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元慰安婦の方たちとの出会い

2016年10月04日 15時19分 JST | 更新 2016年12月22日 23時44分 JST

(「慰安婦問題との出会い、『帝国の慰安婦』まで」から続く)

■元「慰安婦」の方たちとの出会い

慰安婦問題を改めて論じようと思ったのは、『帝国の慰安婦』にも書いたように、日本政府がいわゆる佐々江案を提案し、韓国政府が支援団体の反対を気にして拒否した2012年の春である。

もっとも、慰安婦問題に対する私の考えの概略はすでに『和解のために』の中で書いていた。そういう意味では、あえてまた書くべき必然性はなかった。

しかし、日韓両国民(若しくは左翼と右翼に)に向けて意見を提示した『和解のために』は、日本では過分な評価を得たが、韓国(支援団体)ではメディアの好意的レビューを得ながらも当事者周辺の人たちには黙殺された。

そして、2010年代に入ってから、挺対協の少女像建立と李明博元大統領の竹島訪問以降、両国のメディアには露骨な嫌悪と憎悪が溢れるようになっていた。

なにより、大人の主張を信じるほかない若者たちが、傷つき敵愾心を募らせつつあった。私は、それまでの四半世紀以上に深刻な四半世紀を、目の前に見る思いがした。

そこで、帰国後、時間を惜しんで執筆に励んだ。人に会うことさえできるだけ減らした。一冊の本が世の中を変えられるとは思わなかったが、小さな声が別の声と出会うためには、まずは静かな湖に石を投げなくてはと考えた。

毎日のように何らかの日韓間の葛藤が報道されるような状況だったので、できるだけ早く書きたくもあった。怨恨を抱いたままこの世を去る元慰安婦の方が一人でも少ないこと願っていた。そして2013年夏、私は『帝国の慰安婦』を出版した。

『帝国の慰安婦』はいわゆる歴史書ではない。歴史との"向き合い方"について考えた本である。そのために必要な、最小限の「ファクト」について考えてみた本だ。

学術書の体にも作れる資料を用いながらも一般書の形式で出したのは、両国民が広く知るようになった問題である以上、アカデミズム内の議論だけでは、この事態を乗り越えられないと考えたからである。

追われるような気持ちで本を出してから、私はその秋から元慰安婦の方たちに会うことを始めた。執筆中に会わなかったのは、20年も前の古い証言集の方こそが、慰安婦をめぐる状況を豊かに示していると思ったからである。

そこには、イメージが単一化される以前の、「国民の常識」となり「国定教科書」的集団記憶になる前の、「女たちの話」があるがままに残されていた。

私は証言集に残されていた、そうした女性たちの声に耳を傾け、それに基づいて「朝鮮人慰安婦」がどのような存在であったかを考えた。結論として、アジア女性基金事業の終了とともにこの問題を忘れていた感があった日本に向けて、新たな謝罪と補償が必要と書いた。

どういった形が良いかは、当事者も含む協議体を作って議論し、この問題について国民に広く知ってもらうようにメディアの参加も得ての解決が必要とした。

日本版では国会決議が必要とも付け加えた。しかし、証言集のみに依拠しての結論だったので、私には「今、ここ」を生きている元慰安婦の方たちに会う必要があった。

慰安婦問題発生初期から元慰安婦たちのために尽力してきていながら、アジア女性基金関係者ということで挺対協から敵対され、入国禁止にまでなった日本の女性ジャーナリストがいた。

『和解のために』でそのことに触れたことが縁になって、私はその女性と会うことにもなった。その人は基金解散以降も続いた、日本政府の予算で行われた元慰安婦のアフターケア事業にかかわっていた。

そこで私は、その女性がまたソウルを訪問した時、元慰安婦に一緒に会いたいと頼んだ。そして市内のあるホテルで元慰安婦の方たちに会うことができた。中には、証言集で口述を読んだことのある方もいられた。

その出会いは私にとっては緊張に満ちた体験だった。「和解のために」を出した後でもあり、10年前とは状況も気持ちも変わっていた。本を書いたことは元慰安婦の人生や歴史や現在の政治にコミットしたことでもある。私には書いたことに対する責任があった。

