青春の蹉跌(さてつ)――「自分は何者なのか」を果てしなく問い続けた

焦りと諦念が交錯する「考え事の空回り」も、回数を重ねると予期せぬ福音をもたらします。
Tokyo, Japan 2005
Tokyo, Japan 2005
Jasper James via Getty Images

これまでの私は、年長者が「昔話」や「武勇伝」を好むようになったら、現実から一歩距離を置いた時だと考えてきました。「自分が若かった頃には」という話ぶりを自分は繰り返すまいと決めていたのです。ただ、還暦も過ぎて年齢を重ねたせいか、このところは禁則を解いてもいいのではないかと考え始めています。

過去をふりかえる時間を忌避することは、仕事につぐ仕事に追われてきた日常の習性にひざまずく、現実に追随するだけの態度のようにも思えてきます。これまでの私は、性急に「未来への扉」を開こうとして、「過去の記憶」を邪険に封印してきました。 過去を見据えることができてこそ、未来をうかがうことが出来るのではないかと気づきました。

緊張と絶望 孤独の10代を越えた先に - 太陽のまちから - 2013年10月1日・朝日新聞デジタル&w

「ぼくは二十歳だった。それが、人の一生でいちばん美しい年齢だなどと誰にも言わせまい」(ポール・ニザン『アデン アラビア』より)

夜中に、長いこと身体の中に潜伏していた10代後半のころの記憶がよみがえり、苦悩と思索と試行錯誤の中にいた「あのとき」が目の前に現れることがあります。人はだれも若かった時代をまばゆいばかりの青春の記憶として飾りたがります。でも、私にとっては、苦しく、暗く、細い回廊を手探りで歩くような時期でした。

自分が何者であるのか、自分はどこから来たのか、そしてどこへ向かって歩んでいくのか――。出口のない暗闇の中、ただひたすら考え続けていました。そして、喫茶店の片隅に座っては、2時間も3時間もかけて、なんとか数行の文章をつづるということを繰り返していました。安物のボールペンを握りしめ、筆圧の強い文字を刻みつけるようにノートに書きつけていたのです。

「ぼくは20歳だった。それが、人の一生でいちばん美しい季節だなどと誰にも言わせまい」この名文句には、10代後半で酔いしれました。

こんなに直截で鋭いナイフのような文章に惹かれ、魯迅の雑感文を読みあさり、本物の言葉に出会いたいと飢えるように古今東西の文学を読み、「自分は何者なのか」を1行でも2行でもいいから自分の言葉で書き表そうと格闘する日々を過ごしていました。

10代後半だった私には、「畏(おそ)れ」が宿っていたなあと、40数年ぶりにふりかえると昨日のことのようにに思い出します。「これから自分はどうなるのだろうか」と考えるだけで、胸をきりりとしめつけられるような痛みと鈍い絶望感は、吐息を重くしました。小羊のように身を縮めて震える未来への不信と、この世界との折り合いの悪さに、自分の方から反応してドキドキと動悸が高鳴るような冷たい時間...。こうして、自分が無為に年齢を重ねて、時間を失ないゆくことへの「畏れ」であり、「自分だけの生き方をつくる」と宣言したものの具体性も計画性もなく、人生の設計図が描けないことへの苛立ちと焦りだったのかもしれません。

悩める若者だった私には、強い自己暗示がありました。それは、「自分は何者かにならなければならない」「一度限りの人生を燃焼しつくす道をひらきたい」というこだわりでした。自分で自分を持て余すほどに居場所を定めることが出来ず、熱く煮えたぎる激しい葛藤に突き動かされて、手あたり次第に本を読み、思索にふけり、運良く相手に恵まれると果てしない議論を挑んで、自分からの話が尽きることがありませんでした。

表層で軽い会話を楽しみ、青春のひとときを楽しんでいる同世代の若者たちの笑顔がまぶしかったことも覚えています。深刻に考え込み、自問自答で袋小路に追い詰めるような苦しい時間を過ごす、ひたすら独り舞台でした。誰もそんなことをしろと命じる人はいません。自分で深みに足を入れ、引き返すことが出来ずに、もがいていました。 暗闇の中にうっすらとした光さえ、発見できない毎日が続きました。

