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一人一人が尊重され、包摂される文化を - DIC 小澤いぶき

2014年10月17日 17時15分 JST | 更新 2014年12月15日 19時12分 JST

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小澤いぶき(おざわいぶき)

山梨県出身。新潟大学医学部卒。児童思春期精神科 医師。背景も形も違う一人一人が認められ、尊重される多様で包摂的な社会の中で、すべての子どもが自分自身のストーリーを未来まで紡いでいける生態系を目指し、新たな組織「DIC(ディーアイシー)」におけるFounder としてその運営に奔走中。Pe'Canvas(生きる力を文化、芸術を通して学ぶ親子の教育プログラムを実施)立ち上げ及び運営にも携わる他、子どもも大人も立場を問わず、一人の人間としての尊厳を大切にするという理念のもと、それぞれが学び、さまざま体験できる場を提供するasobi 基地 副代表としても活動中。

http://di-children.com/

違う一人一人が認められ、尊重されながら包摂され、共に在れる。そんな社会へと近づく繋ぎ手となっていけたらと活動する医師、小澤いぶきさん。簡単なことばかりではない今や未来をまっすぐに見据えながらも愉しみ、奮闘するなかで感じることやご自身との関係についてお伺いしました。

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OYAZINE(以下O と略):医師としての多忙な日々のなか、子どもたちと触れるなかで現在率直に感じられていることをお伺いできますでしょうか。

小澤さん(以下小澤と略):そうですね、子供が生きている生態系における複眼的で、多層的かつシームレスなセーフティネットのがあることの大切さ。そしてさまざまな背景や特徴の違いのある人それぞれが尊重され、誰もが生きていく場所のある文化が醸成されていくことの必要性を強く感じるようになりました。

様々な方々とお会いするたびに、一人ひとりの方がここまで生きてきた力の尊さを感じています。ここまで生き抜いてきて、今在るということ、それ自体がとても尊いことです。子どもたちが、少しずつ回復し、自分の力を信じていく過程に沿う中で、何らかの理由で、例え今、その人が力に気づかなかったり、力を感じることが難しい状況であったとしても、周りにその人の力を信じ、エンパワーする人がいることの大切さを痛感するようになりました。ただ、私達医療者は、おそらく、本当に医療を必要としている方々の一部にしかお会い出来ていない、そして本当に助けを必要として言う人たちにはそれが届かないという現状があります。また、同時に子どもたちの育ちやまなびが、例えば家庭で育てる、学校で教育するといった一つの機関に依っている脆弱さも感じています。子供の一部の育ちを担っている場とつながりながら、子どもたちは社会の中で生きていて、社会に還っていきます。その中で、子供の力を信じ、エンパワーし、敬意を持って構築してく対等な関係性が、より子どもたちの近くに、そして子供たちの生きている生態系の中にあったらということを感じています。

O: 確かに、知らず知らずのうちに思い込んでしまっている概念、例えば社会の中での分担などと括ってしまうことで、家族の役割、学校の仕事、行政の責任などとその意味を狭義的に捉えてしまっている可能性など私たちの中にも否めない側面があるかも知れません。

小澤:はい、一つの仕組みに依ることってレジリエントではないなあと。子供に関わる多様なリソースが機能分化しすぎずに、それぞれが担っているのは子供の育ちの一部であることを客観的に捉え、お互い敬意をもち、シームレスであることが大切なのかなと。

そして、同時に自分の知らない環境にいる子どもたちがたくさんいること、自分が部分で子供を捉えているかもしれないことへの想像力と全体を俯瞰してみる視点は大切だと思います。日々の食事がないなど、様々なシビアな環境で生きている子どもたちは、必要な情報に接する機会も少なく、安心・安全な場所で生き、等しく学ぶ機会へのアクセスは閉ざされていきます。

そういった子供と、そしてその背景への多面的な視点を持ちながら、さまざまな厳しい事実や思いもかけない状況に想いを馳せる、知ろうとするということに能動的となり、一方向からの思い込みや観念に捉われているかも知れない自分たちをもう一度俯瞰し、見つめ直すということができたらと感じます。

