「18歳選挙権」がうながす「若者政策」の可能性は

選挙権年齢の引き下げは、若者の政治関心を呼び起こすでしょうか。
時事通信社

5月下旬に、世田谷区内の大学で「18歳選挙権と若者の政治参加」について講演をする機会がありました。これまでにも、何度かこのテーマで大学生や高校生に語る機会がありましたが、おおよそふたつの話をしました。ひとつは自己肯定感についてです。私は、世田谷区の子ども意識調査結果を示しました。

世田谷区の小中学生2千6百人に聞いた区の調査(2011年)によると、「自分自身が好きですか」という質問に対して「はい」と答えたのは、小学5年生で52%、中学2年生では32%まで落ちています。年齢を重ねるごとに、子どもの自己肯定感が下がっていることがわかります。

また、「他の人から必要とされていると思いますか」という問いに「はい」と答えたのは、小学5年生で41%、中学2年生では31%となっています。

「自分自身が好き」に「いいえ」と答え、「他の人から必要とされている」にも「いいえ」と答える子どもたちがたいへん多いことに驚きます。中学生の7割近くが、「自分のことはあまり好きではないし、他の人から必要とされていない」と感じているという現実が今、私たちの前にあるのです。(「自己肯定感を奪うのは誰か」2014年11月11日)

小学生から中学生にかけて、また高校生から大学生へと成長するに従って、日本の子どもたちは自己肯定感が低くなり、自分の意見を主張せずに他者の意見に同調することを優先して、抑制的にふるまうようになってはいないかと問いかけました。

この点は、先にふれた「18歳選挙権」と深く関わっています。選挙権年齢の引き下げは、若者の政治関心を呼び起こすでしょうか。20歳以上の若者の政治的関心が低いままでは、18歳・19歳の新有権者の関心が跳ね上がるのは難しいようにも思います。先走った予想になりますが、7月10日の若者の投票行動の調査結果が公表されれば、「若者の政治的関心をいかに高めるか」が課題となり「有権者教育」「政治教育」はどうあるべきか、という話になります。

私は、「中学生、高校生で模擬投票」等の時間を設ける必要を認めつつも、「それでは遅すぎる、小学生から意見交換・討論と自己決定の機会をつくるべきだ」と主張しています。

学校での自治は、「民主主義の培養装置」として重要です。いま「18歳選挙権」を前にした高校生たちが、互いに意見をぶつけあい、小さなことでも「みんなの意見」によって決定するプロセスをどれだけ学体験しているのかが気になります。

小学生だった頃、ホームルームの時間を楽しみにしていました。小さな出来事も徹底的に話し合い、少数意見も尊重して、やがてクラスの合意を形成していくプロセスは、民主主義のトレーニングだったと思います。小学校から異なる意見をぶつけあいながら討論し、話し合いの結果は尊重する、という場数を踏むことの大切さを感じます。(朝日新聞2015年12月12日「耕論」インタビューより)

(「準備されたレール」から中学生で降りる「早すぎた選択」2015年12月12日

小中学校にかけての成長過程で、「自分の意見を言う」ことで「何かが良くなる」「環境が改善する」という経験を、多くの若者が持っていません。「自分の意見」は、他の意見とあわせて合意事項をつくり、何かを決めるために求められたのではなく、教員による総合的な評価の対象だったり、子どもたちの意見として参考にする程度にすぎず、決定は教員や大人に委ねられます。

子ども時代に、「意見を言って改善されてよかった」という経験がなく、逆に「余計なことを言ったばかりに、クラスで浮いた存在になった」と孤立を深めたり、ひどい場合にはいじめの契機となったりする場合もあります。

この小・中学校の「空気」を変えないと、「政策の選び方」や「投票の判断材料」等を疑似経験する「模擬投票」も上辺だけの「政策選択」や投票に至る「考え方の技術作法」になってしまいます。自分の意見を形成し、候補者の政策と照らし合わせながら選択し、どの候補者も必要な政策を述べていなければ政党や議員へのロビー活動をするか、若者世代の代表を擁立する...これが政治参加のプロセスですが、そのはるか手前の投票が目標になっていないでしょうか。

