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『16歳の語り部』――子どもたちが歩んできた3.11

2016年02月18日 16時02分 JST | 更新 2016年02月18日 16時09分 JST

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東日本大震災による津波被害を受けた宮城県東松島市に、3人の高校生がいる。 彼らは、あの日をただのつらい過去にせず、学びに変えるために立ち上がった「若き震災の語り部」だ。彼らはこの5年間、何を思い、何に迷い、成長してきたのか。なぜ、あのつらかった日のことを語り出さねばならなかったのか? 絶望の風景から未来へと歩き出した3人の高校生の言葉をまとめた『16歳の語り部』(ポプラ社)から、一部転載する。

16歳の語り部――雁部那由多(がんべなゆた)

あの日、あのとき。

僕は、小学5年生だった。体育館で体育の授業を受けていた。

学校に迫り来る津波を見た。目の前で人が流されていった。


がれきの山に遺体を見た。自宅はヘドロに埋もれていた。

行方不明の友だちは帰ってこなかった。

僕たちは震災を口にしないように気をつけて、

何もなかったかのようにふるまった。


あれから5年。僕は語り伝えたい。

あの日のことを、自分の言葉で。

二度と悲しみが繰り返されないように。

あの日のこと

2011年3月11日午後2時46分。

あの大きな揺れを感じたとき、僕は大曲小学校(東松島市)の体育館にいました。5時間目、体育の授業中でした。

「この前の地震よりかなり大きいぞ」

僕たちのクラスは、先生の誘導にしたがって体育館から直接校庭に出ました。体操着に上靴のままでした。

校舎からも、続々とほかのクラスの児童や先生たちが出てきました。2日前の3月9日にも大きな地震があったばかりで、みんなそこまであわてることなく避難できていたと思います。

しばらく校庭にいると、保護者がぽつぽつと迎えに来ました。僕の母はちょうど家にいたようで、学校まで僕と妹を迎えに来てくれました。僕は当時小学校5年生、同じ学校には1年生の妹がいました。家は学校から300メートルほどで、迎えに来たのは3時すぎと早いほうだったと思います。ランドセルや着替えは教室に置いたまま、母と妹と3人で家に帰りました。

家に帰ると、先ほどの揺れで家具は倒れ、いろいろな物が散乱して、足の踏み場もありません。ちょうど同じころに親戚に送られて帰宅した祖母と休みで家にいた父も一緒になって、みんなで少しずつ片づけをはじめました。

15分くらい経ったころだと思います。父が持っていた無線から、女川(牡鹿郡)に6メートルの津波が来たという情報が流れてきました。あの日は携帯電話もメールもつながらず、停電でテレビやラジオも使えなかったので、周りの状況がまったくわかりませんでした。でも、父は仕事の関係で携帯型の無線機を持っていたので情報を得ることができたのです。

家は海岸から2キロメートルしかありません。祖母、母、妹と4人で自主的に大曲小に避難することにしました。父は、近所の人たちに避難の呼びかけをすると言って、僕たちと別行動を取りました。

近くに高台もないし、避難できるところは小学校だけ。近所の人たちも続々と小学校に集まってきました。防災無線での避難指示はなく、それぞれが自分たちで判断するしかありませんでした。あとから聞いた話ですが、地震で設備が故障していたようです。

黒い津波

時間を追うにつれて、避難してくる人もどんどん増えていきました。小学校の近くに住む人たちは徒歩で避難していましたが、中には車で避難してくる人もいて、校庭の3分の2くらいが車で埋まりました。住民も生徒も体育館にいったん集まったのですが、午後3時半ごろ、津波が来るという情報が入ったようで、みんなで校舎の3階に移動することになりました。

子どもたちから先に移動することになり、先生に先導されて、僕たちは自分の荷物を持って3階の図書室に上がりました。でも、避難してすぐ、

「そうだ。外履きを下駄箱に入れたままだった」

僕は靴のことを思い出し、よく考えずに昇降口にひとりで向かったのです。

今思えば、本当に軽率な行動でした。昇降口は図書室からいちばん離れたところにあったので、みんなが上ってくる階段とは別のところから下りていきました。

海側に面する玄関口からは校庭が見えます。階段を降り、自分の下駄箱に近づいたとき、昇降口正面に停めてあった消防車やほかの車の間から、黒い水が校庭を這うように、静かに流れ込んできているのが見えました。

