慰安婦、もう一つの考え「敵は100万、味方は自分ただひとり」

話の端々に、ぺさんがこれまで経験した孤独がにじみ出ていた。言うまでもなく、ぺさんの考えや意見だけが正しいと言いたいわけではない。重要なのは、この日もまた「敵は百万、味方は自分ただ一人」と語ったことである。

■NHKの同行取材について

二度目にハルモニに会いに行った時は、NHKソウル支局の記者たちと一緒だった。NHKの記者とは、韓国語版が発刊された時インタビューに応じたのがきっかけとなって知り合った。『帝国の慰安婦』に対する韓国メディアの反応が悪くなかった(盧志炫: 朴裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』)ことに対して興味を持ったようで、この本が韓国社会にどのように受け入れられるのかを記録しておきたいと言い、私の学生たちにもインタビューを行った。

そして、慰安婦問題をめぐる私の足取りを追いたいので、関係ある日程などあれば教えてほしいと頼まれた。

私は彼に協力した。『帝国の慰安婦』は日本に向けて書いた本でもあり、アジア女性基金解散以降、慰安婦問題にあまり興味を示さなくなっていた日本が慰安婦問題に興味を示してくれているのだから、拒む理由はなかった。

また、その記者は、偶然にも私が留学中に在学していた大学の後輩でもあった。そのため、何回か会ううちに打ち解けた話もできるようになった。慰安婦問題解決にも役立ちたい、と言っていたので私は彼を信頼した。ぺ春姫さんと電話で二度目の訪問の約束をした時、記者にその日程を教えたのはそのためである。

そして前日、ナヌムの家の所長にも明日訪問する旨のメールを送った。返事がなかったので、翌日の朝に再度電話文字を送った。やはり返事はなかったが、いざ訪ねてみると安所長は事務所にいた。事務所を通じてはじめて会えるシステムなので、ぺさんに会う約束をしたと告げたが、所長はNHK記者とともに訪ねてきた私を露骨に警戒した。そして、映像撮影はだめだと言った。

この日の訪問目的は、食堂で初めて会って少ししか話せなかったぺさんに会って時間をかけて話を聞くことにあった。なので所長の拒否は納得もいかず残念だったが、仕方がなかった。私たちは録画をあきらめ、ぺさんの部屋で話を聞いた。

私たちがぺさんの話を聞いている間、ナヌムの家の職員が何度も様子を見に来た。話の内容が気になったのだろうか。ともかくその日わかったのは、ナヌムの家の元慰安婦の方々には自分の意志とおりに外部の人に会える自由がないという事実だった。そうした状況はその後さらに繰り返し確認できた。

私を訴えた直後に、ナヌムの家の所長はこの日の訪問について、記者が 「朴さんがボランティアをやっているところを撮りたかった」と話したと、悪意のある嘘をフェイスブックに書いて私を非難した。また、関係者たちに同じ話をメールで送った。さらに、2015年12月、 起訴に抗議する記者会見を私が開いた直後にも、この話をメールでいろんな人に送っていた。しかも、その後、日本の支援者たちの集会でも同じことを話したと聞く。日本の北原みのりさんらは所長の言葉を信じ、その話を SNSで拡散させた。

これまで私はこの件に関して積極的には釈明しなかった。そうした話は一笑に付されるものと考えたし、時間もなかったからである。

しかし、日韓合意の後、これまで運動を担ってきた人たちによる攻撃はさらに強まり、いまや学者による曲解や非難までも周辺の人が確認せずに信じて拡散させるにいたっている。

私がこの文を書くことにしたのは、そうした内容のものが「証拠資料」という名前で刑事裁判に出されているためである。自分を守るためでもあるが、友人たちの名誉を守るためでもある。

それにしても、こうしたことを書かないといけない状況を心から悲しく思う。あるいは、喜劇というべきだろうか。

以下の下線の引用は、ナヌムの家の所長が関係者たちに送ったメールからの抜粋である。

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パクユハ氏、ナヌムの家の所長に電話し、挺対協反対行動に参加することを強要

