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ブルキニの議論から、フランスに蔓延する不寛容さが浮き彫りになった

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今年は、内容が十分に議論されないままの話題が表面化した。ブルキニ(訳注・イスラム教徒の女性のために全身を覆い隠す水着)についての議論は、国内にじわじわと広まっていた怒りを表面化させることになったが、これは「外国人」やイスラム教徒にあらゆる問題の責任を負わせようとする私たちの社会のあり方だ。

指導者的立場にいる政治家やその支持者たちは、 議論の水準を上げようともせずに、排斥や疑いの議論に足並みをそろえている。 彼らはブルキニが与える影響についての議論だけで満足し、その原因については触れようとしない。

イスラム教はフランス議会で称賛を得たり、SNSで「いいね」を集めるのに利用されている。意見が140字に要約されるツイッターが、本格的な議論をするためのプラットフォームになっている。

私がこう言ってきたのは一度だけではない。今の時代に、イスラム教について論理的な議論をするのは不可能なようだ。人々はそんな話を聞こうとも思わない。

ブルキニについての議論が最新の証拠だ。国民の議論は初歩的なレベルまで引き下げられ、短絡的で一般化された働きかけが混乱を広げ、憎しみを呼び起こす。

フランスは、非宗教的な国家だが、フランス国民や水着はそうでない。ブルキニは法律的に違法ではない。しかし、公共のプールで衛生上の理由からブルキニの着用が禁止されることもあれば、市長がビーチでの公序良俗を乱す脅威と見なせば、地方自治体の条例で禁止されることもある。

このブルキニについての議論が暴くフランス社会の現状は恐ろしい。我々の価値観が乱用されていることが見えてくるからだ。

ブルキニをサウジアラビアの過激主義「ワッハービズム」や最も保守的な「サラフィーズム」と結びつける人たちに、この全身を覆う水着は、レバノン出身のオーストラリア人アヒダ・ザネッティさんが2004年にデザインしたものだと伝えたい。

このブルキニについての議論にまつわる憎悪にあふれた話し合いを見てみよう。

ブルキニについての議論をやめたとしても、また別の方法を見つけて核となる部分、政教分離の適合性について話し合うだろう。ヒジャブについての議論を再燃させるかもしれない。

民主主義上、あらゆる議論は合法とされている。しかしすべての議論に十分な根拠があるという訳ではない。また政界のエリートたちが短絡的で一般化された考えに訴えると、 みんなが保守的になり実質的な議論を避けるようになる。

ジャン・ギャバンが映画『冬の猿』で、「物事が物事を呼び、なんとかというものがなんとかというものを作り出す。デタラメに現れるものはない」と言っているように。

ブルキニについての議論は他のさまざまな問題を巻き込む。それは、政教分離、テロリズム、サウジアラビア、人権、フランスの外交政策を含む。

結果として、全身を覆う水着ブルキニについての議論は人権や湾岸のアラブ君主国との関係を中心に展開するかもしれない。この問題は、ヒジャブが女性を奴隷化する道具であるとみなす人々の意見を正当化するだろう。しかし、ブルキニは女性が自分自身を表現する方法としてみなされることもある。

非民主的な国々への武器の販売についての議論は合法だが、湾岸のアラブ石油王国は、常にあらゆる社会の悪業の責めを負っている。

議論は誇張され、一方で反論されて悪い方向へ向かっている。そして重要な論点を考えるのに、誰も時間をかけようとしない。

このような極度の緊張状態で、誰が私たちの価値観を蘇らせるだろうか。大きな声で自信を持って、フランスのイスラム教徒はフランスで正当な立場にあると誰が言えるだろうか。