千差万別な環境にある一人ひとりが、それぞれの育ちの安心基地を持ちながら、その先に学びの場、そして社会の中での生き方の多様さまでがつながっている環境に在る状態と、そこにきちんと誰もがアクセスできるつながりがある状態。そして、その人たちに沿う人たちもエンパワーされる場がある、という生態系を目指して新たにDIC(Diversity×Inclusion×Children)という組織を立ち上げています。まずはその安心基地を地域のリソースを地域に開き、学ぶ環境の前提となる環境を食を通してつくっていくイートアンドをリリース予定です。

O:更なる活動のスタートということですね?

小澤:はい。背景も形も違う一人ひとりが認められ、尊重される、インクルーシブな安心基地がある、という状態と、子どもたちと信頼関係を築きながら、そこへの、そしてそこから社会へのつながりのある状態をつくっていきます。

とはいえ、私たちがつくる場所は絶対ではなく、一つの資源です。個々人にとって合う場も、合う人も違いますし、最初から合わないことだってあります。とってもしんどい時って、一つがだめだと全てだめなように感じられたり、それ以上探すことができなかったりするかもしれません。どんな状態でも、他の多様なリソースがあり、その情報が得られ、繋がるような有機的なつながりのある環境設計が大切だと思っています。

人と人も、人と資源も、人と社会も互いに関連ある働きを保ちながらゆったりと繋がっていき、支援、被支援という構造を超えて、ポジティブに来たくなる、そしてどんな環境の子どもたちであってもアクセスできる"場"と、自分たちの生きてきた力をちゃんと感じられ、それを活かせるような機会との出会いに繋げていける橋渡しをしていきたいと思っています。

そして、その中で生まれる無条件の承認や、信頼関係を経て、自分も、そして自分と違う他者も受容していけるコミュニティが形成されていくのではないかと思います。

また、いかなるプロセスにせよ違う一人一人が社会の中で活きる在り方が創られていくと、結果として社会全体のレジリエンスが高まるのではないかと思います。

O:子どもたちの心をケアする医師として、また現在の活動へと繋がる小澤さんがどのような周囲の方々のなかで育まれたのか、「OYAZINE」としてはとてもお伺いしたきところなのですが。

小澤:私は両親と妹と祖父母の6 人家族で育ちました。両親共にとても自由で枠にとらわれない人でした。母は化学の先生でした。そして、これは私が中学生の時に、生徒会で悩んでいる時に、母が、いろいろなリーダーの在り方やチームの在り方があるのよ、自分の中に出来上がっているリーダー像から開放されてゼロから考えてみたら、と自分の体験を話してくれたのですが、母は上から指導することがとても苦手だったので、クラスをまとめていく時に、いかに生徒が興味を持てる授業を創るか、生徒が能動的に化学をやりたくなる環境を創るかということをとても大切にしていたようです。また、なんでも化学に結びつけて実験していまう人で、私達子供から生まれるなぜ?に対して、大抵、なんでか考えてやってみよう!と化学実験が始まるのも日常でした。

父は生物の先生だったからか、様々な生物を自宅に連れて来ていました。ヤモリとかイモリの違いを子供にみせたかったらしく、ある日突然、庭にヤモリとイモリがいたりとか。。

また、父は文化の違いによって対立してしまっているものに若いころからずっと関心をもっている人でもありました。同時に違う文化が対立の橋渡しになるということにも希望をもっていました。なので、文化を通して違う国の子どもたちが何かをやる場をずっとつくり続けていて、私自身も子どもの頃海外でホームステイやバイオリンの短期交換留学などから、前提の違いを問わず、人と関係を結んでいくということを学ばせてもらいました。

文化というものは国だけでなく、それぞれ家庭によっても違うし、色々な文化がある。でも子どもたちが地球に生まれているっていうところはみんな一緒で、その背景の違いとか環境の違いなどによる文化の差異によって、もしかしたら子どもたちが背負わなくていいものを背負っていたりとか、子どもたちにあったかも知れない可能性が閉ざされていたりするというところに常に疑問や課題をもっていた人です。