2014年2月頃、なんの面識もないパクユハ教授がナヌムの家の所長に電話をかけ、所長もそろそろ挺対協に反対の声をあげる活動に参加せよと強制し、電話を切るときは親切に応答してくださってありがとうと言いました。そしてパクユハ氏が一度会おうというので、所長は毎週月曜と木曜以外は週末もナヌムの家で勤務しているので、そこで会おうと言いました。これに対してパクユハ氏は、外交部で発表をするため時間がないので、セジョン大学で会おうと言いました。しかし、所長の日程上、セジョン大学で会うことはなかった(以上、安信権、2015年12月はじめのメール)

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私の携帯に残っている履歴によると、ナヌムの家の所長に電話したのは2013年11月15日だった。 慰安婦関連の外交部の会議に呼ばれていたが(学者としての意見を述べただけで、「発表」ではなかった)、出席者名簿に所長の名前もあったので、彼がソウルに来る機会を使って会って、慰安婦問題をめぐる謝罪と補償についての考えを聞いてみたかった。そこで彼に電話したのである。そして、会議の前にでもソウルに来ることがあれば、会いたいと言った。私は世宗大学で会おうとも、挺対協に反対しようとも言っていない。もちろん 、「強制」したこともない。

最初の出会いの翌日、私はともかくも不便をかけたことへの謝罪の言葉とともに、「私も解決方法を模索しているので出来れば本を読んでほしい。その後、また会いましょう。必要であれば本を送ります」と電話メールを送った。彼はこのとき私に「忙しい中、ナヌムの家を訪ねてくれたことに感謝します。本は自分で買います」との返事をくれた。

ということは、彼が私を敵対視するようになったのは、必ずしもこの訪問ではなかったかもしれない。既に書いたこともあるが、安所長が私を訴えた背景には、ぺさんと親しく交流したこと、そしてそのぺさんを含む元慰安婦の方々数人の声を、シンポジウムを通じて世に送り出したことがある。

さらに所長は、多くの人に送ったメールで次のようにも書いていた。

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パクユハ氏、ナヌムの家の訪問申請やハルモニたちの許可もなくNHK-TVの撮影を試みる

パクユハ氏がナヌムの家に訪問し所長と初めて会った時、事前に「ナヌムの家」やハルモニたちに知らせたり許可を得ることなく、一方的に日本NHKの記者を連れてきました。そしてNHK-TVの記者は、ハルモニたちとパクユハ氏が交流している姿を撮影したいと言いました。所長が、ハルモニたちに事前に同意をしてもらわなければならないのに何事だ、と問いただすと、パクユハ氏は謝りもせずに「ナヌムの家」は誰もが撮影するところではないかと言いました。 NHK-TVの記者は、所長に、パクユハ氏がボランティア活動をしている姿を撮りたいと言ってきました。そこで所長が「日本軍慰安婦被害者」ハルモニたちのためにパクユハ氏がボランティアをしたことなどないのに一体何を撮るのか、と聞き返しました。そして撮影は不許可となりました。

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すでに書いたように、私はこのとき、ぺさんと前もって約束をしている。元慰安婦の方に会いたがっているNHK記者がいるのでよかったら一緒に行く、と事前に了解をとってもいる。撮影するとすれば対象は私ではなく、ぺさんだったし、日本に向けての撮影なのだから当然のことだ。 「朴裕河さんがボランティア活動をする姿を撮りたい」と記者が言ったというのは、所長の嘘でしかない 。

ともあれ、わたしたちはその日、一時間ほど、ぺさんの話を聞いた。

■「敵は100万、味方は自分ただひとり」

ぺさんは、早くに親を亡くし、祖母の下で育ったということだった。慶尚道出身で、小学校に5年生まで通っていたという。そして友だちと一緒に職業紹介所に行ったのが慰安婦になったきっかけと話した。

女性として小学校教育を受けたということは、学校に通えない人も多かった当時にしては相当な学力といえる。ペさんは慰安所の名前などを紙に漢字で書いて見せたりしたが、驚くほど達筆でもあった。

