乳がん(ステージ4)から牧場農家への復帰

日常のありがたみがわかり、生きていること自体に価値があると知った。

こんにちは。

がん患者さんの社会復帰を支援するNPO法人"5years"の大久保淳一です。

私は5yearsの他に「ミリオンズライフ」というウェブメディアも運営しています。

日本各地のがん経験者の方を取材して、がん闘病から社会復帰までの感動的な実話を紹介するサイトです。

これまで33名の方(2018年1月時点)の体験談を公開しており、今回は、比屋根恵さん(乳がん、ステージ4)をご紹介いたします。

本編は第15話まである長編ですが、ここでは要約した短い内容に致します。

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「もう手遅れなんです」

乳がん、ステージ4

女性の外科医にそう言われ、あの時、死を覚悟した。

❏ 繁殖牧場への嫁入り

沖縄県石垣市在住の比屋根恵さん(48歳、発病当時45歳)は、37歳のとき空港検査員の転勤辞令がおり沖縄県石垣島に移住した。

ただ、当時手伝っていた畜産農家での牛の世話を生きがいのように感じていた恵さんは退職し、獣医師が経営する動物病院と牛の繁殖牧場に転職する。

動物好きのうえ、牛の世話をやりたかった恵さんにとっては願ったり叶ったりの転職となった。

研究熱心な恵さんは、もっと勉強し良い牛を作り育てたいという純粋な気持ちが大きくなり、有名な比屋根牧場でもお手伝いを始める。

理想に近い畜産業を間近で学べることに喜びを感じた。

比屋根牧場に行くと朝から晩まで一生懸命に働く和史さんの牛に対する熱意に心を打たれる。

2007年、秋が深まったころ、牧場主(和史さんの父親)に呼ばれ、こう言われる。

「そろそろ(和史と)籍を入れたらどうかね」

結婚を促され、年が明けた2008年1月、恵さんと和史さんは入籍した。

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幸せな結婚生活が始まったが、恵さんの生活は一変した。

朝から晩まで牧場の仕事で大忙しなのだ。

毎日くたくたになるが充実して、かけがえのない日々を送っていた。

乳がんの番組

結婚から1年余りが経った2009年・春、恵さんは38歳になっていた。

この日も朝から牧場で働き詰めだったが、昼休みの時間に家事をするために自宅に戻った。

着替えもせずにテレビをつけたら乳がんのことを取り上げている番組が流れていた。

そして放送中、自分でできる触診のやり方が説明された。

恵さんはテレビを観ながら真似して確認してみる。

すると...、

右胸の乳房の下にパチンコ玉よりも小さいくらいの固いコリっとしたものがある。

「あっ...、私にもある」

だが触っても痛くはない。

このときは、牧場の仕事の合間に戻った自宅で、家事をさっさと済ませて牧場に戻らなくてはならないから、それ以上の行動を起こすことにはならない。

「早く仕事に戻らなくちゃ」

比屋根牧場には約130頭の牛がいる。

その世話を夫の和史さんと2人だけでする毎日。

自分のことを考える余裕もなく、目の前にある日々の課題をこなすことで精一杯だ。

だから胸にしこりがあることは解ったが、がんとか病気とかで毎日の歩みを止めるわけにはいかなかった。

結果的に、このままやり過ごし、あっという間に長い月日が経ってゆく。

生検

乳がんのテレビ番組を観た日から1年半が経ったある日、自分の胸を触診した。

"しこり"は、大きくなっていて、形が変わっていた。

ドキッとしたというのが正直なところだ。

「早く調べて、乳がんじゃないと安心したい...」

そんな思いが湧いてくる。

2010年・夏

石垣島にある"かりゆし病院"の診察予約を取った。

当時の"かりゆし病院"には、毎週2回の頻度で沖縄本島から乳腺外科医が来て診察していた。

恵さんは予約して病院を訪れマンモグラフィーと超音波検査を受けた。

担当したのは眼鏡をかけた20代の若い研修医。

「確かにありますね。でもこれが良性なのか、悪性なのか、まだこの段階ではわかりません。生検して詳しく調べましょう」

1週間後に生検を行うことになった。

もしかしたら悪性かもしれないと思うと心の中がざわざわした。

翌週、かりゆし病院には大勢の医師がいた。若い研修医が5人、中堅の医師が一人。

やがて右の胸でパチン、パチンと言う大きな音がした。

ガスレンジで点火する時の音の10倍くらいのすごい音だった。

この日、無事に右乳房の生検が終わり、後日検査結果が伝えられることになった。

はたして、その結果はというと...。

「現段階では良性とも、悪性とも判断がつきません。グレーゾーンなので半年後にもう1回検査をしましょう」

良性と言い切る医師

生検までしたのに判断がつかない...。グレーゾーン?