「そんなに大きな波じゃないし、急いで靴を取れば足が少し濡れるくらいかな。まあ、大丈夫だろう」

そう思い、その波が近づいてくるのを見ながら、靴を取りに玄関口のすぐ近くまで行きました。そのときです。

突然、大きな波が横からブワッと押し寄せてきました。波の色はどす黒く、重油とヘドロが混ざったようなもの。一度足を取られたら動けなくなりそうな、田んぼの泥のような波。

僕は、たった1メートル先を流れていく波を前に、逃げもせずただその場に立ちつくしていました。避難途中だった大人が5人ほど、僕の目の前で黒い津波にさらわれていったのです。

あのときの光景は、今でも目に焼きついています。

そのうちのひとりに、僕のいる玄関口まであともう少しのところに来ていた50代くらいのおじさんがいました。その人は波に足を取られながらも、僕の目を見て、僕に向かって手を伸ばしていました。

でも僕は、手を伸ばすことができませんでした。おじさんの手をつかんだら、自分が助からない。直感でした。我に返った僕は口をぎゅっと結び、片手に外履きを抱え、波に胸までのみ込まれて流されていくその人から目をそらし、図書室に向かって全力で走り出しました。その間、一度も後ろを振り返りませんでした。

息も切れぎれに図書室に戻ると、同じクラスの友だちと合流できました。ふと奥のほうに目をやると、体育館から移動してきた人たちが窓のところに集まって、口々に何かを言いながら外を見ています。津波が押し寄せる中、逃げ惑う人、車に乗ったまま動けなくなってしまった人に向かって、「校舎に上がれ!」「逃げろ!」「早く! 早く!」と、みんな大声で叫んでいました。

僕は呆然として窓に歩み寄りました。国道に面する窓から、車に乗ったまま津波に流されていく男の人が見えました。黒い津波が、がれきとともに、家や車、人を流していきました。大人も子どもも、日が暮れるまで、壊れていく町の様子を窓からずっと眺めていました。

避難所生活がはじまった

大曲小学校の1階は完全に浸水。体育館もまったく使いものになりませんでした。小学校に避難してきた人たちは校舎の2階と3階に分かれて、真っ暗な中、寒い夜を過ごしました。部屋の照明はつかないし、防寒具も手持ちのものだけです。教室にあったカセットデッキのラジオも、電池が入っていなかったのでコンセントなしには使えませんでした。外で何が起こっているのかは、まったくわからない状況でした。

「寒いなあ」

「お腹すいたなあ」

「これからどうしようか」

そんなことを思いながら、午前2時ごろまで友人と起きていました。教室のカーテンが敷かれた床に横になりましたが、床はかたくて冷たくて、体も痛い。でも疲労感からか、不思議とすぐ眠りにつくことができました。

翌日になって波は引きはじめましたが、状況は変わらず、食料の配給もありません。でも、中には食料を持って避難してきた人たちもいて、彼らは自分たちだけで自分たちの分を食べていました。

僕たちは一度家に帰ったとはいえ、棚から食料を持ち出す余裕もなく、着の身着のままで逃げてきたので、水も食料もありません。横でカップラーメンを食べている人がいても、それをうらめしそうに見ているだけでした。ただ、水に関しては、2日目にはみんなで分け合うことになったので、少しずつ飲めるようになりました。

3日目までは2階も3階も、教室はどこもぎゅうぎゅう詰めでした。このとき、大曲小学校には約870人が避難していたようです。大曲小の記録によれば、1人につき食パン1/5枚、飲料水はコップ1センチメートル、毛布は2人に1枚が配布されたとあります。避難者の地区分けもはじまり、誰が室長になり、救援物資をどのように分配するか、徐々に仕組みが出来上がっていったのです。