「何者かにならなければならない」と呪文のように自己暗示を繰り返してきた私は、そもそも「自分が何者なのか」という単純なことさえ、分からなくなりました。自分自身を理解し、把握できないのに、未だ見ぬ何者かになるための進路を拓くことなどできるはずがないのです。焦りと諦念が交錯する「考え事の空回り」も、回数を重ねると予期せぬ福音をもたらします。そうか、単純な認識にたどり着きました。

「私は、ほとんど何にもできず、この世界のことをほとんど知らないのだ」という到達点です。

なぜか、そんな達観の境地に立った時に、ほんのりと気持ちの揺れ幅が小さくなり、胸がドキドキするような「未来への畏れ」が少しづつ消え始めたのです。「私は何者なのか」という回答が出なかった問いに対して、「私は何者でもない」というトンチ問答のような回答は、唯一自信を持って断言できる私が獲得した「最初の言葉」だったのです。

「何者でもないからこそ、すべての選択が可能となる」「何者でもないおまえだから、これから何者にも結びつくことができる」「無であることを自覚してこそ有に至る最短の道である」等の断片的な文言をノートに書きつけていきました。

今こうして長い年月をおいてふりかえってみると、苦渋の日々こそ「心の脱皮」のプロセスだったように思います。幼少期から受験教育で鍛えられ、激しい競争環境にさらされ、その道半ばで「途中下車」した私には、現実的な社会のツールとしての学校プログラムや、具体的な進路をすべて断ち切っていたはずでしたが、「何者かにならなければならない」という自己暗示、強迫観念だけは捨てられずにいたのでした。

「あっ、自由」と、一条の光をかいま見た気持ちになりました。「何者でもない」というシンプルな自己認識は、長いこと苦しんできた混線した回路を整え、胸のわだかまりを溶解させていきました。

これまでの苦痛と焦燥を客観化することができました。所詮、読んできた本や、生半可な知識、そして脈絡なく散らかった「思考の断片」を大きな風呂敷で包んで、飾りたてて「何者か」に見せようとする「硬直した努力」をやめることが正しいと思ったのです。「おまえは、おまえだ。無理に何者にもならなくていい」と自己暗示を上書きする方向に傾きました。

もやもやしていた頭の中に新鮮な酸素が入ってくるような感覚となりました。狭い空間で、ギリギリと自問自答するような期間は、いつしか卒業していきます。ひとりの世界の観念で葛藤するよりも、他者の話を聞いて学び、知らないことは恥じることなく質問するようになりました。

「自問自答の苦行」に多くの時間を費やしたことで、ある「変化」が私自身の中に起きました。生きていく上での「直感」が研ぎすまされたのです。未来に何が起きるのかは正確に分からないても、現在すでに起きていることに宿っている「変化の兆し」をキャッチする感覚が働き始めたのです。現在、目の前にある事象には「過去の残影」が多く宿るものの、少数の「未来の兆し」が混在しています。そこに着目し、吟味して掘り下げることで、「未来の扉を開く鍵」を入手することができます。

私は「未来の扉を開く鍵」と書きました。どうしても、「未来へ」「未来は」「未来に向けて」という思考の本流が未だに強くあることの証明でもあります。私たち人類は、外敵からの攻撃や自然の脅威と戦い、不定形な未来を予測することに大きな精力を注いできました。過去をふり返る余裕すらないのは、普通の姿でした。

しばしの時間、こうして自らの「青春の蹉跌」を眺めてみました。遠くまで歩んだ時間があったからこそ、恥ずかしいとも思わずに書きつらねました。そして、「過去」にも「現在」につながる思考回路が存在し、「未来」に突き抜けるだけの鋭利で勢いのある「考え方」があったのだと再発見できたとの感慨もあります。「現在を覆う壁」を乗りこえ、次へと跳躍するためには、助走をつけるように「後戻り」することも大切です。

思考停止という名の「慣れ」と「諦念」に陥ることなく、強すぎる圧力と世間の壁に向けて無謀な挑戦を繰り返していた「青春の蹉跌」に立ち戻ることは、時々必要なひとときかもしれません。

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