「ナチスの過去」の館、オープン

新博物館はナチス党の党本部の建物、ブラウネス・ハウス(茶色の家)があった場所に建てられた。「茶色」はナチス党の色でもある。

5月1日、ミュンヘン市でナチスの過去をテーマとする資料館がオープンした。

資料館の正式な名称は「NS文書センターミュンヘン‥国家社会主義の歴史に関して教育・記憶の場所として」と長い。

新博物館はナチス党の党本部の建物、ブラウネス・ハウス(茶色の家)があった場所に建てられた。「茶色」はナチス党の色でもある。

すぐ手前には元ヒットラー官邸(現ミュンヘン音大)が建っているが、その横にはナチス英霊廟があった。英霊廟は、ナチス党がまだ泡沫政党であった1923年、ミュンヘン一揆(ビアホール一揆とも呼ばれる)のときに亡くなったナチ党員たちのためにヒットラーが特別に建てたものだが、戦後、連合軍にまっさきに爆破され、台座だけ残されている。

ミュンヘンは「ナチス発祥の街」として、なんらかの資料館を作るべきという発案から約三十年。開館日は、ミュンヘンが米軍により70年前に解放された日と重なった。

会場にいあわせたユダヤ人のドキュメンタリー製作者は「ドイツ人たちが建設したがらなかったため、長年の抵抗にあった」という。

「なぜミュンヘンでナチス党が広まったのか」、というのは大きなテーマである。当時、市民たちはどう反応したか、どう無関心であったか、どう支持したのか。外国人差別は独裁とどう結びついたか。ユダヤ人住民たちだけでなく、ナチスに反対する者、同性愛者やシンテイー、ロマ民族たちはどのように排斥されていったか。資料館の展示内容をどう表現するべきかという議論が長びいたことも開館が遅れた理由である。

21世紀になると、迫害を受けたユダヤ人たちの強い働きかけもあって、「政治家たちが建設をめぐりもやは反対しなくなったため」(歴史学者のペーター・ロンゲリック教授)実現したのだろう。

ミュンヘンで初めてナチスに関する展示会が行われたのは1985年。以来、90年代にはミュンヘン市博物館で「ナチス運動の中心地、ミュンヘン」、「国防軍の犯罪」などの展示会があったが、市民の反発、反論も多く、史実に関して細かい検証がされるようになった。

これまでのナチスに関する展示会と異なる点は、新資料館では、ミュンヘンの過去と現在が約百年のあいだにどう変わっていったか、一望できることだろう。

(1)一次世界大戦後、小党が乱立し、ナチスへと向かった時代

(2)人種差別と独裁政治による恐怖の時代

(3)戦後、再建の時代から現在に至るまで、ナチスの過去とどう向き合ってきているのか

ナチス前後の時代を含め、主に三つの時代を線で結んだことは興味深い。これまでナチスをテーマとした展示会では、ナチスによる12年間の独裁をたどるものばかりで、このように歴史の継続を提示したことは新しい試みである。

5階から下の階へと時系列で展示されているのでとてもわかりやすい。上階には、第三帝国に関する開架式の図書室がある。ここでは第三帝国に関する書物が各テーマごとに分けられ、1933年にナチスによって焚書された書籍も自由に手にとることができる。また、人種差別主義、国粋主義、外国人排斥など、インターアクテイブに検索できる設備があり、一般訪問者や青少年がナチズムに関してさまざまな角度から学べる場となった。ここでは、ミュンヘンでナチスにより排斥された1万5千人の人々のプロフィールを膨大なデータバンクから調べられる。

展示物は全て資料に基づいた記述と写真となっているが、個人のプロフィールがひときわ重視されていることも資料館の特徴だ。

たとえば、「私は二度と警察所に文句を言いません」と看板を首からかけて、はだしで往来を歩かされているユダヤ人男性の有名な写真がある。ナチス関連の資料ではよく見る写真である。その背景が詳しく記述されていたので、この人物が弁護士のミヒャエル・ジーゲル(1882-1979)であることを知った。ミュンヘン大学で法律を勉強し、博士号をも得たジーゲル氏は、不法に逮捕された人々の釈放を警察に求めた結果、自身が警察に逮捕され、暴行を受けた。

写真が撮られた二ヶ月前、ナチス党が政権を掌握し、警察をも手中に収めたことがわかる。ジーゲル氏は、その後、財産を没収され、二人の子供をイギリスに「子供輸送(キンダー・トランズポート)」で送り出し、夫婦ともども運よくペルーにヴィザを得たことで、シベリア鉄道、韓国、日本経由で南アメリカへと亡命した。加害者と被害者たちの個人的なプロフィールを読み進めていくうちに、当時の人々の「顔」が浮き彫りにされてくる。

資料館の建設には連邦府、バイエルン州、ミュンヘン市が共同出資し、2800万ユーロ(約36億円)が費やされた。建築の概観デザインは、周囲の美術館街と調和することが求められた。ネオナチたちの集いの場となることだけは避けるような簡素なデザインでなければならないということで、白い真四角な「さいころ」イメージとなった。

かつてナチス関連の建物が並んでいたKönigplatz(王様の広場)周辺は、現在、「美術地区」となり、16の美術館、40の画廊、大学関連の建物が並んでいる。もとはバイエルン州の王家であるヴィッテルスバッハ家のルードヴィヒ一世(城を多数建設した「狂王」、ルードヴィヒ二世の父)が、市民に憩いの場としてギリシャ博物館とエジプト博物館を建てた王様の広場である。

ナチス政権は、ベルリンを帝国の首都とした後も、ミュンヘンを党本部の街として重視していた。その意味でもナチスとミュンヘンは切ってもきれない関係にあった。これからもミュンヘンは民主主義を脅かす潮流と闘ってゆかなければならない。二年前から、ネオナチ裁判がミュンヘンの法廷で行われているが、外国人を襲撃ターゲットにした犯罪は今も続いている。

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