友だちを探して

避難所生活3日目。僕はあまりにもお腹がすいて、「これ以上食べないと本当に死ぬ」と本能的に思いました。

早朝、友人とふたりで、まだ完全には水の引いていない校庭に出てみました。水たまりの中に魚が何匹か泳いでいるのが見えたので、それを食べようかと思ったのですが、黒いヘドロの波で打ち上げられた魚です。臭くて食べられたものではありません。

そのとき、たまたま転がっていたインスタントコーヒーの瓶を見つけたので教室に持ち帰り、少しずつつまんで空腹をごまかすことにしました。拾ったときは未開封の状態だったのに、いざ食べてみるとコーヒーとは思えない、塩辛く、どぎついヘドロの臭いがしました。

インスタントコーヒーを食べて空腹をまぎらわすと、僕は大人たちががれき撤去の作業をはじめ出すのを見計らい、誰にも言わずにひとりで学校を抜け出しました。朝7時くらいのことです。空腹でふらふらでしたが、周りがどうなっているのか知りたかった。それに何より、当時のクラスメイトから「行方不明になった」と聞いた友だちを探しに行きたかったのです。

あの日、母が迎えに来る直前まで僕は彼女と話をしていました。彼女の家は、僕の家とは反対の大曲浜方面。僕は、彼女に一言別れを告げてから家に帰りました。もう二度と会えなくなるなんて、思いもせずに。

最初に向かったのは、学校からすぐの国道45号線の交差点でした。

あの日、図書室の窓から見えた、車と一緒に流された男性が流れついたところ。知らない人だったけど、車から逃げてくれていることを祈りながら足を運びました。交差点近くにはがれきが積みあがり、その中にぼろぼろになった車を見つけました。

「あの車だ!」

がれきを少しかき分けると、その方の遺体が出てきました。あの男性に違いない。でも、なぜだか同じ人には思えませんでした。人は亡くなると、こんなにも変わってしまうのか。そんなふうに思いました。その方の真っ白になった顔や腕は、今も忘れられません。

当時は亡くなった方がいるところに、大人たちが目印として赤い三角の旗を立てていました。ちょうど近くに旗を持っている大人がいたので、「こちらにもいらっしゃいますよ」と伝え、新しく旗を立ててもらいました。

そこから僕は、友だちの家のあった大曲浜のほうに向かいました。見つかるわけがないと頭ではわかっていたのですが、行かずにはいられませんでした。

道はがれきの山で、大人たちがそれを手作業で路肩によけていました。そして、その脇にはがれきと同じように、毛布などの布に包まれた遺体がたくさん並べられていました。

数日前まで同じ人間として生きていたのに、亡くなったとたん、こんなふうに「もの」みたいに扱われるのか……。僕は悲しくなると同時に、こんな扱いをする大人を、薄情だと思いました。でも、当時は生きている人が最優先でしたから、遺体の回収は後回しになっても仕方がなかったのです。

今考えれば、本当に悔しくて仕方がなかったのは、作業にあたっていた大人たちだったと思います。大人たちも、いち早く遺族のもとに戻してあげたいと思っていたはずです。でも、当時の僕には、そう思えるほどの心の余裕はありませんでした。

結局、がれきとまだ引ききらない水に道をふさがれ、大曲浜に行く途中で引き返しました。

僕の家

そのあと、僕は自宅に向かいました。津波が来て、自分の家がどうなったのか、確かめておきたかったのです。幼いころから暮らしてきた家だし、大切にしていたものも全部家に残したままでしたから。

家の外観はかろうじて保たれていました。でも、一階の窓は割れて、中はヘドロで埋まっていました。それでも、こんな状況の中、むしろよくここまできれいに残ったな、と思いました。

「自分の部屋にあるものを取りに入りたい」

そう思いましたが、足元はひどくぬかるんでいたし、ヘドロやガラス片、がれきも散乱していて、残念ながら中には入れませんでした。僕はしばらく、外から変わり果てた家を眺めていました。

ちなみに、家族と一緒に家を見に行ったのは、震災から1週間経ってのこと。そのころになるとがれきもだいぶ片づいたので、両親が連れていってくれたのです。