その後、私とぺさんの話が主に電話を通してのものになったのは、この日のナヌムの家の警戒の結果である。家族のいないぺさんは、私によく電話をかけてこられた。そしてそのように心を開いてくださったことが私はありがたかった。ぺさんはよく日本語を混ぜて話された。おそらく、私が日本語を知っているということが、日本語で教育を受けたはずのぺさんの心を開かせた一因だったのだろう。

私はぺさんの許可を得て二人の対話を録音することにした。

以下は、その録音内容の一部である。最初の録音は12月18日。ペさんからの電話で、その日わたしたちは一時間以上話した。

長くなりすぎないように、話を整理し、文脈がわかるように私の話を入れたところもある。この日ペさんは、強制連行を含む慰安婦問題に対する考え、韓国社会の対応に関する考え、ナヌムの家の元慰安婦の方々との葛藤、ナヌムの家の事務所との関係などについて語った。尊敬語は適宜省略する。

話の端々に、ぺさんがこれまで経験した孤独がにじみ出ていた。言うまでもなく、ぺさんの考えや意見だけが正しいと言いたいわけではない。重要なのは、この日もまた「敵は百万、味方は自分ただ一人」と語ったことである。ぺさんはそのように孤独を訴えたが、私は結局、その孤独な状態を変えてあげることができなかった。

(会話に出てくる個人名は伏字とした。録音状態が良くなく内容が確認できないところも一部ある。括弧部分は私がハルモニに対して語ったことや、この文を書きながら追加した私の考えである。意味が確かでないところのうち、把握・類推可能なところは補完し、語尾など形を整えた部分も多少ある。省略処理した部分は、公開する意味がないと思われるものや、他の元慰安婦の方との葛藤の部分である。)

(録音日2013年12月18日 18:19:24)

■不信

ぺさんは何度も、慰安婦問題をめぐる周辺の状況について批判していた。この日は、慰安婦が軍隊の後を追っていたと記述した教学社の教科書が問題化した日だったようである。ナヌムの家に記者たちが取材に訪れた話をし、記者たちに対するナヌムの家の対応に対して不満を述べた。

ぺさんは、教学社の教科書を否定するためにナヌムの家が出した資料について「テレビでは相変わらずそれだけを十数年...私がここに来てから十八年になるのに、いつもその写真一枚だけ出している」と考えていた。

そして「あの場面は中国ではない。フィリピンか、他の国だろう」と話しながら、「東洋の軍人が服を脱いだ姿で」映されている写真について「そんなことになったら大変だよ。憲兵たちがしょっちゅう見張ってるのだから」とも。そして、

「昔、私たちも見たけど、日本人たちが朝鮮で何の...そんな商売した人は朝鮮にも中国にもいない...。ここだけの話だけど、みんな、朝鮮人だよ...。中国では中国人が経営したし、朝鮮人たちが中国語を習って...全羅道の人?テアン(?)の人たちがやったよ。日本人は、昔キャバレー、キャバレーや飲み屋みたいなのはやったかもしれないけど、そこで、お客相手に体を売るような商売はしてないよ。日本人は。中国にもいない。」

(でもハルモニたちは日本人もたくさんいたと仰ってますよ)

(日本人業者がいなかったという発言について、私はぺさんが間違っていたか、日本人業者がそこに少なかったゆえのことかもしれないと考えていた。最近見たある資料によるとハルビンには各種業者のうち朝鮮人が占める割合が90パーセントだったという。(韓錫正『満州モダン』、2016)

「あれはめちゃくちゃなこと言ってるのよ。ならば住所とか...どこで、そういうことしたというのか(聞きたいものだよ)。そういう人たちに、自分がいた場所を聞いてみないと。そういうの、私が思うには、まあ、また言うけれど、この世では通るかしらないけど、あの世では通らないよ。」

(そういう話、他の人にされたことないのですか?)

