまでに、ずいぶんと回り道をしているように思う方もいるでしょう。実際に僕の友人の中には、道を1つに決めて、自分が定めたゴールに向けて迷わず突き進んでいる人もいます。どちらが良いかは分かりません。でも僕には、後悔は全くありません。

アジア各国と日本を音楽でつなぐバンド「GYPSY QUEEN」にも出会い、2009年に行われた第2回ベトナムフェスティバルに誘ってくれました。さらにボーカルのしのんさんには、ベトナム語のレッスンもさせていただいています。

僕がベトナムでリリースした2枚目のアルバムには、Beginの『島人ぬ宝』のベトナム語バージョンを収録してあります。それをベトナムの大学生たちが歌ってくれているんです。それに、僕が日本でチャリティコンサートなどを行うと、ベトナムのメディアが取材してくれます。自分の活動が、ベトナムと日本をつなげている - そんなふうに感じることができる。だから僕はすごく幸せです。

これからも、家族への思いや故郷、そして青春や恋愛のことを、ここ日本で歌っていきたいと思います。

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ハイチュウさんにとって、日本って何ですか?

第2の故郷ですね。

僕にとって日本は外国ですが、全然寂しさを感じないんです。もちろん来日したばかりの頃は、孤独を感じましたよ。でも皆さんがすごく応援してくれるし、皆さんがすごく温かい。だから故郷のベトナムと、今いる日本、どちらに対する愛情も変わりないんです。

だから東日本大震災の時も、ベトナムに帰ろうなんて全然思わなかった。両親が不安に思うかもしれないと思ったから、向こうから連絡が来る前に、僕から両親に状況を説明しました。

日本には大切な仲間や友達が多いし、震災に遭ってもみんな普通に生きている。だから僕も、彼らとはそれまでと全く変わらずにお付き合いしながら生きていこうと思ったんです。

そんな僕が、皆さんに是非お聴かせしたい曲があります。『美しい昔』です。

1970年、カイン・リーというベトナムの歌手が大阪万博のステージに招かれ、初めてこの曲を日本に紹介しました。その後、日本とベトナムの二カ国語で構成された彼女のアルバムがコロンビアレコードから発売されると、200万枚のセールスを記録したそうです。美しい昔のメロディは、当時から日本人の耳に不思議に懐かしさをもって響き、好まれました。近年は、加藤登紀子さんや、天童よしみさんがこの曲をカバーをしています。ベトナムの名曲が長年にわたって日本でも歌い継がれてきたことを、ベトナム人として大変嬉しく思います。

今回、僕は美しい昔をソロギターで歌いたいと思いたち、大好きなギタリストの伊藤雅昭さんにアレンジをお願いし、詩的で美しい演奏をして頂きました。伊藤さん、ありがとうございました。そしてレコーディングでは、賢さんと原澤さんにお世話になりました。ありがとうございました。

それでは、この曲をご存知の方にも、初めて聴く方にも、ハイチュウの「美しい昔」をお届けいたします。

美しい昔

作詞・作曲:チン・コン・ソン

訳詞:高階真

赤い地の果てに あなたの知らない

愛があることを 教えたのは誰?

風の便りなの 人のうわさなの

愛を知らないで いてくれたならば

私は今も あなたのそばで

生命(いのち)つづくまで 夢みてたのに

今は地の果てに 愛を求めて

雨に誘われて 消えて行くあなた

【ハイチュウさん関連リンク】

Facebook ID:Hai Trieu Tokyo

ハイチュウさんブログ:http://haitrieujp.exblog.jp/

【ハイチュウさん関連記事】

GYPSY QUEEN(音楽集団)

杉山彩香さん(川上産業 常務取締役)

(※2012年11月14日「My Eyes Tokyo」に掲載された記事を加筆修正の上で転載しました)