核兵器に関する国際法のギャップ-比喩の裏に隠された本意とは

「法のギャップがあるかないか」という論争はそれ自体が的外れのように感じられます。

Photograph: Titan II ICBM courtesy of the Titan Missile Museum, Sahuarita, Arizona, USA, www.titanmissilemuseum.org

今週は、1996年7月8日に国際司法裁判所(ICJ)が核兵器に関する勧告的意見を出してちょうど20年にあたります。この中に、14人の判事が賛否同数に割れたために裁判所長の賛成票で多数意見となった次のような一節があります(和文私訳、以下同じ):

一般的には、核兵器の威嚇・使用は武力紛争に適用される国際法の規範、特に人道法の原則や規範に反すると言えよう。しかしながら、国際法の現状や裁判所が入手し得た事実に鑑みると、国の存続そのものが脅かされるような自衛の極限的状況における核兵器の威嚇・使用が合法あるいは非合法であると断定することはできない。

この見解は核兵器の合法性について様々な主張を生み出しました。その一つによれば、合法的に核兵器を使用できる余地が残っていない事実に変わりはなく、いま不足しているのは核兵器の違法性を確認する条約のみです。

筆者を含めた大多数にとっては、今日の国際法に核兵器使用の明確かつ包括的な禁止条項を見出すことはできません。

既に完全に禁止されている生物兵器・化学兵器といった残り二つの大量破壊兵器に比べると、これはパラドックスとも呼べるでしょう。さらに踏み込んだ解釈として、現行法は例外的状況での核兵器使用を認めており、ICJの勧告的意見はこの事実を正しく認識したにすぎない、とするものもあります。

Official signed and sealed copy of a judgment of the International Court of Justice. Photograph: Jeroen Bouman - Courtesy of the ICJ. All rights reserved.

ギャップがあるとする見方

2014年12月にウィーンで核兵器の人道的影響に関する会議が開かれた際、主催国のオーストリアは「核兵器の所有、移譲、製造や使用を全般的に禁止する包括的な法的規範はない」と結論づけました。

また会議閉幕時に表明された「オーストリアの誓約」は、諸国に「核兵器禁止・廃絶へ向け、法的な隙き間を充填するために効果的な措置を見出し講ずる」よう呼びかけました。この誓約はのちに国連総会決議にもなり、現在120を超える国々から公式に支持されています。

「隙き間」あるいは「ギャップ」という比喩はすぐ各方面で用いられるようになりました。2015年4月には、核軍縮分野で活動が活発な二つのNGOから、「法的ギャップの克服:核兵器禁止」(原題:Filling the Legal Gap: The Prohibition of Nuclear Weapons)という報告書が発表され、同年中に核兵器禁止条約締結へ向けた交渉が開始されるべきであると主張されました。

核兵器不拡散条約(NPT)の2015年運用検討会議が最終合意文書を採択しないまま閉幕した際、締約国の一部は核軍縮が何を意味すべきかについて「現実認識、信憑性、信任性、倫理上のギャップ」が認められると発言しました。また、慣習国際法は既に核兵器を禁止しているとする立場から、あるのは法的ギャップではなく禁止不遵守というギャップだという意見も出されました。

ギャップはないとする見方

こうした動きに対し、ギャップの存在自体を否定する論調も目立つようになってきました。このブログでは、二つある文脈の一つ、つまり核兵器禁止に関するギャップに絞って考えていきたいと思います。(もう一つの文脈は、NPT第VI条が課す核軍縮義務の内容に関するギャップです。アメリカ合衆国イタリアはこの点でもなんらギャップは存在しないと主張しています。)

今年4月、カナダとオランダは国連で開かれている核軍縮作業部会へ報告書を提出しました。参加者の多くが禁止に関するギャップを埋める必要があると訴える中、オランダはそれを「いわゆる」ギャップと呼びはするものの、その存在を直接否定はしませんでした

その代わりオランダの報告書は、一般国際法が国家の軍備に何ら制限を課すものではない(1986年ニカラグア事件のICJ判決文を引用)こと、また1996年の勧告的意見が曖昧さを残していること、を強調しています。これは「国際法が核兵器そのものを禁ずる条項を有しない」限りにおいてギャップは存在しないのだ、と言っているようにもとれます。