私は、小中学校で「政治教育」をしろと主張しているわけではありません。むしろ、民主主義をかたちづくる市民としての教育(シチズンシッフ教育)が必要だと考えています。決定的に重要なのは、子どもたちが周囲のことについて語り合い、自己決定する場面です。身近なことでいいから、小中学校で児童・生徒による「小さな自治」を保証することから、自由闊達で政治的な意見交換が可能となります。意見を言うことは特別のことでなく、他者の意見がすぐれていれば自分の意見を修正することも堂々とやるのがいいと思います。政治的関心を高めるためには、子どもの頃から自然体で意見を言う習慣が必要です。

講演では、この点を強調した上で、世田谷区で3年前に「若者支援担当課」をつくり展開している事業を説明しました。「若者が政治に関心があるか」が問われていますが、そもそも「行政は若者に関心が薄い」という現実も直視する必要があります。高齢者や業界団体の声は行政に届きやすいのに対して、「若者の声」はめったに入ってきません。そこで、他自治体に先駆けて「若者支援担当課」が発足しました。

若者支援を手がけるにあたっては、およそふたつの方向性があるという議論になりました。ひとつは「中・高校生の活動や表現の場」を広げていく分野です。もうひとつの方向性は、学校や職場での人間関係に悩んだり、仕事探しで苦労していたり、ひきこもり等に苦しんでいる若者を対象とした「生きづらさを抱えている若者支援」の分野です。(「児童養護施設出身者」への支援策は、「若者支援担当課」から生まれた 2016年2月9日)

中高生と区長との対話集会がきっかけになって、中高生自身が管理・運営を試みる「若者の活動拠点」の実験が成功したことで、宿泊も可能な青少年交流センターがリニューアルし、児童館の中高生利用も進んだことや、引きこもり支援や成人発達障害就労支援に取り組んだこと等を話しました。世田谷区の若者政策が具体化するにつれて、中高生や大学生の活動も活発になってきたことも話しました。

1時間にわたる講演終了後に、いくつかの質問を受け付けました。そして後日、感想や質問が書き込まれた学生からのアンケート用紙が送られてきました。熱心に書き込んでいる学生が多く、担当の先生は手応えを感じたそうです。いくつかを紹介してみたいと思います。

▼「自分を好きか」「自分は他人に必要とされているか」の質問に、年を重ねるごとに「いいえ」の解答となって、自己否定感が強くなることが悲しいことだと思いました。でも、日本はあまり自分を主張することは好まないし、そういうことを恥ずかしいと考えると思うから、実際の心のうちは分からないと思った。自分を好きと言うのは恥ずかしいという概念が植えつけられている日本は怖いと思った。

おそらく小学校5年生と中学2年生を比べると「照れくさい」という意識が大きくなっていることは否定できないと思います。しかし、そうした「恥の意識」もまた、集団の中で自分がどのように見られているのかを読み取ろうとする同調圧力の影響を受けているとも言えるのではないでしょうか。小中学校で形成された消極的かつ抑制的な人格は、10代後半から20代にかけて、大きな転機がなければ、そのまま大人へと継承されていくと考えています。

▼「現代の若者は意見を持たない」と斬り捨てるのではなく、「それは自分の意見が通ってきたことがなかったからだろう」とおっしゃったことが印象深い。最近は何か非があると、「ゆとり世代だから」ということで片づけられてしまうことがしばしばで、このように(私たち学生と)視線を合わせてくれることが新鮮だった。

「自分の意見を言うこと」のプラス効果を体験することは、市民社会の成り立ちと政治や社会への参加を学ぶシチズンシップ教育にとって至極大切な命題です。私は、今の小中学生のもとに学生たちが教室サポーターとして入り、小中学生の身近な「自己決定」を見守る役割をすることにも期待しています。「子どもの意見」が身近な環境改善につながるように、伴走しながら気づくことは多いのではないでしょうか。