このブルキニについての議論が暴くフランス社会の現状は恐ろしい。我々の価値観が乱用されているのを見えてくるからだ。恐怖に駆られた不寛容さが広まっている。メディアは情報を普及させるよりも人々の感情を煽るのに神経を注いでいる。法律的な議論をすれば、すぐにサウジアラビアのロビーから資金提供を受けたイスラム教徒の協力者とみなされるだろう。ブルキニに反対すれば、反イスラム主義者や人種差別主義者と呼ばれるだろう。

国民の議論はどこへ行ったのだろうか。大統領候補者の中で、理性の声に耳を傾ける者はいるだろうか。この極度の緊張状態で、誰が我々の価値観を蘇らせるだろうか。大きな声で自信を持って、フランスのイスラム教徒はフランスで正当な立場にあり、彼らの権利は他のあらゆる市民と同様に保障されていると誰が言えるだろうか。

行政機関がイスラム教徒の慣習に介入し続ける間に、1905年の政教分離法を誰が国民に思い出させてくれるだろうか。フランスのモスクのうち海外から寄付を受け取っているのはほんのわずかな割合で、国内で起こるすべての金銭的なやりとりは国の監視下にあるということを、誰が国民に思い出させてくれるだろうか。

なぜ私たちは議題についての幻想に耳を傾けなければならないのか。ニースでの恐ろしいテロ攻撃やアメル神父が暗殺された忌まわしい事件の後に、海外の寄付を受け取るモスクとテロリズムを結びつけなければならないのか。

事実上、最も極端な理論を強化して、イスラム教は政府の最高レベルからテロとの戦いの一環として標的にされているようだ。

私たちの心を一つにするものでなく、分断化するものを強化したいという絶え間ない欲望を、私は理解できない。

私たちの理想を守り、発信していくことでしか、この戦いに勝つことはできない。私たちがテロリズムに立ち向かなければならないのは明らかだ。そして、イスラム過激派に転じた若者たちはフランス生まれだと覚えておかなければならないのも明らかだ。

社会的に除外された若者はダーイシュ(訳注・過激派組織IS)へ駆り立てられる。彼らは、私たちがブルキニについて議論しているのを、喜んで見ているに違いない。

ダーイシュのリクルーターは、信者を呼び寄せるのにこの議論を利用するかもしれない。「ご覧なさい、この国はあなた向きではありません。女性たちは汚名を着せられ、慎み深さは配慮されません。法律がイスラム教徒を支持することは決してないのです。仲間に入りましょう」と言う可能性もある。

私は、SNSで目にする怒りと、理性的な意見のなさに愕然としている。この恐ろしい夏の真っ只中に、なぜ私たちはナチスから我々を解放し、すべての信仰に属した英雄たちについて考えられないのか。

なぜ私たちは、子供たちや外の世界に与えているイメージについて考えられないのか。

イスラム教の団体や集会について、上院のプロジェクトチームとともに発行したレポートは、公平な目で見て、フランスにおけるイスラム教は国の法体系と1905年の法律とも適合しているとはっきりと示した。この本格的で、教育学的なレポートは、すべての人が複雑な状況をよりよく理解し、技術的な解決策を見つけ、私たちの同胞であるイスラム教徒が威厳を持って信仰を持ち続けるのに有効だとみなされている。

しかし、真剣な議論に興味を示しているものはいないようだ。人々は恐怖の波に乗り、それが平凡な政治運動を動かしている。

個人的な見解では、感情を優先して理論を抑え込む風潮を遺憾に思っている。恐れや他者への同情、それらに連鎖する反応は理解できるが、今の政治的指導者たちは怒りを煽っているか、それよりもひどいことに、沈黙を貫いているようにしか見えない。

法律はどの場所においても適応されるべきだ。ヘイトスピーチは絶対に許されるべきでない。私たちが平穏を取り戻せる唯一の方法は、フランス共和国の価値観に立ち返ることだ。自由、平等、博愛そして政教分離だ。

個人的には、これからの数カ月と大統領選挙については非常に悲観的に考えている。

ハフポストフランス版英訳を翻訳・加筆しました。