母も高校の先生をやってく中で、なかなか学校に来られない子や複雑な環境に育つ子どもたちに出会って、途中から大学へ行き直して心理の資格を取ったりしていました。

O:ご両親が教師だと、お子さんも教師を目指すか、あるいは先生業には就かないか、どちらかというイメージがありますね。

小澤:そうですね。ただ、おそらく教師としてもあまり枠のない、自由な両親だったので、「先生」という職業に対してもあまり固定的なイメージをもつことはありませんでした。

私たちが物心つくかつかない頃から、土日になる度に学校に行ってない生徒を車で迎えに行ったり、電車を乗り継いで自宅に生徒が来たり、幼少期から自分たちをかわいがってくれるお兄さんお姉さんがいるような状態で、みんなでキャンプ行ったり、山登り行ったり、ご飯を食べたりしていました。ある日自宅に帰ったら、家出して来た子がいたり、学校を異動してく度に新しい人がどんどん増えていったり、という状態でずっと育ちました(笑)。まだその時代だったからできたのかもしれません。

O:それはなかなか経験できない状況ですね。ご両親の影響を受けたと思う部分はありますか?

小澤:振り返ると、原体験も今の私を作っているひとつだなと感じています。また、医者に繋がる転機のひとつとなったのは、大好きな祖父が小学校6 年生の時に亡くなったことです。とても我慢強い人だったので、病院へ行った時には手術ができない状態になっていました。けれどもそんな祖父の病院にお見舞いや看病に通うなかで出会った医師も、ひとつのきっかけになっています。

祖父には幼少期から、女性だからこうあるべきに囚われずに、一人の人として社会で生きていくときに、なんでそう生きたいのかを考えていきなさい、そして誰かを救えるような人や、社会構造を変えていける人になりなさい、って毎日のように言われていて、実際そういうことをしている人の話をたくさんしてくれたり、テレビを見せてもらえなかったのですが、そういった人がテレビに出るときだけはテレビを見せてくれたりしていました。

そういった意味でも、祖父からの影響は大きく、中学高校時代に「祖父のいったような人であらねば、そうあるべき」という自分の信念につながっていて、そうでない自分との矛盾に葛藤して苦しかった時期がありました。そこから、自分であることから始めるというか、祖父は祖父であって、自分の人生は祖父の人生ではなく、自分としてどうしたいか、そして、そうなれていない自分もまた自分だっていうことを受け入れていけたのは、自分の哲学好きだったことと、両親の影響が大きかったですね。

O:人の死というきっかけが、残された人の背中をぐっと押すことって、あるかも知れないですね。

小澤:確かに。そうですね。そして、私は人の死があるとき、その人はいないけれど、その人が内在化されていることで紡がれていくこととか、その人が亡くなったあとも、社会は変わらず動いていることとか、、、。そこから人について考えて哲学の本にいきついて。

また、人の死に対したときこそ、なおさら絶対的な拠りどころとなるものの深さについて考え、その大きさを感じます。私の場合、幼少期からの拠り所は家族でしたが、誰もがそうではないのだということも同時に感じていました。

O:小さい頃はどんなお子さんだったんでしょう?

衝動的で、よく動いて、不注意で忘れ物も多い、そんな子でした(笑)。そして、小さい頃からいろんなことに興味をもっては、ある程度できると飽きてしまい、それを超える新しく刺激があるもの、面白いものを探していました。長く続くのはその中でも特に興味をもったものくらいで。さらには、遠くからいろんなことを眺めてそれを絵本にしたり、その時感じた感情を音にしたりしていました。小学校低学年の時に、うまく機能していない家族が虹の橋に冒険に行って、それぞれの冒険をしながら虹から滑り降りたところでみんな記憶を失い、知らない人として再び出会ったところから家族が再統合していくという、そんな絵本を書いたり、家出をした小学生が、無人島に流れ着いて、誰もいない中での孤独と、誰かがいるからおこる孤独や葛藤を色々感じて、関係性のある生活に戻る、とい?