コミュニケーションの「作法」-多様なメディア選択に求められること:研究員の眼

電話で受信者が名乗らずにいきなり『もしもし』となると、どうも違和感を覚えてしまう。

私は仕事でもプライベートでもパソコンをよく使うが、携帯電話やスマートフォンを持っていない。そのため電話は固定電話、メールはパソコンメールを使う。

しかし、世の中ではケータイやスマホの普及により電話もメールもそれらが使われることが多い。その結果、私は電話やメールによる日常のコミュニケーションにおいて違和感を覚えたり、思わぬ誤解をしたりすることがある。

例えば、電話をかけた時に相手が名乗らないことがある。固定電話では受信者と発信者がお互いに名乗ることが「作法」だが、ケータイ同士では発信時に受信者は特定され、受信者も発信者の名前をすでに特定しているために固定電話の最初のプロセスが省略されるのだろう。

しかし、電話で受信者が名乗らずにいきなり『もしもし』となると、どうも違和感を覚えてしまう。

パソコンメールは文書の延長上にあり、従来の文書作成の「作法」が踏襲されることが多い。全体の内容を表わす標題や宛名、発信者名、日付を入れる。接続詞なども使い、文章が複雑になったり長くなったりする。

一方、携帯メールは日常会話の延長上にあり、標題や発信者名、文中の主語等が省略されたり、絵文字が挿入されるなど、文体自体が口語体でショートセンテンスが多い。

メールがケータイ同士やパソコン同士の場合はよいが、パソコンメールと携帯メールが相互にやり取りをすると問題が生じる。

パソコンで受けた標題がない携帯メールが迷惑メールになることもある。冒頭から用件が書いてあったり、主語や接続詞の省略、絵文字の挿入、くだけた話し言葉の文字化に驚くこともある。逆に、長文のパソコンメールをケイタイで読むのは苦痛だろうと想像される。

現代社会は多くのメディアが混在し、人はそれぞれの特性をみながらメディアの選択を行っている。SNSやメーリングリストなどの言論や情報共有の場の多様化も進んでいるが、そこにも各メディアの特性に合わせた使用上の「作法」がある。

特に異なるメディアが交錯する場合、各メディアの特徴を理解した上でコミュニケーションをとらないと想定外の誤解を招くこともある。

究極のコミュニケーションは、対面によるものだろう。対面では言葉の抑揚(イントネーション)や間の取り方、双方の表情や身振り・手振りも重要になる。言葉が全く通じない外国に行っても、意外と意思が伝わることがあり、人間のコミュニケーションは言葉以外も大きく関与していることがわかる。

多様なメディア選択が広がる今日、文字情報の限界や各メディアの特徴を知り、コミュニケーションの「作法」を考えること自体が、実は重要なコミュニケーションの一部ではないかと思うのである。

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(2016年11月1日「研究員の眼」より転載)

株式会社ニッセイ基礎研究所

社会研究部 主任研究員

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