恵さんは釈然としない。

だから新潟県の実家近くに住んでいる看護師の姉に連絡し、新潟県の病院の乳腺外科で診察してもらうことにする。

2010年・秋、さっそく様々な検査が行われた。

マンモグラフィー、触診、血液検査、超音波(エコー)検査、

担当した男性医師は年配のベテランで堂々としていた。

そして、こう説明する。

「これは、乳腺の繊維腺腫です。良性だから心配いりません。でも、ちょっと石灰化していますね」

石灰化とは細胞の老化現象の一つだから心配ないと説明された。

それでも、まだ不安な恵さんは確認のため「良性から悪性に変わることはありますか」と可能性について聞いてみた。

すると...、

「私の経験では、それはありえません。もし心配だったら今後、新潟に帰省するとき経過を調べてみたらいいです」

この医師の悪性に変わることはありえないという言葉が、その後の恵さんの人生に大きな影響を与える。

恵さんはその医師を信じて、半年後に予定していた"かりゆし病院"の予約もキャンセルしてしまう。

そして石垣島での忙しい生活に戻り、月日が経っていった。

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2年が経ち2012年、右の胸のしこりは固く大きくなっていた。乳房の形も変わっている。

大丈夫、これは良性なんだから...。

そう自分に言い聞かせていた。

ただ、右の胸のしこりは一つではなく複数になり中でゴロゴロし始める。

乳首から血が出ていることすらあった。

恵さんは自分が乳がんになったら家族と飼育している牛たちに申し訳ないと思い、この事実を夫に隠していた。

心の中では半分の確率でがんかもしれないと思っていた。

咳が止まらない

ある夜、胸が痛んだ。

強い痛みで声を上げるくらいの激痛だった。

何かが中ではじけたような感覚があった。

以前、乳がんの進行ステージのイラストを見たが、がんが進行すると腫瘍がはじける図があったことを思い出した。

まさか...、本当に怖かった。

新潟の医師が2年前に言った「私の経験ではありえない」という言葉と、いまさら乳がんとわかり家族に迷惑をかけられないという思いが、病院に行くのをためらわせた。

2015年、この年は年明けから咳が出始めなかなか止まらない。

しかし、喉が腫れるわけでもなく、鼻水も出ない。カラ咳が出るだけだ。

「これ、なんだろう...」気になっていた。

2015年2月14日土曜日、子牛の競(せ)りの日だった。

市場で無事に競りを終えてほっとしたら今まで感じたことの無いような頭痛がする。

絞めつけられるような強い痛みだった。

このままじゃ倒れてしまうと思い、八重山病院を訪れたが土曜日だったため、一旦、自宅に戻る。

しかし、具合は一向に良くならない。咳が止まらなくて息苦しいのだ。

だから次の日、日曜日だったが再び八重山病院を訪れた。

胸部のレントゲン写真を撮影し診察室に戻ると、医師の顔が歪んでいた。

「比屋根さん、右の肺が真っ白です。こんなに胸水が溜まっているのはおかしいですよ...、なにか、思い当たることはありませんか?」

恵さんは医師に右の乳房にしこりがあることを伝えた。

医師は驚いて診察し、自分が知っている知識の中で考えても相当に深刻な状態で、この病院では治療ができないと言う。

取り敢えず、検査のために胸水を抜くことになった。

この日、いったん自宅に戻ると夫の和史さんが泣いて謝ってきた。

妻の胸の形が変わっているのは和史さんも以前から気が付いていたのだと言う。

「(自分が)もっと早く病院に連れていって受診させてあげればよかったのに...」

二人とも悲しさと恐怖心で泣いた。

胸膜播種

翌日病院に行き転院のための紹介状を書いてもらった。

深刻な乳がん。

医師も口数が少ない。

夫の和史さんが「もう、だめなんですか?」そう聞くと、医師は黙ってうなずいた。

それから家族で話し合い、恵さんは実家のある新潟県の県立がんセンター新潟病院に転院する。

2月24日、真冬の寒い日。

父親に付き添ってもらい、新潟県立がんセンターを訪れた。

担当した医師は肺が真っ白で、とても悪い状態だと説明した。

がんは、右の乳房と、両脇のリンパ、肺、そして骨にまで転移。

「乳がん、ステージ4」

ここまで進行すると外科的に手術することは難しく、抗がん剤による延命治療になると説明される。

何ひとつ良い情報はなかった。

胸膜の中にがん細胞が入り込んでいる「胸膜播種」だという。

胸膜播種...、ネットで調べると5年生存率は非常に低い。

診断後、4~5ヵ月で死に至ると書いてあるウェブサイトもあった。

ただ検査の結果、想像したほど胸水が溜まっておらず、溜まるスピードも遅いと解り、一旦退院。

このまま病院を出られなくなるのではと恐れていた恵さんはホッとする。

1週間後に詳しい検査結果を知らされることになった。

そして1週間後、再度病院に行くとこう説明される。

乳がん、浸潤がん、ステージ4、ルミナルB、HER2・陰性

40代の女性医師は「もう、手遅れなんですが...」といった上で、抗がん剤(パクリタキセル)治療を始めると説明。

薬の投与が始まると、さっそく、副作用が現れ体調が悪化した。

恵さんは恐怖心と不安から精神的に不安定になり、家族にあたってしまう。

