「減胎手術」という選択を迫られた人々の苦悩

『読売新聞』が掲載していた「『この道しか』減胎手術、苦渋の選択...自責も」という記事がいろいろ考えさせられたので、これについて少し。

『読売新聞』が掲載していた「『この道しか』減胎手術、苦渋の選択...自責も」という記事がいろいろ考えさせられたので、これについて少し。

1 記事の紹介

これは「諏訪マタニティークリニック(長野県下諏訪町)で、異常が見つかった胎児を選んで減胎する手術を受けた夫婦3組が、読売新聞の取材に応じ、苦渋の決断をした胸中を語った」ものです。

ある夫婦が、羊水検査の結果、ダウン症と診断されました。「主婦は、ダウン症のいとこがおり、おじおばが愛情を注ぎながらも、苦労する姿を見てきた」そうです。そのため「将来、私たち夫婦が亡くなったら、同時に生まれてきたきょうだいに大きな負担をかけてしまう」と減胎手術を受けました。

「亡くなった胎児は、火葬し、故郷のお墓に入れ」、無事生まれた女の子を連れて「墓参りのたび、『ここに妹がねんねしているよ』と、家族で手を合わせ」ているそうです。

また、ある主婦は、「排卵誘発剤による不妊治療で、三つ子を妊娠し」ました。しかし、流産の可能性が高かったことから、減胎手術を受けました。

ところが、「残った2人のうち1人がダウン症だとわかり、諏訪マタニティークリニックで2度目となる減胎手術を受けた」そうです。

この主婦は「欲しくてたまらなかった子どもなのに、自分たちの都合で、ひどいことをしていると自分を責めたけれど、この道しかなかった」と話していると記事では紹介されていました。

2 法律論

この問題は、本当に複雑な問題で様々な観点から論ずることができます。例えば、法学的に論じるとなると、法と現実のかい離の問題が指摘されます。

実際に、日本では刑法に堕胎罪の規定があり、母体保護法で列挙されている母性保護の観点からのみ中絶が許されているに過ぎません。

しかし、実際問題、未成年者の中絶件数を見てもわかるとおり、「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」という規定がかなり拡大解釈されてしまっている現実があります。

3 優生学

たぶんもっと難しいのがこの優生学的観点でしょう。確かに「優秀」なものが生き残るべきだという、社会進化論的考えは、ある意味資本主義的発想の根本原理と結びつきやすく支持を集めやすい発想でもあります。

では、だったら「優秀」でないものは、「淘汰」されるべきなのかというと、いつ自分自身が社会的弱者になるかわからない以上無条件に賛成できる人は多くないと考えます。

実際問題、そうした社会は常に「競争」にさらされている状態で、負ければ「淘汰」されるとなれば、誰が安心して暮らせるのかという話です。

それに何をして「優秀」と判断するかといった問題もあります。例えば「鎌状赤血球症」と呼ばれる、遺伝性の貧血病がありますが、この病気に罹患している赤血球ではマラリア原虫が増殖できないため、マラリアにかからないという長所があります。

この病気に罹患していても、普段は生活に支障はないとはいえ、貧血を起こしやすいため、マラリアが蔓延していない地域では、長所とはなりえません。

4 多様性

物事には何事にも長所と短所がありますし、上の例の様に、状況が変われば短所が長所になることもその逆の例を数多くある話で、一概に何をして「優秀」と判断できるのかという話もあります。

例えば、中国の大学生などが典型ですが、数が少ない時は「エリート」として振る舞えるわけですが、数が増えすぎてしまうとそうはならず、いろいろ別の選択肢をとる方が出てきます(中国で大学入試申込者が減っている原因)。

シュンペーターの提唱したように「エリート民主主義」的発想で、選挙で自分たちを指導してくれる素晴らしい「エリート」を選ぶという発想もありますが(ギリシャ危機と民主主義)、選挙の結果どういう人を選んでしまったかということを考えると、あまりこれもどうかと思います(田中眞紀子議員を例にした民主党の敗因)。

頭が良くても体が弱ければ話にならないこともあれば、その逆もあるわけですし、また、「障がい」と一言で言っても、程度問題があるわけで、大変難しい話です。

それに、私自身一つの価値観だけでは、人間生きづらくて仕方がないと考えています(ホリエモンのブラック企業「辞めれば」発言は理解できるか?)。

本当にいろいろ違いがあるから時には衝突も起こるものの、社会は複雑で面白くなると考えているので、こうした「優秀」かどうかという観点から他人を排除するというのは、基本的に受け入れ難い発想です。

5 最後に

ただ、障がいを持った子供を育てられている方々の「努力」(努力と言って良いのかどうかわかりませんが)は、私ごときがどうこう言える話ではありません。

そして、それを背負う選択を課せられた方々の選択も大変難しい問題で、これについてもそうした場所に立ったことのない、私ごときがどうこう言える話ではなく、他人には立ち入れない問題というのはあるのだと改めて思った次第です。

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