自分の分析が間違っているとは思わなかったが、私の知らない歳月、私の知らない辛酸を極めた体験に向き合うことは、緊張を要した。

その日、私は元慰安婦の方たちから主に日本の謝罪と補償についての考えを聞いた。体験を一部聞きもしたが、個々の詳しい体験を聞くことは控えた。

慰安婦問題の専門家になろうとも思わなかったし、新たに本を書く気持ちもなかったからである。私ひとりのために、苦痛の記憶を思い出させる権利はないとも思った。

そして、意外にも最初の出会いの時から、私は彼女たちが望む謝罪と補償が、支援団体が語ってきた主張とは異なることを知った。その後自宅に出向いてお会いした他の方も同じだった。

その方は、「強制的に連れて行かれた」体験を繰り返し語る方だったが、それでも「法的責任」の要求などは要らない、補償金を受け取れればいいと述べた。

驚きはなかった。すでにアジア女性基金を巡っておきた分裂と葛藤を知っていたので、そうした声の存在は十分に予想できることだった。

同時に、そうした声があるという理由だけで、長い歳月の間、この問題を様々に研究し考え、解決のために頑張ってきた支援者たちの考えが、当事者でないという理由だけで無視されるべきとも思わなかった。

長い歳月を当事者たちを支えてきた支援者たちは、半分当事者のようなものと考えたからである。

重要なのは、そうした声がこれまで「聞こえてこなかった」ということだった。私はそのことを再確認しながら、『和解のために』と『帝国の慰安婦』にを通しての私の試みが無力だったことを知った。

本を書いた重要な目標の一つは、この問題に関する元慰安婦の「もう一つの声」を伝えることだった。しかし、私の試みは依然として失敗したままだった。元慰安婦たちとの出会いは、わたしにはそう気付かざるを得ない時間でもあった。

その他の元慰安婦の方たち会うには、挺対協やナヌムの家を介さなければならなかった。すべての個人情報は支援団体が持っていたからである。

しかし、水曜集会に参加してきた私の教え子は、元慰安婦の方たちとは話すどころか接近さえできなかったと言った。元慰安婦が外部の人に会うことを極力避けているように見えたとも言った。

挺対協に私が直接連絡をとらなかったのは、挺対協が私を『帝国の慰安婦』刊行直後に早くも訴えようしていたことを知っていたからである。

本が発刊されて間もない頃、挺対協関係者が弁護士を呼んで私を訴えるべく相談したことを、私は二つの経路から知った。しかしこのとき相談した弁護士は、告訴に対して否定的だったと聞く。

ところが、2016年3月、私への起訴に抗議する声明を出してくれた日本の学者たちが開いてくれた討論会に出された李ナヨン教授の資料には、元挺対協代表の鄭チンソン教授と私の本をめぐって相談し、対応するだけの「価値がなかったため」対応しなかったと記されていた。

どちらが真実か、私は知らない。確実に言えるのは、最初の告訴状で指摘された100箇所以上の本の抜粋の中には、挺対協に関する記述が少なくないということである。

『帝国の慰安婦』は挺対協批判でもあるのだから、関係者たちの戸惑いも理解できないわけではない。私への告訴に踏み切ったのはそれから10ヶ月後のナヌムの家であり、挺対協が実際に関与したのかどうか、関与したとしてどのくらい関与したのかこれもまた私にはわからない。

しかし、仮処分と損害賠償裁判に出された原告側の書面と資料にあったのは、運動家と学者の顔・意見そのものだった。私の本を「虚偽」とみなすべき「証拠資料」として出されていた多くの資料が20余年の挺対協の活動のたまものであることは間違いない。

国連報告書の類は言うまでもなく、そこには河野談話さえ入っていた。慰安婦問題を否定する人たちを批判するために用意された全ての資料が、今度は私に向けて出されていた。現在進行中の刑事裁判でも、まったく同じ資料が提出されている。私を訴えようとした挺対協を介して元慰安婦の方たちに会うのは不可能にみえた。

そこで、私はもう一つの支援団体(福祉施設)であるナヌムの家に連絡した。挺対協と違ってそれまでは自分たちの考えを積極的に外に出すような活動をしてなかったので、考えを聞きたかったからでもある。