そして脱毛...、自分は平気だと思っていたが、抜けてくると結構、精神的にきつかった。

周囲の人の目が気になるし、同情されているようで嫌だった。

がん患者としての自分を受け入れられない。

夜になると恐怖心が増し眠れない日が続いた。

抗がん剤の効果

しかし、治療を始めてから1ヶ月後、すごい事が起こる。

腫瘍マーカーNCC-ST439が陰性化したのだ。

CT画像上も腫瘍の影が小さくなってきていると言われる。

信じられないことが起こっていた。

恵さんは以前、がん治療に関する本を読んだとき、抗がん剤治療で治った人のかなりの割合が早い段階で薬の効果が出たと書いてあったのを思い出す。

「もしかして...、そういうことなのかな...」

死を覚悟したあの日以来、希望の光がかすかに見えた。

2015年5月、パクリタキセルを投与する治療開始以降2回目のCT画像検査。

主治医から「腫瘍の影がどんどん小さくなってきています」と嬉しいことを言われる。

つい2ヵ月前、手遅れと言っていた医師が信じられないという感じだった。

石垣島にいる和史さんも、毎回の報告を楽しみにしだす。

6月、この頃になると胸水がどんどん減ってきていて、画像検査医の所見にはこうある。

「効果が顕著に出ています」

本当にすごい事が起きていた。

恵さんは牧場に設置してあるカメラでリアルタイムに牛たちの様子を映像で見ていた。

そしてある夏の日、週末を使い石垣島に帰る決断をする。

夫の和史さんは喜び「大丈夫。きっと治るよ」元気そうな恵さんをみてそう言う。

牧場に戻ると牛たちが自分の母親が帰ってきたと言わんばかりに喜びをいっぱいに近寄ってきた。

家族、牛たち、石垣島の自然からエネルギーをもらう。

精神的に解放されたひとときだった。

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転院

2015年7月、治療効果をみるために受けたPET-CT画像検査で「劇的に良くなっている」と言われる。

このまま良い状態に留まってくれるんじゃないか、そんな気持ちすらしてきた。

2月に石垣島から新潟に渡り、既に5ヵ月が経っていた。

ただ...、主治医と意見が合わなくなり始めたのもこの頃だ。

恵さんが時々石垣島に戻っていることを良く思わなかったのだ。

牧場に行けば、牛の世話をして体に無理がかかる。

牛舎はとても衛生的な場所とは言えない。

抗がん剤治療中で免疫力が落ちているがん患者が、そんな環境に行くことを医師は推奨できない。

一方、牧場に戻ることで精神的に解放され、次の治療に対するモティベーションが得られた恵さんは、主

治医に了解をお願いする。

しかし、平行線の議論だった。

11月撮影したPET-CTの結果はさらに改善。

そしてこの検査を最後に、新潟県立がんセンター新潟病院を半ば飛び出した形で退院してしまう。

主治医と今後の治療について話したが、どうしても折り合いがつかなかった。

ただ恵さんの意をくんだ看護師の助言もあり、東京の昭和大学病院でセカンドオピニオンを受ける。

昭和大学病院・乳腺外科を訪れると50代の男性医師が担当した。

「転移巣が消えているし、これ以上の抗がん剤治療は必要ありません。手術をする必要もないですよ」

そう言われホルモン療法に移ることになった。

元の生活に戻る

2016年2月、ホルモン療法が始まった。

1日1回、朝食後にタモキシフェンを服用する治療。

外来での診察は3ヶ月に1回、東京の昭和大学病院で行うもので、ほとんどの時間を石垣島で過ごす。

1年前には想像もできなかったが、元の生活に戻っていた。

あの時は胸膜播種を発症し、みんなが「もう、ダメか...」と覚悟した。

でも、恵さんは牧場に戻り牛の世話をしている。

2016年12月。ホルモン療法に使用する薬をタモキシフェンからレトロゾールに替えた。

また抗がん剤(エンドキサン)の服用を開始。

年末に病院を受診した際に医師と相談の上そうすることにした。

そして、いま...、2015年2月の競(せ)りで頭痛がして救急で沖縄県立八重山病院に運ばれた日から3年弱がたった。

胸膜播種で本当に危うかったときから3年。

恵さんは夫の和史さんと牧場で牛の世話に汗を流している。

治療を続けているから体調の良い日と悪い日の波がある。

でも家事から何から自分でやれているのだ。

今、改めて牛飼いとして幸せだと思う。

家族のような牛たちの世話を毎日しているが、牛が幸せそうにしているのを見ると自分も幸せになるという。

この3年、恵さんは自分と向き合った。

日常のありがたみがわかり、生きていること自体に価値があると知った。

今日一日を大切に生きる。

それを続けている恵さんだ。

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比屋根さんの取材を通じ、「お医者さんもビックリ」ということは起こり得るのだと嬉しく思いました。

もちろん、すべての人に同じことが起こるわけではないのでしょうが、すべての人に可能性があるのだろうとも感じました。

比屋根恵さんの全記事(1~15話)インタビュー記事はこちらです。

また、他の33名のがん経験者の方々のストーリー記事はこちらです。

大久保淳一