(ぺさんの考えがどこまで正しいのか、私にはわからない。いずれにしても、ぺさんは、他の元慰安婦のかたの一部が嘘をついていると考えていた。ぺさんがナヌムの家で孤独だった根本的な理由でもあるだろう)

「たまに、私が、他のことでね、まぁこのこともそうだけど、『あらまあ、この世では通るかもしれないけどあの世では通らないわよ』〜というと、拗ねちゃって...」

(中略)

■ナヌムの家と元慰安婦

「***が『美しい財団』(注:現ソウル市長・朴元淳氏が始めた市民団体)に、日本政府からの秘密の、政府の金じゃなくて民間の金を五千万ウォンもらって、それに自分の五千万ウォンを...『美しい財団』に寄付したのね。(中略)ところが、ほかの人の話では、二千五百万ウォンを事務所にあげた。事務所も、寄付してくれるならありがたいと、受け取ったのよ。だけど、おばあさん同士で争いが起きると...(中略)。」

(ハルモニたちが事務所にお金を寄付することもあるんですね。知りませんでした。)

(ここで言及されている方は、アジア女性基金を受け取った方である。聞く所によると、ナヌムの家に居住している方はみんな基金を受け取ったという。ところがぺさんですらそのお金を「日本政府の金でじゃなく民間の金」と理解していた。そしてそのお金が美しい財団に寄付されたという。美しい財団は、その金が元慰安婦のための「日本国民のお金」でもあることを知っていながら受け取ったのだろうか。皮肉と言うほかない。

私は朴市長がソウル市長選に出た時、彼を支持した。朴市長は二〇〇〇年に東京で女性国際戦犯裁判が開かれたとき「検事」として参加してもいる。ソウル市長当選後、少女像設置の許可のほか挺対協に対するソウル市の支援が目立っているのもそうした関係の延長線上のことなのだろうか。

■懐疑

(中略)

「まったく、あれこれ、ここ、全然わけがわからない。(中略)学校出た人がいるんだか。本人の話じゃ2年生だった時...なんとかいうけれど、あそこに行けば、娘さんがいる、誰々さんのところに行けばその家の娘がいるとか...(というけれど)おばあさんたちがそれを全部知るわけないでしょ。おかしいじゃない。」

(知っているのがおかしいということですか?)

「ここの人たちに...連行された、と言うから。外にいたのに連れていかれたとか...」

(あ、どこの家に娘さんがいるのか、村人じゃないならどうやってわかるのかということですね?)

「その人たちがどうやってそれを知って連行しに行くの? おかしいじゃない。」

(中略)

(ぺさんは、一貫して支援団体と一部の元慰安婦の方のいわゆる「強制連行」主張に対して懐疑的だった。

(私を非難する運動家たちは、挺対協がまとめた証言集にそうした話も全て入っているのだから元慰安婦たちの声を押さえつけたことになるわけではないと言う。

しかし、重要なのは、なぜ外への伝達過程で「異なる声」が排除されたのかという点だ。また、国内メディアと日本社会と国際社会に向けての運動で、なぜこうした声とは反対の声だけが強調されたかという点である。わたしはその理由について、最近ようやく理解できた気がしている。それについては後述することにする。

■憐憫・孤独

(ぺさんは、自分は尼になるべき運命と言われたのに、それとは「反対」の人生を生きることになったと自嘲的に語った。アフリカの貧しい子供たちを助けたいと考え、一緒に暮らす元慰安婦の方に促してもいたという。ところが「私たちの方がもっと可哀想だ」と言われ、同調してもらえなかったことに残念な気持ちを繰り返し語ってもいた。そうした情けの気持ちは、あるいは「尼になるべき運命」への自覚からきていたのかもしれない。

ぺさんは中国で日本からの独立を迎え、朝鮮戦争の頃日本に渡ったという。そこで長く暮らし、56歳になってから体調を崩して韓国に戻った。帰国の時は甥を韓国から呼び寄せ、永住権を返還して韓国に来られたようだ。)

「日本を離れる時、故郷に帰ったところで誰もいない。どうして私はこんな運命になったのだろう...という気持ちになってね。故郷に帰ってみたら、いとこたちが9人もいたのに皆死んで一人だけ残ってたの。あと、腹違いの弟が一人、プチョン(?)にいた。(中略)...これはもう小説にも書けない...」

(最初のうちは慶尚南道・倭館邑で暮らし、90年代前半、金泳三大統領の時代に元慰安婦を探している放送を見たという。)

