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「遺書」を書いていた春名風花氏

2013年08月13日 23時53分 JST | 更新 2013年10月13日 18時12分 JST

『RBB TODAY』に「はるかぜちゃん、遺書を書いていた......『いつ死んでも悔いがないように』」という記事が掲載されており、いろいろ思うところがあったので、これについて少し。

1 いじめについて

タレント・声優の春名風花氏(かなり見事な意見を発言しておられるので、あえて敬意をこめて「氏」と言わせてもらいます)の発言というと、以前『朝日新聞』の特集《いじめている君へ》でかなり印象に残る発言をしておられました。

そこで彼女は、ツイッターなどでの中傷について、「涙が出ないくらい苦しくて、死にたくなる日もあります」と述べています。

その一方で、「ぼくがいくら泣こうが、本当に自殺しようが、その人たちが何も感じないことを知っている」し、いじめる子に想像力はないから「その子が死んでも、また他の子でいじめは続く」という分析もしています。

そして、春風氏が生まれた時に、うれしくてすごく泣いてくれたパパとママがいる様に、人にはそれぞれ皆自分を大事に思ってくれる人がいて、いじめをしている人に対しても、「君を育ててきた、君のお父さんやお母さんが、今の君を見てどう思うのか」と述べています。

2 遺書について

これだけ「死」というものについてきちんと考えてこられた方が「遺書」を書いていたというので、結構考えてしまいました。

彼女が書いた理由というのが、「『いつ死んでも悔いがないように』大切な人への感謝の言葉や、嫌な人に言えずにいた言葉などをつづっている」ためだそうです。

この話を読んで思いだしたのが、確か向田邦子の話です(大分前に聞いた話なので向田邦子だと思ったのですが、まちがっていたらすいません)。旅行にできるときに何があっても良い様に部屋を片付けてから旅行に出るようにしていたそうです。

3 遺されたもの

当たり前すぎる話ですが、「死んだらそれでお仕舞い」です(当たり前だけど死んだらお仕舞い)。いじめの被害者が自殺をするという痛ましい事件が起こっておりますが、私はどう考えても割が合わないと思っています。

自分の可能性は自分でつかんで、切り開いていくしかないわけです。しかし、自殺はそれを全て終わりにしてしまうわけで、今まで自分で頑張ってやってきたことや、集めたものなど、すべてがそこで終わってしまうことになります(のこされたもの)。

子供を亡くされた親御さんが当時のまま部屋を残しておくことがありますが、まさにその状態で、見るとかなりつらいものがあります。

人はいつ死ぬかわからないわけで、それは私自身も同じです。余談ですが、かなり私好みのブログを書かれていた方がいて、殆ど毎日お邪魔していたのですが、ある日を境に更新がいきなり止まったままで、どうしてしまったのかと心配している方がいます。

もし私に何かあれば(死ななくとも長期入院とかになれば)、多分同じような状態になるのかと思うと、何とも言えない気分です。

4 自分の死を考えるということ

確かに、自分の「死」を考えるということは極めて大事なことで、死ぬまでに何ができるか、何をしたいかということを考えると、私自身、絶望的なほど何もしていないことに唖然としてしまいます。

人は目標がなければ漫然と日を送ってしまいがちで、いろいろ目標を作るのはとても大事なことです。

「死」はある意味究極の目標なので、同じように死ぬまでに何ができるかを考えるということも時には必要かと考えます(女囚が死刑執行される前の写真)。

そして普段から、そうしたことを考えていれば、春風氏の言うように、自分を大事に思ってくれている人のことも思い浮かぶのではないでしょうか。

5 最後に

「死」は誰にでも訪れるもので(現実には重さが異なる命と平等に来る死)、極端な話、70億の1つにしかすぎないので、知らない人が亡くなってもあまり心が動きません。

ネットのブログも同じで、これだけ多くのブロガーが活躍している現在、1つのブログの更新がとまろうが、新たに始まろうが普段は気にもなりません。

しかし、自分の身近な「死」は自分に大きな影響を及ぼすように、自分が普段読んでいるブログの更新が止まれば、やはり気になります。特に東日本大震災の後、更新の止まったブログを見ると、いろいろやりきれない思いになります(行方不明者の死亡届)。

こうした思いは他人に対する思い入れ(感情)があってはじめて思い描けるもので、春風氏の言うとおり、いじめをする人にも「想像力」でもって知ってほしいところです。

(※2013年8月14日の「政治学に関係するものらしきもの」より転載しました)