『沈黙』が語ること-現代社会の「声なき声」を聴く:研究員の眼

いつの時代も、大きな声の強者が支配するのが世の常だ。そのなかで声を挙げられない大勢の弱者"Silent majority"は「沈黙」に埋没する。

マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙』(原題:"Silence")が話題だ。

日本で公開前の今年正月、NHK・BSスペシャル『巨匠スコセッシ"沈黙"に挑む~よみがえる遠藤周作の世界』という2時間番組が放映された。監督や出演者へのインタビューを交え、映画の製作過程が詳しく紹介されたことからも注目度の高さがうかがえる。

この作品は1966年に出版された遠藤周作の代表的歴史小説『沈黙』を原作としたアメリカ映画で、窪塚洋介やイッセー尾形など日本人俳優の演技も素晴らしい。

ストーリーは、キリシタンへの弾圧が始まった江戸時代初期に、キリスト教の布教のために日本を訪れたポルトガル人宣教師と隠れキリシタンの受難を描いたものだ。

過酷な弾圧のなかで殉教する信者もいれば、耐えかねて棄教(原作中では「転ぶ」と表現)する人もいる。前者を「強者」、後者を「弱者」とすると、この作品は弱者に光をあてたものだ。残酷な拷問に屈して、踏絵を踏まざるを得なかった弱い人間の苦しみを克明に描き、弱き者の「沈黙」を照射しようとする。

どんな受難に対しても神は沈黙を守り、助けようとしない。「転んだ人」は、拷問と棄教者としての二重の苦しみを味わう。

司祭が踏絵を踏む時、『お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ』というキリストの声を聞く。

遠藤周作は、講演のなかで『われわれ人間は自分の踏絵を踏んでいかないと生きていけない場合がある』と述べ、「転んだ人」の沈黙に声を与えようとしたのだ。

いつの時代も、大きな声の強者が支配するのが世の常だ。そのなかで声を挙げられない大勢の弱者"Silent majority"は「沈黙」に埋没する。

スコセッシ監督の『沈黙』も、声なき弱者に耳を傾け、弱き者こそ救われる社会を求めているのではないだろうか。日本でも昔から『善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや』という親鸞聖人の教えが、よく知られている。

自分の考えを論理的に語る「雄弁」は、重要な能力だ。スピーチの名手である米国・オバマ元大統領の演説を聞くと、言葉の持つ力は偉大だと思う。

正々堂々と自己主張もできずに黙り込んでいることは責任放棄に過ぎない。しかし、それでも自己主張できない人がいることを慮り、「沈黙」に耳を傾けることを忘れてはならない。

イギリス人の思想家トーマス・カーライルの『衣服哲学』に、『沈黙は金、雄弁は銀』("Speech is silver, silence is golden")という格言があるが、本当の「沈黙」とは、「神の沈黙」が示すような言葉にできないほど深い意味が込められた「声なき声」のように思える。

関連レポート

(2017年2月28日「研究員の眼」より転載)

株式会社ニッセイ基礎研究所

社会研究部 主任研究員

注目記事