「あの時、腹違いの弟もいたし、こんなこと知られちゃいかんと思って知らんぷりしたのよ...」

「(ところが)金泳三が、あの方が、そういう経験ある人はあらいざらい書いて申し出ろって、そういう経験のある人は申し出ろって言って。正直、私は大邱出身で、つれて行かれたわけじゃなく、大邱に行って、人事紹介所、そこに行って、そういう話をしたのが...」

「あの時は郡庁とかで、チラシで広告だしてて、スウォンからどこに行けばいいという、そういうチラシをたくさん出していたから、それを見て、(申し込みに)行ったんだ。」

(ぺさんの人生もまた、小説のごとく数奇である。幼い頃に親を亡くし祖母に育てられ、おそらく独立のために、職業紹介所にみずから赴いた少女。1923年生まれ、ということだったが、何歳で行ったのかは聞いていない。友だちも親戚もいない日本で、戦後も長く暮らし帰国した一人の女性。ぺさんの話を聞きながら、私は「天涯孤独」という単語を思い浮かべた。ぺさんが初期に手を挙げたのは、そうした孤独から逃れたかったからかもしれない。)

■沈黙・信念

(何故、ハルモニの話を聞こうとする人がいなかったのでしょう。他のハルモニたちのお話はほとんど記録されて世の中に出ているのに。どうしてハルモニの話は聞こうとする人がいなかったのでしょうね。)

「いや、わたしだって大体はするけど、あの人たちが書いてるのを見ると、まあ、何を言っているんだか、わからない。小説を書ける人たちはうまく書くのだろうね」

(自分の人生は小説にも書けないと言っていたぺさんは、今度は「小説」という表現を使ってほかの元慰安婦の証言に強い違和感を示していた。一般に通用する「小説」に対する相反した二つの理解(一般人が経験することのできない波乱万丈な「真実体験」。また、その逆の意味としての「虚構」。)を、ぺさんもまた共有していた。

元慰安婦たちの経験は言うまでもなく重いが、自分とまわりの人の体験に限定される。したがってぺさんが見届けることがなかったというだけで、ほかの元慰安婦が語った事実が存在しなかった、ことになるわけではない。しかし私は、ぺさんの違和感を理解した。

早くに声をあげ、慰安婦問題とほぼ同じ月日を生きてきたぺさんの違和感。長い間共に運動に関与してきた方々が、いつかこの違和感に応えてくれることを願いたい。)

(中略)

(ハルモニのお話はとても興味深いのですけれど、何故他の人たちはその話を聞こうとしなかったんでしょうね。ハルモニが話されなかったのですか?)

(中略)

「研究者たちが来ても、特別に私のところに来て聞く人はいなかった。おばあさんの中には、アルツハイマーになった人もいるし、寝たきりの人もいるし、ものごとへの理解ができていたり、できてなかったりするひともいるしねえ。

知ったかぶりをする若い人たちには、まぁ、何も言いたくないの。まあ...まためちゃくちゃだろうと思ってね。勝手に話を進めるのだけどそれに向けて、私が、歴史を知りなさいよ、知りなさいよ...と(ことさら)言う必要もないしね...」

(ぺさんの語る「知ったかぶりをする若い人」が誰だったかはわからない。いずれにしても、ぺさんはその人に対してご自分の体験を「語る」ことは無意味だと考えたようだった。口述記録者が、既に決まっている「正解」を期待してとりかかったのだろうか。ぺさんの話が残されていなかった背景にはそうしたことがあった。

他の元慰安婦の健康状態に対してのぺさんの言葉は、ご自分の健康への自信とエリート意識が作ったものなのだろう。真実は、ナヌムの家の関係者たちだけが知っているはずだ。この時から丁度半年後、私はナヌムの家に暮らす九人の元慰安婦の名前からなる告訴状を受け取ることになる。)

(中略)

「日本軍につれていかれたと言うし、軍人が十三歳の子供を殺したとか...。(しかしわたしは)自分で聞いてない話は聞く必要がない。これは間違いない、そういう質問だったら(答えて)残すかもしれない。しかしこういう話、おかしいな、と思うと、私はもう話さない。」

(それで話をされなかったのですね。ほかのハルモニたちと話が異なるようです。)

(ぺさんの信念が垣間見える気がした。ぺさんにとっては、ただ自分の話を聞いてもらうことより、真実を残すことが重要だったようである。)

「その人たちも個人向けではあまり話さない。他の人たちが来ると話すかもしれないけれど...)