カナダの報告書はもっと明確です(作業部会会合でも同じ趣旨の発言がありました)。

それによれば、単に法や法的規範が課されていないということと、そこにギャップが存在するということは必ずしも同義ではありません。「核兵器禁止を追求する熱意は理解できるが、現在の慣習国際法は核兵器使用・保有を禁止していないこともまた事実」なのです。カナダは「法のギャップに沿った議論は、核兵器禁止を交渉する上で倫理的・人道的ではなく法的根拠があるかのような誤解を招きかねない」と警告します。

カナダの報告書は、「本当の意味での法的ギャップとは、法や法規範の欠如が『本質的に』違法な状況の解決を妨げている事態のみを指す 」と論じています。「本質的違法性」という概念は不可解です(ニュージーランドの外交官による反論はこちら)が、ギャップは実定法が違法行為を法典化していない場合にのみ存在するのだ、と好意的に解釈することもできるでしょう。 そうすると、今日の慣習国際法が核兵器を禁止していない以上、核兵器禁止条約の欠如は法のギャップに相当しない、と考えることができます。

Mind the ... Photograph: Jamie Harrison - Courtesy of Flickr. All rights reserved.

ギャップの有無が本題から逸れている理由

「ギャップがない」という立場は、禁止の欠如と規範の欠如とを同義に扱わないことを示唆しています。国際法には核兵器を全状況の下で禁止する条項がありません。それは逆に、国際法は一定の状況であれば核兵器の使用を暗に認めていると言えます。たとえ暗黙であっても、許容は規範の一つです。

確かに、ここには法関係者を夢中にさせるような深遠で陰鬱に満ちたテーマが溢れています。実際こうしたテーマから博士論文や国際法キャリアがいくつも生まれました。禁止されていない行為が必然的に許容されるという原則は現行法と合致するか、国家の存続は本当に国際法上認められた権利であるか、ICJは実質的に欠缺(non liquet =「明白ならず」)を宣言したのか、またそうであった場合欠缺を宣言する権限を有していたのかなど、枚挙に暇がありません。

しかし、「法のギャップがあるかないか」という論争はそれ自体が的外れのように感じられます。核兵器に関する国際法にギャップがあると主張する時、問題にしているのは使用条件をめぐる規範の欠如ではなく禁止条項の欠如です。この論争の参加者は、国際法が今日核兵器禁止に至っていない点ではほぼ全員一致しています。これを法のギャップと呼ぶか呼ばないかはあまり重要ではありません

では、なぜこの合意をわざわざ隠蔽するでしょうか。それは法的ギャップを否定する側が彼らの論敵にとって最大の懸念を矮小化しようとしているからだ、と筆者は考えます。法にギャップがなければ、埋めるべきギャップも存在しません。

世界は今まで通り核軍縮へ専念することができます。逆に、ギャップの存在を認めてしまうと、それを埋める必要性を認めざるを得なくなってしまいます。核兵器禁止条項の欠如が法のギャップとして形容されることを防げれば、禁止推進派の勢いを削ぐことができるかもしれません。

もちろん、核兵器禁止条約の推進は「ギャップはそこにあるから埋められなければならない」などといった美意識に駆られて行う抽象的活動ではありません。なぜなら、ここでいうギャップとは、核兵器が全面的に禁止されていない現状を問題と認識し、さらにその解決を求める必要性を強調するための比喩に過ぎないのです。またこの比喩は、核兵器保有諸国や核傘下諸国が提案する核軍縮政策の中に禁止化が含まれていないことを浮き彫りにするのです 。

本意を見据えることの大切さ

1996年当時ICJ所長だったベジャウィ判事は、勧告的意見に添えた宣言の中で、問題の箇所が「例外的状況下での合法的核兵器使用を予見していると解釈される」危険に警鐘を鳴らしました。そして「正直なところ私は違った解釈をする義務があると感じるし、またそうした義務感があってこそこの箇所に賛成票を投ずることができたのだ」と続けました。

ギャップがあるとの主張は、核兵器禁止導入をもってそれを埋めよ、との主張に他なりません。また逆にギャップの否定は、国際法が一定の状況下での核兵器使用を容認するだけでなく、こうした法的容認が実は憂慮するに値しないという考え方を示しています。国際法は今のままでよく、変えたくなければ変える必要もない-ギャップがない、と言うことは、結局こういうことなのです。

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