▼市区町村の政策に、自分たち若者は含まれ(あまり考慮されて)いないのだと勝手な先入観を持って始めはお話を伺っていたのですが、これほどにも若年層に耳を傾けて、実際に動いて下さる政治家の方がいらしたのかと感銘を受けました。やはり、大切になってくるのは「自分の意見を相手に伝えること」だと再認識しました。小中学生の頃、歯向かって何人もの先生と闘ってきたことを肯定して下さって、本当に嬉しかったです。

若者政策を考え実行する根拠は、私自身が20代から30代にかけて学校生活で悩める中高校生たちと向き合い、学校事件の現場を歩いて、中高校生たちに向けた記事を書き続ける日常を送ってきたことが背景にあります。いわば、若者とどのように向き合うのか、若者政策はどうあるべきかを考えるのは、政治家としての私の原点にふれるテーマなのです。

▼今、若者の政治離れという言葉をよく耳にします。多分、その理由は「自分が参加しなくてもあまり変わらないだろうな」とか、「本当に自分の意見が反映されたのたのだろうか?」等の気持ちからだと思います。今日の保坂さんの話を聞いて、このように行動して下さる大人が増えれば、私たち若い世代も「政治に参加したい」と思えるようになる。もちろん、機会を待っているだけではなく自発的に行動しなければと思いました。

若者政策に若者が関心を示すかどうか、大学生の前で話してみる前には、まだ確信が持てませんでした。政治不信が強いと「若者政策」という言葉にも「うさんくささ」を感じる場合もあるのではと心配してきました。若者の交流スペースや居場所、相談機関を利用している若者は、メリットを体験したことで「若者政策は大切」だと感じてくれると思いますが、講演の場で、若者自身がこうした政策に親近感を覚えて大きな関心を示してくれたのは「未来への萌芽」だと思いました。

▼テレビ等で政策と聞くと、「社会保障」「安全保障」等々、あまり若者には関係ないことが多いように思える。特に、若者向けの政策というのは聞いたことがない。しかし、世田谷区はこんなにも若者向けの政策をやっているのかと驚きました。若者と言うと選挙に行かないから対象にされないというのが一般的ですが、あえてそこに焦点を当てて政策を行うことで成熟した民主主義の実現ができると思いました。

若者たちが、政治や行政に対して「若者政策」を要求するという構図も、将来はありえるということです。若者たちが「既存のメニューを選ぶ」立場から脱却して、「メニューになければレシピを作成し政策提案する」ことを始め、それでも既存政治が無視するようなら「世代代表」を政治の場に送り込むという展開です。

▽これからもっと、若者の意見が反映されるようにするには、どうしたら良いですか。他の区や市の長は、区長のような方ばかりではないので、その時に私たちができることがあったら教えていただきたい。

世田谷区も含めて、「18歳選挙権」は実現したものの「若者の政治的関心」を高め、どのように「投票率」をあげるべきなのか。各自治体の選挙管理委員会は悩んでいるし、模索をしています。参議院選挙終了後に、高校生や大学生で同世代の意識調査を行い、「若者の政治参加」と「若者にとって必要な政策」を結びつけて議論する場を呼びかけるのも一案だと思います。

▽区長は自分の意見、あるいは異なったものがあるなら積極的に述べていくべきだと言っていた。なぜ、逸脱することをためらわないのか。少数派の意見は所詮少数派であるわけで、多数派に飲み込まれてしまうのは仕方がないのだと思うのだが、その点はどう考えているのか聞いてみたい。

日本社会の多数派は、「沈黙の現状追認」であるかもしれません。発言し、意見を述べること自体が、すでに少数派です。高校生が「教室で何か言うと、『意識高い系』とくくられてしまう』と嘆いていましたが、「意見を持たない」ことが多数派であるとすれば、多数派自身に確たる進路はありません。 新しい考え方や政策は、歴史上、必ず少数派から始まっていき、やがて多数の支持を得ていきます。問題は少数でありながら、「排他的な仲間意識」や「少数派の視野の狭さ」を超えていけるかだと考えています。

「ずばり元気の源は何ですか」という質問もありました。個人の経験や世代を超えて、言葉で伝えることで「温かい相互関係」が生まれていく場で、人はまた生まれ変わります。私の「元気の源」は、そんな場に恵まれていることかもしれません。

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