始めて電話で繋がったナヌムノ家の所長に、学期中でソウルから離れているナヌムの家まで行く時間がまだなかなか作れないので、近々ソウルに用事がある時は連絡してほしいと頼んだ。はじめ所長は、私に丁重に接した。

そしてある日、私の方でナヌムの家に行けそうだと電話で話したとき、当日自分は不在だが、事務局長と話したらいいと言ってくれた。

そこで私は、11月末のある日、先の日本人女性ジャーナリストと一緒にナヌムの家に行った。ホテルで会った方のうちのひとりがナヌムの家で暮らしていたので、その方とは再びの出会いとなった。

■ペ・チュニさんとの出会い

多くの学者が関係している挺対協も、私を告訴するつもりでいた。その考えが、本に対する反感によるものなのは確かだ。とはいえ、本そのものだけを原因として告訴を検討したという点では、まだよかったと言うべきかもしれない。

挺対協ではなくナヌムの家が、そして発刊直後ではなく10ヶ月も経ってから告訴に至った背景には、私とハルモニたちとの交流がある。そうした意味において、私が再びナヌムの家に行かなければ、告訴されることはなかっただろう。

また、その間に出会ったハルモニたちの声を社会に伝えるためのシンポジウムを翌年の春に開催しなければ、そしてそのシンポジウムについて日韓両国のメディアが好意的に注目することがなければ、告訴されることはなかったはずだ。

この告訴は、そうした意味において、本そのものが問題となった告訴ではない。私に対する警戒心が、私を告訴させた 。

つまり、支援団体の考えと異なる考えを有するハルモニと私が出会ったことが、告訴の遠因となった。原告側が私を警戒し危険視したということは、告訴状のあらゆる箇所に現れている。

支援団体は、彼らの主張と運動を私が妨害していると考えた。それだけではなく、ナヌムの家や挺対協に対する、一部のハルモニたちの不満を私が知ったことも、彼らが私を警戒したもう一つの理由だったのだろう。

だから、私はまず関係者たちに言いたい。私には関係者たちの長年にわたる苦労を貶めたい気持ちはない。長年続いた活動に、ましてや多くの人が集まって決めていく行動に、間違いがないはずはない。

だが、一つの方針を決めるためにはそのつど数多くの議論と悩みが存在したはずであり、(2016年9月4日に一橋大学で発表された山下英愛さんの発表資料、「日本軍「慰安婦」問題とオーラルヒストリー研究の・への挑戦」を読んで、私は活動家たちが証言集を作りながら、いろいろ思い悩んだことを知った )そうした苦悩と議論の時間に敬意を表したい。

また、運動を成功させるのための、私のあずかり知らぬ努力と涙にも。

しかし、同時に、私を訴えたナヌムの家の嘘と暴力を、学者や運動家など関係者たちが2年以上放置してきたことに対して深く失望せざるをえない。

検察が主導した調停委員会の調停過程において、私は、ナヌムの家から言われた、元慰安婦の方々への謝罪も考慮に入れていた。しかし同時に、支援団体も私に謝罪してほしいと私は要請した。それは、こうした思いからである。

告訴自体も納得できなかったが、告訴以上に、原告側による、「朴は、`慰安婦は自発的売春婦`と主張した」との枠組みのせいで私に浴びせられた、全国民的な非難と性暴力の欲望までも示していた罵倒を、女性の人権団体を標榜する支援団体が傍観し沈黙していることが、私には長い間信じられなかった。

20年以上慰安婦問題に関わってきた人たちのうち誰も、私に対する告訴を取り下げるようにと声をあげた人はいない。そのことは私自身のためにも悲しいが、こうした状況が昨今の韓国の問題的状況と無関係とは見えないことこそが、私には悲しい。

関係者たちはともすると政治家や経済人たちを非難するが、時に倫理をかけ離れる行動をするのはそうした人たちのみではない。どうしてそうなるのかについても今後書いていきたいとも思っている。

ナヌムの家には、日本政府が90年代に謝罪と補償のために設立したアジア女性基金関係者でもあった日本人たちとともに赴いた。彼らは、日本政府の予算でハルモニたちを温泉に連れて行ったり、料理をご馳走したり、お小遣いを差し上げていた。そのために年に何回か韓国を訪問しているということだった。彼らと知り合ったのは日本で「和解のために」の日本語翻訳本が出てからである