(そうだったんですね。ありがとうございます。色々話してくださって。)

「あんたはまぁたまたま日本語もできるし、私が話せと言われて話してるわけではない。たまたま、その、喋りたいという、そういう(気持ちが)...」

(このあいだも、偶然テーブルで同席しただけなのに、ハルモニが色々お話ししてくださって驚いたけど、嬉しかったです。)

「私は日本と親戚でもないし、日本が特別に、まぁ、私についてきてあれこれやってくれたわけでもない。お金をもらったこともないしね。

私は正々堂々。私はお釈迦様を信じてるから、正々堂々と、私が知ってるのは自分の心のうちだけ。ここにいる人たちにたまに聞いてみると、直接は聞いてないけど、***は、まぁ、口を開けば、全部〜から殺した、〜から殺したと。まぁ殺したとして、噂とはいつも、何ヶ月後にでも噂は立つもので、どこかで何かがあったら噂になる。しかし、私は噂を聞いたことがないのだよ。なのに、(そういう)私が(話を)作って喋らなきゃならないの?

短い命じゃないの、ひとは。生きてったって。ちょっとだけこの世に来て、また帰ることになっている人たちなのに、何のために嘘つく。ありもしない話を作ったり。そんなこと絶対ないよ(中略)。」

(ぺさんの信念は、仏教徒であることから来ているようだった。ぺさんは誰よりも自分に素直であろうとした。そして、そうした自分を「正々堂々」という言葉で表現した。「短い命」「ちょっとだけ」来てまたあの世に帰る人生。私がぺさんに親近感を覚え、一人の人間として好意を持ったのは、こうした性格と価値観のためだったように思う。

ぺさんは、自分が考える真実を語る理由が日本との特別な関係のせいではないということも強調したがった。

もちろん、他の元慰安婦の方たちに対するぺさんの視線がどこまで正当なものであるかは、現場にいなかった第三者が判断すべきことではない。ぺさんは、他の元慰安婦たちは喜ぶ「高い(栄養)注射」を断り、それほど高価でない注射を受けたという話もした。そういう話も、他の方たちがより体調が悪かった結果と考えるべきだろう。

ただ、ぺさんが自らの健康と命に対しての執着があまりなかったということだけは、確かだった。)

■日本人訪問者

(中略)

(ハルモニたちの中には、証言で「日本の首相は私たちが死ぬのを待っている」という風におっしゃる方もいます。)

「あぁ、あの人たちは、首相だけじゃなくほかの場合も、`私たちが死んだかどうか見に来たのか`という風に言う。だから、(日本の)学生たちがそれを知って泣くの。

(中略)日本人に、本音かどうかは関係なく、日本人が訪ねてくれば、ただ、ようこそいらっしゃいました、とでも挨拶して、日本としても、その、あれこれ苦労が多いですねとか、心がこもってないとしてもそう言えばいいのに、「あんたら何しに来たのか、わたしたちが死んだか死んでないか見に来たのか」***がそう言いながらつめよるんだよ、お客さまに。」

(学生たちにもですか?)

「あぁ。そのように韓国語で言って睨むから、学生たちは理由がわからなくて泣いてるの。」

(だけど、見ればわかりますよね。嫌われているというのは...)

「そう、良い言葉ではないなあ、とわかるだろう。」

(やさしい子たちが多いのに、(ハルモニたちは)どうしてそうされたのでしょうね。)

以上が、2013年冬のある日の夕方の、ぺさんとの電話内容をまとめてみたものである。ぺさんの話は、多くのことを語っている。訪ねてくる日本人に向けての「態度」はただの礼儀の問題ではない。ひとつの態度は、目の前の対象に対する理解と感情、さらにその人の性格と価値観が形造るものである。

私がこの文を書くことにしたのは、ひとりの元慰安婦のこうした「態度」を伝えたかったからでもある。

日本に対する態度にとどまらない、世界に対する態度と平和の関係については、第3章で書きたい。

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