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「戦争の惨禍」が難民を生み、「日本の難民認定」の質が問われている

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TURKISH RESORT OF BODRUM
ASSOCIATED PRESS
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波打ち際に打ち上げられた動かない幼児の姿...。

シリア難民の苦境についてニュースで伝えられるたびに、暗澹たる気持ちになります。家族で手を取り合って戦乱の地を離れ、新天地をめざしながら途上で海に飲み込まれてしまった幼い生命の最後に、胸を締めつけられます。

欧州へ、ドイツへと移動する難民の背後には、斡旋業者に支払う金銭の蓄えがなくて、国を出ようにも出ることの出来ない多くの人たちの存在があります。さらに、長く続いている内戦で疲弊し、亡くなったり、怪我をしたりした多くの人々がいます。

「20世紀が戦争の世紀だとすれば、21世紀は平和の世紀である」多くの人々がそんな期待をこめた希望を語っていました。私も期待を抱いていた者のひとりです。ところが、2001年9月11日にアメリカで起きた「同時多発テロ事件」は、そんな淡い夢を瞬時に打ち砕きました。「これは新しい戦争だ」と当時のブッシュ大統領が拳を振り上げた時、「報復の連鎖」という悪夢のシナリオが私の脳裏に走ったのを覚えています。

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テレビ演説でアフガニスタンへの軍事行動を表明したアメリカのブッシュ前大統領 2001年10月7日(AP Photo/APTN, File)

アメリカは同年10月に、さっそく「報復戦争」を始めました。アフガニスタンのタリバン政権を標的に、NATOを中心とした有志連合を形成して軍事攻撃を行ないました。この軍事攻撃によってタリバン政権は崩壊しましたが、暫定政権の基盤は脆く、タリバンは後に勢力を復活させて、不安定な軍事的緊張が続いています。

また、2003年には、アメリカはイラク戦争へとなだれこみました。戦争の理由は「大量破壊兵器が存在する」という断定でした。フセイン政権は崩壊し、やがて見つけ出されたサダム・フセイン元大統領は絞首刑とされましたが、「大量破壊兵器」はついに発見されませんでした。アフガニスタン攻撃でもイラク戦争でも、日本政府はアメリカを支持しましたが、その判断の過誤について、現在に至るまで省みていません。

日本はアメリカを支持したものの、憲法上の制約があることで「戦闘参加」には踏み込まず、一線を引いてきました。それぞれ「テロ対策特別措置法」「イラク特別措置法」という特別立法をつくって自衛隊を派遣しましたが、洋上での給油や「非戦闘地域」での人道復興支援活動と位置づけて、活動しました。

アメリカの戦争は正しかったのでしょうか。

無残なまでの破壊と、おびただしい死者、町で共存してきたイスラム教スンニ派とシーア派の対立の激化と不寛容な衝突...軍事力による制圧は、平和と安定をもたらすどころか、不信と憎悪を増殖させ、果てしない殺戮の連鎖を招いてきました。

アルカイダは国際テロ組織と呼ばれてきましたが、イラクやシリアに「支配地域」を広げる「イスラム国(ISIL)」の台頭は、その概念を塗りかえました。「9・11」以後の戦争は、アフガニスタン、イラク、シリアの人々に殺戮と報復、混乱と恐怖をもたらしました。

時間を元に戻すことは出来なくても、ふたたび過ちを繰り返さないことは出来るはずです。現在、欧州へドイツへと向かっている難民の人々が、住み慣れた故郷を捨てて手荷物ひとつで移動している光景に、「9・11」以後の世界を読み込まないわけにはいきません。

私たちにとっての「悪夢」は、戦乱の地で「憲法上の制約」を理由に、戦闘地域での武力行使を回避してきた自衛隊が、「安保法制」によって従来の姿勢を180度転換してしまうことです。国会で政府は、「法案が成立したからといってイラク戦争に参加するようなことはない」と説明していますが、国会の審議が始まる前にアメリカで「安保法制成立」を約束してくるような政権です。アメリカの戦争の後始末を依頼されて、きっぱり断れるでしょうか。

「国際社会の要請」という言葉がよく使われます。

日本の難民認定は「国際社会の要請」にはるか及ばないと言わざるをえません。私は国会議員だった1990年代後半から、衆議院法務委員会で何度となく難民問題を取り上げてきました。ほんの少しだけ改善は進みましたが、日本の入管行政は、難民申請に対して「原則拒否・例外認定」の姿勢を崩していません。

シリア難民と日本・難民支援協会

日本はシリアから遠く離れ、無関係に思えるかもしれないが、国内に400人以上のシリア人が暮らし、そのうち約60人が難民申請中である。

ビジネスや留学などで以前から日本に滞在していた人、安全を求めて国内外を転々とするなかでたまたま縁もゆかりもない日本にたどり着いた人など事情は様々だが、現在のシリアの国内状況では帰国ができないのは明らか。にもかかわらず日本政府が難民として認定したのは現在までにわずか3人。申請の結果が出た38人には人道的配慮による在留の一時許可が付与されたものの、欧米諸国の状況に比べて極めて冷淡な対応だ。

難民支援協会の記事を読んで、難民申請をしながら不認定となったケースを知り愕然としました。

シリアの裕福な家庭に生まれたジュディさんは、罪のない子供が殺される光景を目の当たりにしたのをきっかけに反政府デモに参加するようになった。地元の有力者だったため影響が大きいと政府に狙われ、一刻を争う状況のなか、たまたま手配できたのが日本の査証。身の危険の迫るジュディさんは、2012年、家族を残して取り急ぎ単身で日本に逃れることとなる。

日本に到着してすぐ難民支援協会(JAR)につながったが、ジュディさんの難民申請は日本政府に却下されてしまう。理由は「反政府デモの参加者には皆危険が生じるわけで、ジュディさん固有の危険ではない」といった趣旨のシリアの国情を無視した、理解に苦しむものだった。

http://www.huffingtonpost.jp/japan-association-for-refugees/syrian-refugees_b_8098966.html

政治的迫害は「反政府デモ」という集団ではだめで、ジュディさんに「固有の危険」を証明できなければ難民として認定できないという論理で、認定率が極端に低いのも、原則拒否を貫く「入管行政の固有の論理」ゆえだろうと思います。

日本が難民条約を批准する前、例外的に「国際社会の要請」に応えたことがあります。70年代半ば以降のインドシナ難民の受け入れです。私は次のようにツイートしました。

政府は、ベトナム人を中心としたインドシナ難民受け入れのために、定住促進センターをつくり、日本語教育や職業紹介・職業訓練をしてきました。こうして、難民条約批准前の「閣議了解」で受け入れを決めたインドネシア難民1万人以上を受け入れながら、一定の役割を果たしました。しかし、この時に設けられた定住促進センターや支援機関は、すでにその役割を終えたとして閉鎖されています。

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インドシナ難民受け入れのための「国際救援センター」の落成・開所式典に出席、ベトナム難民の幼児を抱く中曽根康弘首相(東京・品川区) 1983年04月21日

私は当時、難民条約を批准して難民認定制度を創設した日本が、数少ないとはいえ難民認定を重ねていった時に、かつてインドシナ難民を受け入れた「定住促進センター」等の施設を難民認定された人たちに対しての支援施設として機能させるべきだと主張しましたが、聞き入れられませんでした。

もう一度、日本の難民認定制度を見直し、支援システムを組み直す必要があります。シリア難民のニュースをはじめとする世界の難民の現状に、日本の政治の場が鈍感でいることは許されません。私も、入管行政に関わってきた者として、提言・協力を惜しまないつもりです。